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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 「私、がんになっちゃいました」
 という話じたいはもう珍しくない。
 ネットを検索すれば、「がん闘病記」のブログなりサイトなりが山のように出てくる。
 読んでみると、どれも「病気に負けず、明るく前向きに治療に取り組んでます」といった内容が多い。

 読みながら思う。
 そんなふうに私もなりたかった。
 いや、そうではない。
 私だって昔はそうだったのだ。
 ネットのない時代だったから、ブログで発信こそしなかったけれど、来る日も来る日もとりつかれたように日記を書き続け、「絶対に元気になってやる」と自分をふるいたたせ、元気づけ、つらい治療を乗り越えた。
 健康になることだけをまっすぐに考えて頑張った。

 でもそのときの初々しい気持ちは今はもうもてない。
 あれから21年。
 私はあまりにも多くのことを経験しすぎた。
 純粋に「病気を治すこと」だけを考えられたらもっともっと楽になれるのに。

 5日前、私は「乳がん」の告知を受けた。
 乳がんになったのは初めてだが、がんになったのはこれが初めてではない。
 つまり二度目のがんだ。
 もちろん、それはショックな出来事だが、一番苦しいのは「病気」そのものではなかった。
 もっと正確に言うと「病気」と向き合う前に乗り越えなければならない問題が私にはあった。
 そのことに5日目にして気がついた。

 私がかかっているのはL病院という都内有数の大学病院だ。
 そこで治療すると言うと、周囲の友人・知人・親戚は口を揃えて「信じられない。どうしてそんなところで治療するのよ」と驚く。
 なぜなら、その大病院は、ついこの間まで私が訴訟を起こしていた相手だからだ。

 私が最初にかかったがんは「悪性リンパ腫」だった。
 今から21年前。25歳の春のことだ。
 悪性リンパ腫には「ホジキン」と「非ホジキン」というタイプがあり、日本人がかかるリンパ腫はほとんどが「非ホジキン」だが、私のリンパ腫は「ホジキン」だった。

 今でこそ治癒率は上がっているが(国立がんセンターのサイトによれば80〜90%)、当時の5年生存率は3割という数字だった。
 今考えると、天下のL病院ですらあまりホジキンの治療例はないようだった。
 まだ若かった私は、「本人告知」をしないという方針で治療を進められた。
 ネットでどんな情報でも入手できる今となっては、告知せずに抗がん剤や放射線治療を受けるなんてまず無理だろうが、その頃は医者からの情報が唯一絶対だったし、それに疑問や異論を投げかけるなんてありえない時代だったので、私は医者の言うことをひたすら信じて治療に耐えた。

 治療の甲斐あってホジキンは治癒した。
 しかし、それは「ゴール」ではなかったのである。
 その後も私の人生は続いた。
 それがどんな人生になるのかまったく知らされないままに…。

 詳細はこれから少しずつ書いていくが、一言で言うとL病院は「かなり」無茶な治療をした。
 21年前の医療水準の限界とかそういう問題では片付けられない内容の治療だ。いくらホジキンが難治性の病気であっても許される範囲というものがある。
 私にとっては、これが第一の罪。

 その後、その治療が原因で、私は左腕の麻痺を中心とする後遺障害に苦しめられることになった。
 しかし、L病院はいくら麻痺を訴えてもとりあってくれず、あちこちの科をたらいまわしにしたあげくに責任の所在をうやむやにした。
 説明も原因究明もしようとせず、7年間も患者を放置した。
 私にとっては、これが第二の罪。

 後遺症が出てから7年、初めて過去の放射線治療に後遺症の原因があることを説明してくれる医師が現れた。
 寝耳に水の話に驚いた私は、詳しい説明とカルテ開示を求めたが、病院はなんだかんだ理由をつけて開示を妨害しようとした。
 やむをえず、私は弁護士をたててカルテの保全を行った。
 膨大な量のカルテに目を通した結果、思った以上に杜撰な内容に驚いた。
 読めば読むほど疑問が山のようにわいてきて、同時に怒りがわきおこった。

 悩んだ末、私は訴訟をおこした。
 20年近くかかっている病院(しかも現在もかかっている)を訴えるのは相当の覚悟が必要だった。が、それでもこのまま見過ごすわけにはいかないほどひどい状況だったのだ。
 裁判になっても病院は絶対に非を認めないという話はきいていたので、「裁判でもなんでもやってみろ。こっちは悪くない」とつっぱねるかと思いきや、先方の代理人はあっけなく初回から「和解」を提案してきた。
 といって「こちらが悪かった」という態度ではない。
 まるでうるさいハエでも追い払うように、「金は払うからさっさと終わりにしてくれ」といわんばかりの態度だった。

 医療裁判を起こす人が皆そうであるように、私がほしいのは納得のいく説明だった。
 自分がなにをされてどういう状態になったのか、そして今後どうなっていくのか、それが一番知りたいことだった。
 しかし、L病院は矛盾だらけのその場しのぎの言い逃れに終始し、肝心の点には「ノーコメント」を通し、ついに最後までこちらの疑問に正面から答えてくれることはなかった。
 これが私にとって第三の罪だ。

 和解ではなく裁判にすることも何回も考えたが、裁判になれば証人が必要になる。
 こちらの言うことを立証してもらえないかとあちこち話をききまわったが、得られた結論は「医者(病院)は絶対に医者(病院)を敵にはまわさない」ということだった。
 さらに、「裁判官はできる限り和解にしようとする」という身もふたもない現実も…。

 和解を受け入れるには、これまた訴訟を起こす以上に勇気が必要だった。
 「過去のことは忘れて、早く将来のことを考えられるようにしたほうがいい」と周囲には勧められたが、なかなかそのように考えられなかったのは、放射線による後遺障害が何十年たっても出ること、今後も進行する可能性があること、麻痺以外にもべつのリスクが生じる可能性もあることが、調べていくうちにわかったからだ。

 これ以上進行しない障害なら、「過去よりも未来の方が大事なんだからもう過去のことは忘れて」と自分の中で気持ちを切り替えることもできたかもしれないが、将来のリスクを棚上げされたまま、「もう今後一切過去のことは問題にしません」と約束させられるのはどうしても納得できなかった。
 今は「しかたがない」と思えても、あとでなにかが起こったときに後悔するんじゃないかと思うとなかなか和解にふみきる気にはなれなかった。
 実際、訴訟をおこしている間にも麻痺やむくみの状態はじわじわと悪くなっていき、不安を増幅させた(訴訟を起こしたときにはまだキーボード入力は両手でできていたのだが、今は完全に右手しか使えなくなった)。
 結局、3年半ねばった末、私は和解を受け入れた。

 その1ヶ月後、おそれていたことがあっけなく現実になった。
 私が懸念していたことのひとつに「ホジキンで30歳前に放射線治療を行った女性は後に乳がんが出現する確率が高い」というデータがあったのだが、L病院で乳がんを発見されたのだ。
 当然、この因果関係は100%とは言えないので、病院は「二次発がん」とは絶対に言わないだろうが、通常以上に放射線を照射されているのだからまったく因果関係がないとは私には思えない。
 病気はしかたがないことだが、人災によってひきおこされた部分があると思うとあらためて怒りとやりきれなさでいっぱいになった。

 周囲の友人のなぐさめはありがたかったが、なぜか「頑張って治療してね」と言われるたびに私の中に違和感が芽生えていった。
 そんなとき、ある友人からのメールに「過去には戻れないんだから、前向きに考えるしかないよ」といった言葉が書かれていたのを見てはっとした。
 その瞬間、わかったのだ。違和感の源に。

 過去には戻れない。そんなことはわかっている。
 でも今の私にとって、21年間の歴史は将来よりも重いのだ。
 だから前向きになれない。
 「私、治療したくないんだ」
 その気持ちに気づいて愕然とした。
 正確に言うと「この病院で治療されたくないんだ」という気持ちだ。

 もちろん、私だって喜んでL病院の世話になろうと思ったわけじゃない。
 でも考えてほしい。
 これだけリスクを背負ってしまった患者をひきうけてくれる病院なんてあるだろうか。
 化学療法も放射線治療も目一杯やってて、後遺症もあって、医療訴訟も起こしてて…なんて厄介な患者、絶対誰も診たくないだろう。
 過去の治療データも膨大で、同じ院内でも引き継ぎされたドクターはめんどくさがってよく読んでくれなかったのに、なんのゆかりもないよその病院がまじめに読むとは思えない。

 じつは一度、某病院の放射線専門医に知人を通して「診てほしい」と頼んだことがあるのだが、「そんな患者にかかわるな」と釘を刺されたらしく、その知人じたいが連絡してこなくなってしまった。
 くいさがって問いつめたら「治療した病院が最後まで責任とるのが筋だろうと言われた」という答えが返ってきた。

 だから私はL病院で治療するしか選択肢はないのだ。
 最初のがんなら自由に病院を選べるけど、病歴が長ければ長いほどしがらみができてしまう。
 たとえ今他の病院に行っても、「過去のデータが揃ってるもとの病院で治療したほうがいいんじゃないですか?」と言われるのは目に見えている。
 そう自分に言い聞かせ、「どうしてまたL病院で?」と聞かれるたびに「既往歴がありすぎるし、今さらよそへは移れないんだ」と周囲にも説明してきた。
 しかし、そう説明しておきながら、じつは自分がそのことに一番納得できていなかったのだ。

 訴えた病院にまた世話になる。
 保身と牽制と責任逃れが最初から目につく状態から治療をスタートする。
 私は乳がんよりもそのことのほうが苦痛なんだと気づいた。
 やはり自分にうそはつけない。
 認めるしかない。
 が、認めたらさらに悩みが深まった。

 こんな精神状態で治療を受けていいのだろうか……。

拍手[9回]

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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