がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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秋吉先生(仮名)の外来を受診し、私ははっきりと「L病院で治療を受けるのはやめよう」と心に決めた。
翌日、私が誕生して以来の皆既日食が起こり、それを目撃しながら「これを機に私も生まれ変わるんだ」と自分に暗示をかけた(下の写真は家のベランダから撮影)。
まずは南田先生(仮名)に自分の気持ちを率直に話してみよう。
秋吉先生があてにならないことははっきりしたのだから。
それこそ「どこまでご理解いただけるのか」わからないが、どの病院に移るにせよ、L病院からの紹介状がなければセカンドオピニオンすら受けられないのだ。
私の置かれた状況を少しでも理解してくれる医師をL病院の中でみつけなければならない。
うっかり心証を害されたら、紹介状にもなにを書かれるかわかったものではない。
元の病院でいざこざを起こしてよその病院に移ろうとした患者が、セカンドオピニオンを妨害されたという話は決して珍しくない(その場合、相談先の病院に「うちに来てもやることは同じだし、元の病院で治療したほうがいいのでは?」とやんわり押し戻されることもある)。
南田先生は24日なら時間がとれると言っていたので、とにかく24日に、何時でもいいからゆっくり話せる時間をとってもらおうと電話を入れたところ、「外来診療後なら…」とアポを入れてくれた。
それまでの2日間、私は気合いを入れて「乳がん」について情報収集しまくった。
ネットで調べるだけではなく、医療関係者の知り合いや、乳がん経験者の知り合い、がん患者サポートの相談受付など、電話もかけまくった。
望む情報は一度には入ってこなかったが、ひとつひとつは不完全な情報でも、集めるうちにだんだんと輪郭が見えてきた。
乳がん経験者といえば母が一番身近で、乳がん関係の本や資料などもうちにはあったのだが、4年半前の資料はどれもすでに情報が古かった。
日本はまだまだ乳がん後進国であり、人気の病院も最新の治療法も、日々更新され続けている。
7月24日。この日は朝から漢方をもらいに行き、リンパマッサージに行き、鍼治療を受け、最後に南田先生と会う…というハードスケジュールの一日だった。
外来を終えた南田先生の診察室に呼び入れられたのは6時すぎだった。
最初はセカンドオピニオンの紹介状の話から。
いろいろ調べた結果、有明と聖路加に意見を聞きに行くことにしたと話したところ、即座に2軒分の紹介状を作成してくれた(紹介状の中身もその場で見せてくれた)。
標本についてはすぐには用意できないが、7月中には用意できるようにするとのこと。
南田先生は、セカンドオピニオンを受けにいくことに関してはまったく抵抗がないようで、非常に協力的だった。
まずは紹介状をもらうことができて一安心。
続いて、治療法についての相談に入った。
私はできるだけ正直に、今の気持ちを先生に語った。
外からはわかりにくいだろうが、前の治療の後遺症で、今は毎日の日常生活を送るのも大変な状況であるということ。
特に左腕の麻痺と鎖骨まわりの硬化は全身に影響を与えており、QOL(生活の質)も著しく損なわれているということ。
そのことをここの病院は一度としてまともにとりあってくれなかったということ。
ましてや症状を緩和することに関しては無力に等しいということ。
今は、漢方や鍼など、東洋医学の力を借りてやっとこさっとこ生活しているが、もしこのまま症状が悪化したら、将来ひとりで暮らすことも難しくなるのではないかと常に不安を抱えているということ。
そのような状態で外科手術を受けたり、化学療法を行ったりしたら、後遺症に拍車がかかってまともに生活が送れなくなるのではないかと心配でたまらないということ。
これが初めてのがん治療ならば、もっと前向きに治そうと思えたかもしれないが、がん治療の結果、今のような状態がもたらされたと思うと、なかなかこれ以上の治療を受ける気になれないということ。
「全摘すれば安心だから」と軽く言われたが、私はその昔、ここの病院で「放射線をかけておけば安心」と言われて、言われた通りに治療を受けたが、その結果はご覧の通りで、毎日後遺症に苦しんでいる。「安心」という言葉を聞くと、そのことを思い出してかえって不信感が募ってしまうということ。
南田先生に不満があるわけではまったくないが、この病院で治療を受けることに関しては複雑な思いがあり、心理的に抵抗があるのは否定できないということ。
南田先生は想像以上に真剣な様子で話に耳を傾け、「それは…そんな経緯があるならそう思うのは当然だと思いますよ」と私の思いを受け止めてくれた。
話をきくと、たしかにその状態で全摘はつらいと思うし、メスを入れること自体に躊躇があるのもわかる。化学療法にしても、唯一使えるタキサン系は「末梢神経にかなりしつこいしびれが残る」という副作用が報告されているので、すでに麻痺と浮腫が進んでいる状態で使うのは憚られる。この病院では標準治療(全摘+化学療法とホルモン療法)しかすることはできないが、標準治療外の治療を積極的に行っている病院もたくさんあるので、いろいろな病院の意見をきいてみてはどうか。
そう言ってくれた。
さらにひとつの提案として「術前ホルモン療法」という治療法も教えてくれた。
ホルモン療法といえば、術後に再発予防のために数年間投与するものだが、最近は術前に半年ほど投与するという方法が注目されているのだという。
そのメリットはおもに2点ある。
1つ目は、「術前に病巣をできるだけ小さくして、外科手術の負担を減らせる」ということ。
「術前化学療法」も同じ考え方で行われている治療法だが、一般的に、ホルモン療法は化学療法ほど顕著な効果はないと言われているため、大きな腫瘍を術前に短期間でできるだけ小さくしたいという目的ならば、「化学療法」が選択されることのほうが圧倒的に多い。
しかし、実際は、化学療法でも人によっては効かない場合もあるし、薬が合えばホルモン療法でも充分縮小効果が認められることがあるので、必ずしも化学療法>ホルモン療法というわけではないらしい。
2つ目のメリットは「薬の効果がたしかめられる」ということ。
当然のことだが、手術後はがんの病巣は取り除かれているので、その状態で抗がん剤なりホルモン剤なりを投与しても、本当にその薬が再発予防に効いているのかは証明できない。
しかし、まだがん細胞が目に見えているうちに薬を投与すれば、その薬が効いているのかいないのかははっきりわかる。
効かないようなら薬を変えればいいし、明らかな縮小効果が見られるようなら、術後にもう一度その薬を使えば予防効果が見込める。
効いてるのか効いてないのかさだかでない薬を、高いお金を払い、きつい副作用を我慢しながら続けるのはたしかに不合理だ。
特にホルモン剤は、術後5年間という長期間にわたって服用するので、合わない薬を飲み続けることはQOLにも影響する。
以上の理由から、最近はそれほど大きな腫瘍でなくても、術前に薬を投与するケースが増えてきているのだという。
ただし、これはまだあくまでも「標準外の治療」。
標準治療では、ホルモン療法は術後に行うことになっている。
南田先生は、私の場合、ホルモンの感受性が非常に強いタイプのがんであることがわかっているので、ホルモン療法は最優先で使ってみる価値があるという。
その結果、腫瘍の縮小が認められれば、外科手術のダメージも最小限に抑えられるし、もしかしたら手術なしでもいけるかもしれないと言われて驚いた。
手術なしなんて考えもしなかったが、乳がん先進国アメリカでは、「乳がんはいずれ手術なしで治せる時がくる」と言われているらしい。
南田先生の話をきいて、気持ちが随分落ち着いてきた。
事態はなにも変わっていないのだが、先生の対応ひとつで帰りの患者の足取りは重くも軽くもなる。
秋吉先生の診察後とはなんという違いだろう!
考えてみれば、これって逆ではないだろうか。
今までの事情をよく知らない外科医は「全摘すれば安心なんだから、ごちゃごちゃ言わないで全摘、全摘」と言い、今までの事情をよく知る放射線科医は「そこをなんとか他の可能性も考えてほしい。放射線はもう使えないが、術前ホルモン療法ならばあるいは手術しない道も開けるのではないか」と患者目線で外科医を説得する。
これならわかるが、まったく逆ってどういうこと?(笑)
とにかく、南田先生が事情を理解してくれて本当に気が楽になった。
L病院で治療を受けたくない気持ちに変わりはないが、窓口になってくれるドクターがみつかったことで、孤立無援の精神状態からは脱却できた。
週が明けたらさっそく病院を探そう……。
漂流の旅は始まったばかりだ。
翌日、私が誕生して以来の皆既日食が起こり、それを目撃しながら「これを機に私も生まれ変わるんだ」と自分に暗示をかけた(下の写真は家のベランダから撮影)。
まずは南田先生(仮名)に自分の気持ちを率直に話してみよう。
秋吉先生があてにならないことははっきりしたのだから。
それこそ「どこまでご理解いただけるのか」わからないが、どの病院に移るにせよ、L病院からの紹介状がなければセカンドオピニオンすら受けられないのだ。
私の置かれた状況を少しでも理解してくれる医師をL病院の中でみつけなければならない。
うっかり心証を害されたら、紹介状にもなにを書かれるかわかったものではない。
元の病院でいざこざを起こしてよその病院に移ろうとした患者が、セカンドオピニオンを妨害されたという話は決して珍しくない(その場合、相談先の病院に「うちに来てもやることは同じだし、元の病院で治療したほうがいいのでは?」とやんわり押し戻されることもある)。
南田先生は24日なら時間がとれると言っていたので、とにかく24日に、何時でもいいからゆっくり話せる時間をとってもらおうと電話を入れたところ、「外来診療後なら…」とアポを入れてくれた。
それまでの2日間、私は気合いを入れて「乳がん」について情報収集しまくった。
ネットで調べるだけではなく、医療関係者の知り合いや、乳がん経験者の知り合い、がん患者サポートの相談受付など、電話もかけまくった。
望む情報は一度には入ってこなかったが、ひとつひとつは不完全な情報でも、集めるうちにだんだんと輪郭が見えてきた。
乳がん経験者といえば母が一番身近で、乳がん関係の本や資料などもうちにはあったのだが、4年半前の資料はどれもすでに情報が古かった。
日本はまだまだ乳がん後進国であり、人気の病院も最新の治療法も、日々更新され続けている。
7月24日。この日は朝から漢方をもらいに行き、リンパマッサージに行き、鍼治療を受け、最後に南田先生と会う…というハードスケジュールの一日だった。
外来を終えた南田先生の診察室に呼び入れられたのは6時すぎだった。
最初はセカンドオピニオンの紹介状の話から。
いろいろ調べた結果、有明と聖路加に意見を聞きに行くことにしたと話したところ、即座に2軒分の紹介状を作成してくれた(紹介状の中身もその場で見せてくれた)。
標本についてはすぐには用意できないが、7月中には用意できるようにするとのこと。
南田先生は、セカンドオピニオンを受けにいくことに関してはまったく抵抗がないようで、非常に協力的だった。
まずは紹介状をもらうことができて一安心。
続いて、治療法についての相談に入った。
私はできるだけ正直に、今の気持ちを先生に語った。
外からはわかりにくいだろうが、前の治療の後遺症で、今は毎日の日常生活を送るのも大変な状況であるということ。
特に左腕の麻痺と鎖骨まわりの硬化は全身に影響を与えており、QOL(生活の質)も著しく損なわれているということ。
そのことをここの病院は一度としてまともにとりあってくれなかったということ。
ましてや症状を緩和することに関しては無力に等しいということ。
今は、漢方や鍼など、東洋医学の力を借りてやっとこさっとこ生活しているが、もしこのまま症状が悪化したら、将来ひとりで暮らすことも難しくなるのではないかと常に不安を抱えているということ。
そのような状態で外科手術を受けたり、化学療法を行ったりしたら、後遺症に拍車がかかってまともに生活が送れなくなるのではないかと心配でたまらないということ。
これが初めてのがん治療ならば、もっと前向きに治そうと思えたかもしれないが、がん治療の結果、今のような状態がもたらされたと思うと、なかなかこれ以上の治療を受ける気になれないということ。
「全摘すれば安心だから」と軽く言われたが、私はその昔、ここの病院で「放射線をかけておけば安心」と言われて、言われた通りに治療を受けたが、その結果はご覧の通りで、毎日後遺症に苦しんでいる。「安心」という言葉を聞くと、そのことを思い出してかえって不信感が募ってしまうということ。
南田先生に不満があるわけではまったくないが、この病院で治療を受けることに関しては複雑な思いがあり、心理的に抵抗があるのは否定できないということ。
南田先生は想像以上に真剣な様子で話に耳を傾け、「それは…そんな経緯があるならそう思うのは当然だと思いますよ」と私の思いを受け止めてくれた。
話をきくと、たしかにその状態で全摘はつらいと思うし、メスを入れること自体に躊躇があるのもわかる。化学療法にしても、唯一使えるタキサン系は「末梢神経にかなりしつこいしびれが残る」という副作用が報告されているので、すでに麻痺と浮腫が進んでいる状態で使うのは憚られる。この病院では標準治療(全摘+化学療法とホルモン療法)しかすることはできないが、標準治療外の治療を積極的に行っている病院もたくさんあるので、いろいろな病院の意見をきいてみてはどうか。
そう言ってくれた。
さらにひとつの提案として「術前ホルモン療法」という治療法も教えてくれた。
ホルモン療法といえば、術後に再発予防のために数年間投与するものだが、最近は術前に半年ほど投与するという方法が注目されているのだという。
そのメリットはおもに2点ある。
1つ目は、「術前に病巣をできるだけ小さくして、外科手術の負担を減らせる」ということ。
「術前化学療法」も同じ考え方で行われている治療法だが、一般的に、ホルモン療法は化学療法ほど顕著な効果はないと言われているため、大きな腫瘍を術前に短期間でできるだけ小さくしたいという目的ならば、「化学療法」が選択されることのほうが圧倒的に多い。
しかし、実際は、化学療法でも人によっては効かない場合もあるし、薬が合えばホルモン療法でも充分縮小効果が認められることがあるので、必ずしも化学療法>ホルモン療法というわけではないらしい。
2つ目のメリットは「薬の効果がたしかめられる」ということ。
当然のことだが、手術後はがんの病巣は取り除かれているので、その状態で抗がん剤なりホルモン剤なりを投与しても、本当にその薬が再発予防に効いているのかは証明できない。
しかし、まだがん細胞が目に見えているうちに薬を投与すれば、その薬が効いているのかいないのかははっきりわかる。
効かないようなら薬を変えればいいし、明らかな縮小効果が見られるようなら、術後にもう一度その薬を使えば予防効果が見込める。
効いてるのか効いてないのかさだかでない薬を、高いお金を払い、きつい副作用を我慢しながら続けるのはたしかに不合理だ。
特にホルモン剤は、術後5年間という長期間にわたって服用するので、合わない薬を飲み続けることはQOLにも影響する。
以上の理由から、最近はそれほど大きな腫瘍でなくても、術前に薬を投与するケースが増えてきているのだという。
ただし、これはまだあくまでも「標準外の治療」。
標準治療では、ホルモン療法は術後に行うことになっている。
南田先生は、私の場合、ホルモンの感受性が非常に強いタイプのがんであることがわかっているので、ホルモン療法は最優先で使ってみる価値があるという。
その結果、腫瘍の縮小が認められれば、外科手術のダメージも最小限に抑えられるし、もしかしたら手術なしでもいけるかもしれないと言われて驚いた。
手術なしなんて考えもしなかったが、乳がん先進国アメリカでは、「乳がんはいずれ手術なしで治せる時がくる」と言われているらしい。
南田先生の話をきいて、気持ちが随分落ち着いてきた。
事態はなにも変わっていないのだが、先生の対応ひとつで帰りの患者の足取りは重くも軽くもなる。
秋吉先生の診察後とはなんという違いだろう!
考えてみれば、これって逆ではないだろうか。
今までの事情をよく知らない外科医は「全摘すれば安心なんだから、ごちゃごちゃ言わないで全摘、全摘」と言い、今までの事情をよく知る放射線科医は「そこをなんとか他の可能性も考えてほしい。放射線はもう使えないが、術前ホルモン療法ならばあるいは手術しない道も開けるのではないか」と患者目線で外科医を説得する。
これならわかるが、まったく逆ってどういうこと?(笑)
とにかく、南田先生が事情を理解してくれて本当に気が楽になった。
L病院で治療を受けたくない気持ちに変わりはないが、窓口になってくれるドクターがみつかったことで、孤立無援の精神状態からは脱却できた。
週が明けたらさっそく病院を探そう……。
漂流の旅は始まったばかりだ。
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カウンター
お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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