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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 胃がちぎれるように痛くなって、血尿が出た翌日。
 私は一条先生(仮名)の外来に駆け込み、「入院させてくれ〜」と訴えた。
 が、答えは「NO」。
 理由は「結石にする治療はない。治療しないのに入院させるわけにはいかない」。

 え〜〜〜!!!!

 痛みをとるのだって治療じゃないの?
 胃がやられて鎮痛剤飲めないんだから、点滴で入れるしかないじゃん!
 と言ったら「痛くなったら来てください」と警察のようなことを言われる。

 だ・か・ら〜!

 えーと……ですね、近日中に起こるであろう突発的な痛みに対する恐怖っていうのがまずあるわけですよ。
 それはわかりますよね。
 で、それがきたとき、病院に来るだけでも大変なわけですよ。
 さらに待たされるわけですよ。
 先生の前にたどりつき、事情を訴えられる状況になるまで関門がいくつもあるわけですよ。
 そのうえ、血管つぶれちゃってて点滴もなかなか入らないわけですよ。
 薬が入る頃にはもうピークすぎてますよ。ですよね?
 今ここにこうやって診察室に入らせてもらえて訴えられる状況にいるっていうのは、先生にとってはいきなり始まる状況にすぎないかもしれないけど、こっちにとっては待って待って待った末に手に入れた「チャンス」なんですよ。
 なのに、そんな当たり前の結論だけ言われて終わりにされても……!

 というようなことをくどくど言ったら、

 「……じゃあ、ポート埋め込みする?」

 えーーー、そっちーーー???
 とがっっっっくり脱力_| ̄|○

 ポートっていうのは、末梢の血管からラインをとるのが困難な人、あるいは抗がん剤などで血管がボロボロになってるのに頻繁に採血や点滴をおこなわなくてはならない場合に、血流の良い中心静脈(心臓ゆきの一番太い静脈)にカテーテルを埋め込んで作る点滴用ルートのこと。
 カテーテルの末端にはシリコン製のリザーバーがついていて、それを鎖骨の下あたりの皮下に埋め込む。
 血管を造影しながらカテーテルを進めて行くため、埋め込むためには局所麻酔の手術が必要だが、一回留置すれば血管直結状態が保持されるので、リザーバーに針を刺しさえすればアクセスし放題。点滴のラインとるのにいちいち静脈探して四苦八苦という苦痛から解放されるという次第。
 私が「点滴なかなか入らないし」と言った部分だけをすくいとって返したんだと思うけどそういうことを言ってるんじゃないんだよ。

 たしかに、抗がん剤みたいに定期的に点滴が必要な状況になるとか、入退院を繰り返すような状況になったら私もポート留置は考えなくもない。
 でも、今回はとりあえず「今動いて出ようとしている石」がどうにかなるまでどうにかしてっていう話だから、そのためだけにポート留置の手術受けるってさすがにそこまではと思うわ。
 何年も埋め込みっぱなしというのも抵抗あるし。

 一条先生はすっかりその気になって模型を手にマニュアル通りの説明を始めているが、いくら聞いてもそんなに簡単に受けていい手術だとは思えなかった。
 「だいたい血管造影する針って通常の点滴針より太いですよね。それ入れるのからして無理っぽくないですか?」
 「……」
 「まず造影剤入れるルートを確保するためのポート留置が必要ですよね」
 自分でも何を言ってるのかよくわからなくなってきた。
 「それに鎖骨の下を通過させるっていうけど、私の鎖骨まわり、放射線めいっぱいかけられて左右とも皮膚も動かない状態ですよ。カテーテルなんてほんとに通るんですか?」
 「うーーん。たしかに難しいかもしれないけど…」
 中心静脈の模型を手に握ったままかたまる先生。
 難しいかもしれないけどそこは外科の仕事だから彼らがなんとかするだろうと言いたげな表情だ。

 やっぱりこれだけ「治療の後遺症がいっぱいあってできないことややったら危険なことがいっぱいある」って毎回散々訴えても、何かあればまずマニュアル通りの治療をやることに頭がいっちゃうんだな。
 たとえ局所麻酔の簡単な手術といっても、メスを入れることに変わりはない。
 この鎖骨を実際に自分の手でしっかり触ってみれば、ここにメスを入れようなんて気はたちまち失せると思うんだけど、なんで見もしないで簡単に切れるとか思えるんだろう…。

 かなり長い時間ねばったが、結局「ポート埋め込みをするならそのための入院はありだけど、しないなら帰ってね」という結論は変わらず、ブリブリ文句を言いつつ私は撤退した。

 まあたしかに「治療ができない以上入院はさせられない」というのは正論かもしれないよ。それはわかるよ。
 でもさ、帰すなら帰すでもう少し安心させるようなことを言ってほしいんだよね。
 結局こんなに長い時間話してても不安は何一つ解消されてないじゃん。
 ただでさえいろいろなもの背負ってて体調に関しては不安満載なんだから、ちょっとした異変でもこっちはドキドキなんだよ。
 気休めでもいいから、なんか医者ならではの安心させる言葉がほしいんだよ。
 なんかないわけ?そういうの。

 ……と帰りの車の中でキレ続けていたら、突然、結石経験者の父がポソッと一言。

 「もしかして、もう石出てんじゃないの?」

 え????
 あまりにも予想外の言葉に一瞬耳を疑った。

 「昨日の胃の痛み……あれが結石の発作だったんじゃないの?だって今元気だもん」

 はっ………たしかに。
 言われてみれば、これだけ毒づくエネルギーは昨日まではなかったよ。
 気がつけば、胃の固まり感もなくなっているし、体も伸ばせるようになっている。
 場所が予想と違ったから(痛むとしたら下腹だと思ってた)、直前に飲んだ鎮痛剤の副作用だとばかり思ってたけど、鎮痛剤の副作用で痛くなるにしては反射時間が早すぎるもんなー。
 「腎臓の痛みは広範囲に広がるため場所がつかみにくい」そうなので、「あれがそうだ」と言われればそうかもしれない気がしてきた。
 ていうか、もうそれでいいよ。

 そのときは半信半疑だったが、激痛を境にすべての症状が軽くなっていったのは事実だった。
 なんということだろう。
 夕べの血尿は「これからスタート」のサインではなく「これで終了」のサインだったのか?!

 もしこれで終わりなら……すげー嬉しいんですけど。
 というか、たとえこれがかりそめの希望であったとしても、「そうかもしれない」と思えただけでなんだか一気に気が楽になった。
 これだよ!
 私が言ってほしかったのはこういう言葉だったんだよ!
 ……とまた怒りの矛先は診察に戻る。
 
 患者がほしいのは「安心」だ。
 それこそ「胃の痛みと思ってるのが結石移動の痛みっていう可能性もあるかも。それ以来全身症状が軽くなってるならその可能性もあるからもう少し様子をみたら?」とか「今度痛くなったらこうしてみてください」とか、いくらでも安心させる言い方はあるだろうに。
 ただダーッと薬並べて「痛いらしいけど、結石は治療するもんじゃないからねー」だけじゃこっちだって不安でますます緊張しますよ。
 正論言えばいいってもんじゃないんだよ。
 診察時間が長いのは、一見良いようにみえるけど、見方を変えれば「なかなか患者を安心させられないから診察を切り上げられない」とも言えるのでは?

 後日談。
 それから2日後、今度は腰のあたり(前に痛んだ部分よりも明らかに下のほう)がズンズン痛くなったが、鎮痛剤を飲んでみたら普通に収まり、その後は症状が出なくなった。
 石の行方はようとして知れない。。。

 以上、<完結編>でした。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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