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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 まるで熱い風船みたいだった。
 咳をするたびに中にたまった熱でどんどんふくらんでいく重い風船。
 風船だからベッドの上に横になっても体を預けられない。
 起き上がっても動いても風船だから地面に垂直にくっついてる感じがしない。

 七瀬さん(仮名)が来てくれた水曜日はその苦しさのピークだった。
 七瀬さんは置き鍼をねばり強くやってその熱と空気を抜いてくれた。
 体の中で行き場を失って苦しんでいる不要な空気が、最終的には「ゲップ」となって口から出てくるのが目標だが、ここまで体力が落ちているとそう簡単に上まであがってきてくれない。
 なんとか出口をみつけようと胃のあたりでもがいている空気が口から出てくるまでは何十分もムカムカして非常につらかった(不思議とその間は咳は出ない)。
 が、いったん出てきたら次々にポコポコとお魚のように空気が出てきて、治療が終わる頃にはなんとか人心地ついた状態になった。

 金曜日の院長の治療では少し受け入れ体力が回復したと判断されたのか、より刺激の強い「お灸」を使った。
 これはさすがに強力で、ムカムカは夜中まで続いた。

 土曜日(昨日)の七瀬さんの治療ではようやくムカムカなしで空気が出るようになった。
 まだまだ咳は出るが、しゃべれる時間も出てくるようになってきた。
 帰るときに「ちょっとしゃべれるようになったからっていい気にならないように」と釘を刺されたが、七瀬さんは自分がもともと超おしゃべりなので、うっかり治療中におしゃべりにのってしまった自分をも戒める意味もこめて言った模様。
 その点、院長はよけいなことはいっさいしゃべらないので安心。

 わかっているのだ。
 しゃべるのも、タイピングも負担になるということは。
 特に鍼の直後は体力をためる大事な時間なのでできるだけじっとしていなきゃいけないことも。

 でも「おとなしくして早くよくなってからやればいい」という選択肢は多分ないから。
 これだけ具合の悪い日が続いてたら誰だってそう思うだろう。
 ちょっとでも回復したら「今書かなきゃもう書けなくなる」と思って書いてしまう。

 『闘病、いたしません。』はようやく第2部(がん治療終了の部分)まで書いた。
 この先はいよいよ「がん治療がなにをひきおこすのか」「そのとき医者は助けてくれるのか」という核心部分に入る。

 ヨレヨレになった右手だけのタイピングはたしかに疲れる。
 でもしゃべるのも苦しいから口述筆記も音声認識も無理。
 手書きにいたってはもはや自分でも何書いてんのか読めない。

 やっぱり地道にタイピングしかない。
 どこまで残せるのかは運次第だ。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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