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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 11月23日。
 昨日は父と弟と私、3人で病院へ行った。
 普段は、なるべく分散して行くようにシフトを組むので、3人揃って行けることはまずないのだが、この日だけは絶対に3人で行こうとみんなで決めていた。
 この日は両親の49回目の結婚記念日だった。
 
 来年が金婚式なので、来年は家族で海外旅行にでも行きたいねと言っていたのだが、転移がわかって無理そうだと思ったのか、せめて写真館に行って家族4人で記念写真を撮りたいと母が言うので、そのくらいはできるだろうと思っていた。
 ところが、あっという間に病状が悪化してしまい、とてもそれどころではなくなってしまったので、せめて日曜日には家族全員で集まってお祝いをしないかと弟が言ってきたのだ。

 お祝いといっても食べ物は食べられないし、匂いの気にならないお花と、昔の写真、50年ほど前に母が音大の校内演奏で歌ったドイツリート、指導している女声コーラスの演奏会の合唱などを持って行った。

 この数日、ウトウトしていたり、意識が混濁していることが多くて、3人でお祝いしていることがはたしてどのくらいはっきりわかるのかどうかが心配だったが、12時半頃訪ねたら、そのときはたまたま意識がはっきりしていて、3人の顔を見るなり「どうして来たのよ」とメソメソ泣き出した。

 そして次の瞬間、言った言葉が「写真」だった。
 もちろん、カメラは用意してきたが、人の手を借りて起き上がるのも大変な状態なので、正直写真を撮るなんて無理じゃないかと思っていた。
 しかし、母はよっぽど家族写真が撮りたかったのだろう。
 執念で起き上がり、笑顔を作った。

 4人一緒の写真は看護師さんが撮ってくれたのだが、そのあとまた寝かそうとしたら「看護師さんとも一緒に撮りたい」というので驚いた(そこまではっきりしゃべれないが、伝えようとしていることはわかる)。
 あまり長く起きていることができないため、あわてて出ていった看護師さんに再集合してもらい、もう一度記念撮影をする。

 これでもう満足だろうと思ってベッドを横にしたら、なぜか不満そうな表情でなにかを訴えている。
 どうやら、写真を撮る前に「いきますよ」という合図がなかったため、笑顔を作るタイミングが本人的に不満だったらしい。
 もう一度とせがまれたが、さすがにもう起き上がるのは無理だと思ったので、私が寝たままの状態の母の顔の隣に顔を出して、ツーショット写真をとった。

 写真撮影で力を使い果たしたのか、その後はずっとつらそうに寝ていたが、音楽を流したらわずかながら気持ちよさそうな表情になった。
 母のお気に入りは、女声合唱曲「麦藁帽子」。
 私も大好きな曲で、演奏会でも何回か演奏されている。
 過去に演奏された「麦藁帽子」を流したら、その間は目を閉じながらも曲にじっと聞き入っているように見えた。
 さらに、50年前の自分の演奏が流れてきたとたん、あきらかに反応して目を見開き「これは…」と嬉しそうな顔になり、「22歳のときのね…」とちょっと自慢げになった。

 相変わらず、病状に楽観的な兆しは見られないが、この日は3人で行けて本当によかった。
 かなり疲れさせて興奮させたかもしれないけど、喜ばせることはできたと思う。

 帰ってから写真を焼いてみたが、あれだけ憔悴し、衰弱した人とは思えない笑顔が写っていて、「人間の力って底知れないものがあるんだな」と感動した。
 どんな写真館に行ってもこれ以上の写真は撮れないだろうと思う。

 母は写真を写されるのがとにかく大好きで、というか得意で、どんなときでも芸能人のように華やいだ笑顔をぱっと作り出すことができて、「形状記憶笑顔」と言われていた。
 それに比べて、私は写真が大嫌いで、どんなときでも何度撮ってもろくな顔で撮れていなかったので、いつも母に「なんでそんなに下手なの」とダメ出しをされていた。
 でも、今度は自分でも良い顔で母の隣に並ぶことができたと思う。
 及第点がもらえたら嬉しいのだが…。

 結婚記念日のことは、金曜日に八嶋先生(仮名)と夫一条先生(仮名)にちらっと話したのだが、なぜかナースにもちゃんと伝わっていて、寄せ書きのカードが用意されていた。
 記念写真も、看護師さんのカメラでも撮ってくれて、帰る時間までにわざわざ写真屋さんで焼いてきてくれた。
 本当にここのスタッフはすごい。
 頭が下がる。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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