がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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正念場な出来事にエネルギーを吸い取られているうちにもう秋になってしまった…。
前回の記事を書いたあと、区の重度障害者通所施設の作業療法士さん(時々相談に通っている)から「自立支援センターというのがあるから、障害者の生活に関する相談はそこに行くといい」と教えられ、もろもろの事情で延び延びになってしまったが、今日ようやく訪ねてきた。
相談内容は「事業所ってどうやって探したらいいの?」←マダココ
相談担当の雨宮さん(仮名)は車椅子利用の現役障害者。
ご自身も実際にヘルパーさんを利用しているだけあって、今までとは桁違いに話の密度が濃い。
「上肢不自由」と「下肢不自由」という違いはあれど、「そうそう、そうなのよ」「それよ、それそれ」と激しく共感できる言葉をいくつもいただき、少しだけ力がわいてきた。
特に「足とか手とかそれ単独が不自由なわけじゃない。体は常にバランスをとって動いているのだから、麻痺している部位以外の場所も正常ではなくなる。そのことを一番わかっていないのは医療関係者」というコメント(まあちょっと意訳気味ですが)はもう全国の医療関係者にコピペして一斉送信したいくらいだった。
私も前から思ってたんだよ。
診断書っていうと必ず出て来る「右」「左」にわかれて機能評価するやつ。
あれどうにかならないのかね。
さまざまな日常の基本動作(「顔を洗う」とか「ボタンをかける」とか)について「できる」「できない」の評価をしていくんだけど、それを右左それぞれで評価していくんだよね。
たとえば、普通なら両手を使って一瞬でできるようなことを、右だけ使って不十分であってもなんとかできる…ということになると、それは「自力でおこなうことが可能」とみなされるわけ。
そういう評価をされると、ほとんどが「なんとかできるよね」になってしまい、自分で感じてる慢性的な肉体的精神的負担感がさっぱり書類に反映されていないように思えてしまう。
雨宮さんいわく、「結果的にかろうじて自分でできたとしても、それを『できる』とみなすのはおかしい。そのときだけでなく、継続的にこなせて初めて『できる』と言える。たとえば靴下ひとつ履くのに1時間かかったとして、その人が日常生活を送るだけでほぼすべてのエネルギーを使い果たしてしまったら『仕事』をして『自立』することはできない。そういった日常生活の作業部分をヘルパーさんに負担してもらって、その分のエネルギーを『仕事』にむけられるようにしようというのが自立支援法の目的」とのこと。
なるほどー。
たしかに靴下を履くことだけで人生が終わっていいわけないよな。
でも今までまわったところはどこも「あなたはまだいいほう」とか「これはできるじゃない」とか「できないなら我慢しろ」とか「このレベルまでいかなきゃ無理だね」とか、とにかくこちらのやる気を萎えさせよう萎えさせようとしているふうにしか思えなかった。たとえその人にそういう意図がなかったとしても。
一般人が「わからない」「理解できない」「想像できない」と思うのはまだしかたがないと思うが、そういう仕事ををしている人が相手を萎えさせてどうするんだよ。といつも思う。「自立支援」というより「泣き寝入り推奨」って感じ。
実際、機能評価はデジタル評価だし、本当に評価してほしい部分は項目がなかったり、どうでもいいよと思う項目はいっぱいあったりするわけで。
そう言ったら雨宮さんに「そういうときは、<その他特記事項>という欄にいっぱい書いてもらう。言わなきゃわかんないんだからこっちから『あれも書いて』『これも書いて』と医者にどんどん要求しなきゃダメ。自由記述部分が勝負どころ」と言われた。
ああ、この人も私と同じように今まで戦ってきたんだなーとしみじみ思った。
事業所選びについては、やはり「近くから電話してみるのがお勧め」と言われた。
最初は何十もあって「これ全部かけるの?」っていう気分になるだろうけど、意外に条件の合わないところが多く、心配せずとも選択肢は一気に絞られるとのこと。
どこも介護保険(つまり高齢者対象)には慣れているところが多いけど、障害者の居宅介護に慣れているところはあまりないかもしれないとも言われた。まあ絶対数が少ないからなー。
なんでも介護保険と居宅介護とでは、家事の範囲も厳密に決められているらしいのだが、その区別もよくわかっていない事業所も多いので、おかしいと思ったらすぐに問いただしたほうがいいという。
そんなこと言われてもこっちも初心者だし、助けてもらいたいのはこっちなのになんでヘルパーさんの支援までしなきゃいけないのー?
はー。支援受けるのって大変なのね。
でも最後に「最初の一歩を踏み出すときは不安だと思う。その気持ちはよくわかるし、慣れるまではかえって疲れるかもしれないけど、私は今ヘルパーさんに来てもらってすごく楽になってる。ぜひ上手に使ってほしい」とエールを送っていただき、心強く感じた。
すごく有意義な面談だったけど、同時に「なぜ最初からここにつないでくれないんだよ」とあらためて行政のバラバラさ加減に腹が立った。
障害年金についてはまだ書類が全部揃わない。
傷病がいくつかにまたがっているので、書類の書き方で疑問点がいくつも出てきて、今日は聖路加のSSD(医療社会事業課)にも相談に行った。
そこでもわからなくて電話で問い合わせてもらったが、「書類の書き方についてはここに聞いて」「ただしこの部分についてはこっちに聞いて」とベテランのソーシャルワーカーさんも容赦なくぐるぐるたらいまわしにされていた。
病歴部分は「できるだけ大変そうに書いて」と窓口のおじさんにリクエストされたけど、私は上肢不自由者なんだから手書きでそんないっぱい書けねえっつの。
しかたがないので、昔のカルテとか裁判資料とか見返しながら片手でとりあえずタイピング。
あらためて家族に清書してもらうことにした。
こりゃ一種のプレゼンだな。。。
前回の記事を書いたあと、区の重度障害者通所施設の作業療法士さん(時々相談に通っている)から「自立支援センターというのがあるから、障害者の生活に関する相談はそこに行くといい」と教えられ、もろもろの事情で延び延びになってしまったが、今日ようやく訪ねてきた。
相談内容は「事業所ってどうやって探したらいいの?」←マダココ
相談担当の雨宮さん(仮名)は車椅子利用の現役障害者。
ご自身も実際にヘルパーさんを利用しているだけあって、今までとは桁違いに話の密度が濃い。
「上肢不自由」と「下肢不自由」という違いはあれど、「そうそう、そうなのよ」「それよ、それそれ」と激しく共感できる言葉をいくつもいただき、少しだけ力がわいてきた。
特に「足とか手とかそれ単独が不自由なわけじゃない。体は常にバランスをとって動いているのだから、麻痺している部位以外の場所も正常ではなくなる。そのことを一番わかっていないのは医療関係者」というコメント(まあちょっと意訳気味ですが)はもう全国の医療関係者にコピペして一斉送信したいくらいだった。
私も前から思ってたんだよ。
診断書っていうと必ず出て来る「右」「左」にわかれて機能評価するやつ。
あれどうにかならないのかね。
さまざまな日常の基本動作(「顔を洗う」とか「ボタンをかける」とか)について「できる」「できない」の評価をしていくんだけど、それを右左それぞれで評価していくんだよね。
たとえば、普通なら両手を使って一瞬でできるようなことを、右だけ使って不十分であってもなんとかできる…ということになると、それは「自力でおこなうことが可能」とみなされるわけ。
そういう評価をされると、ほとんどが「なんとかできるよね」になってしまい、自分で感じてる慢性的な肉体的精神的負担感がさっぱり書類に反映されていないように思えてしまう。
雨宮さんいわく、「結果的にかろうじて自分でできたとしても、それを『できる』とみなすのはおかしい。そのときだけでなく、継続的にこなせて初めて『できる』と言える。たとえば靴下ひとつ履くのに1時間かかったとして、その人が日常生活を送るだけでほぼすべてのエネルギーを使い果たしてしまったら『仕事』をして『自立』することはできない。そういった日常生活の作業部分をヘルパーさんに負担してもらって、その分のエネルギーを『仕事』にむけられるようにしようというのが自立支援法の目的」とのこと。
なるほどー。
たしかに靴下を履くことだけで人生が終わっていいわけないよな。
でも今までまわったところはどこも「あなたはまだいいほう」とか「これはできるじゃない」とか「できないなら我慢しろ」とか「このレベルまでいかなきゃ無理だね」とか、とにかくこちらのやる気を萎えさせよう萎えさせようとしているふうにしか思えなかった。たとえその人にそういう意図がなかったとしても。
一般人が「わからない」「理解できない」「想像できない」と思うのはまだしかたがないと思うが、そういう仕事ををしている人が相手を萎えさせてどうするんだよ。といつも思う。「自立支援」というより「泣き寝入り推奨」って感じ。
実際、機能評価はデジタル評価だし、本当に評価してほしい部分は項目がなかったり、どうでもいいよと思う項目はいっぱいあったりするわけで。
そう言ったら雨宮さんに「そういうときは、<その他特記事項>という欄にいっぱい書いてもらう。言わなきゃわかんないんだからこっちから『あれも書いて』『これも書いて』と医者にどんどん要求しなきゃダメ。自由記述部分が勝負どころ」と言われた。
ああ、この人も私と同じように今まで戦ってきたんだなーとしみじみ思った。
事業所選びについては、やはり「近くから電話してみるのがお勧め」と言われた。
最初は何十もあって「これ全部かけるの?」っていう気分になるだろうけど、意外に条件の合わないところが多く、心配せずとも選択肢は一気に絞られるとのこと。
どこも介護保険(つまり高齢者対象)には慣れているところが多いけど、障害者の居宅介護に慣れているところはあまりないかもしれないとも言われた。まあ絶対数が少ないからなー。
なんでも介護保険と居宅介護とでは、家事の範囲も厳密に決められているらしいのだが、その区別もよくわかっていない事業所も多いので、おかしいと思ったらすぐに問いただしたほうがいいという。
そんなこと言われてもこっちも初心者だし、助けてもらいたいのはこっちなのになんでヘルパーさんの支援までしなきゃいけないのー?
はー。支援受けるのって大変なのね。
でも最後に「最初の一歩を踏み出すときは不安だと思う。その気持ちはよくわかるし、慣れるまではかえって疲れるかもしれないけど、私は今ヘルパーさんに来てもらってすごく楽になってる。ぜひ上手に使ってほしい」とエールを送っていただき、心強く感じた。
すごく有意義な面談だったけど、同時に「なぜ最初からここにつないでくれないんだよ」とあらためて行政のバラバラさ加減に腹が立った。
障害年金についてはまだ書類が全部揃わない。
傷病がいくつかにまたがっているので、書類の書き方で疑問点がいくつも出てきて、今日は聖路加のSSD(医療社会事業課)にも相談に行った。
そこでもわからなくて電話で問い合わせてもらったが、「書類の書き方についてはここに聞いて」「ただしこの部分についてはこっちに聞いて」とベテランのソーシャルワーカーさんも容赦なくぐるぐるたらいまわしにされていた。
病歴部分は「できるだけ大変そうに書いて」と窓口のおじさんにリクエストされたけど、私は上肢不自由者なんだから手書きでそんないっぱい書けねえっつの。
しかたがないので、昔のカルテとか裁判資料とか見返しながら片手でとりあえずタイピング。
あらためて家族に清書してもらうことにした。
こりゃ一種のプレゼンだな。。。
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カウンター
お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
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照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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