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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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(この記事は、母が亡くなった時刻にアップされるように設定しました)

 母を見送ってからちょうど1ヶ月。
 最初の月命日はクリスマスだった。
 このブログの趣旨とはちょっとはずれてしまうが、母のことを知りたくてここを訪ねてくださる方もいらっしゃるので、もうしばらく母のことを書いていこうと思う。

 今年のお正月のことだから、ほぼ1年前の話だ。
 ここ数年、私はお正月気分が一段落する節分前の頃に、友人と明治神宮を参拝することにしている。
 初詣は激込みの明治神宮だが、その頃になれば人出もかなり減るし、ゆっくりと参拝ができる。
 参拝が済んだあとは、お守りを買って、おみくじをひくのが恒例だ。

 明治神宮のおみくじは、「大御心」と呼ばれる。
 吉とか凶が出る占い形式ではなく、明治天皇の作られた和歌(御製)と昭憲皇太后の作られた和歌(御歌)30種が印刷されたもので、そのときに出た和歌を自分の指針にする。「運をみる」というよりは「教訓を得る」という感じだ。
 今年、私がひいた「大御心」は次のようなものだった。

  たらちねの親につかへてまめなるが
  人のまことの始なりけり


 人の誠の基本は心をこめて父母につかえること…。
 新年早々そんな和歌が出てしまったら笑うしかない。「これは親に見せたら大変なことになるね〜」と友人と笑い合った。

 しかし、笑いながらもこの内容にはどこか心にひっかかるものがあった。
 「大御心」は、毎年手帳の一番最後のページに挟み、次の「大御心」と入れ替わるまで目に触れやすいようにしている。
 母が亡くなったあと、手帳を開いてこの和歌をみつけたとき、その「ひっかかり」がなんであるのかがわかったような気がした。

 母が亡くなったのは本当に急なことだったし、「親はいつかは死ぬ」という現実はあるにしても、母は年齢的にもまだまだ充分若かった。普通ならば死や別れを覚悟するような状態ではなかったと思う。
 しかし、私はこの数年、どこかでこの事態を常に意識していた。
 それは私の体調の悪化と密接に関係していた。

 どんなに言葉を尽くしても、徐々に悪化していく身体の苦痛、障害が進んでいく不安は他人にはわからない。
 訴訟の間、訴えても訴えても脱力するほど話が通じない相手に、その貧弱な想像力に、何度絶望的な気持ちに陥ったことか。
 そんな私の苦痛と不安、そして声がでなくなるまで叫び続けたくなるようないらだちを誰よりも深く体感してくれたのは、間違いなく母だった。
 保身と裏切りで傷つけられたときにはともに憤り、泣き、救いの手が差し伸べられたときにはともに喜び、また泣いた。
 母はいつだって全力で私とともにいてくれた。

 自分のすぐ隣で、同じように泣いたり怒ったりしてくれる存在は、私にとって大きな「救い」だった。
 だからこそ、母を失うことは「悲しみ」を通り越して「恐怖」であり、「母がいなくなっても私は生きていけるだろうか?」という問いは、自分にとってもっとも過酷な問いだったのだが、体調が悪化し、将来への不安が大きくなればなるほど、その問いは私にむかって頭をもたげてくる回数が多くなった。

 そう。
 私はこの数年、ずっと「このとき」を恐れていたのだ。
 他人に言えば「大丈夫だよ。まだまだ元気じゃない」「そんな悲しいこと考えたらだめだよ」と言われて終わりになる。
 どの人も「元気」で「明るい」面しかみようとしないし、ネガティブな感情は否定される。
 でも母は違った。
 母は私の「恐れ」を感じ取っていたのだろう。
 やはりこの数年、「小春ちゃんのために私は少しでも長く元気でいるようにするからね」と口癖のように言うようになっていた。
 身の回りのことが思うようにできなくて母に手伝ってもらうときも「今はこうやって手伝ってあげられるけど、私がいなくなったら一人でできるようになんとか考えないとね」と言うことが多くなった。
 そうやって、「いつか」はわからないけれど、「いつか」はやってくる「そのとき」に向けて、私と母のそれぞれの思いが集約されていった。

 母の病気(転移)がわかったときは、まだまだ「死」をストレートに意識したわけではなかった。
 もちろん楽観はしていなかったが、これからどう治療していくか、どう病とつきあっていくか、時間の猶予はまだあると思っていた。
 「死」があるとしても、もっともっと先のことだと思っていたし、そのときを引き延ばすための選択肢もまだまだある、それを探すことが家族の仕事だと思っていた。
 母が私の病気や障害とともに歩んでくれたように、私も母の病気とできる限りそばでかかわっていきたいと思っていた。
 だから「転移」を告げられても私は冷静だったし、母にも「病院や医師の言うなりの治療だけはしないようにしようね。そのために私たちはここまで苦しんできたんだから」とはっきり言うことができた。
 それが崩れたのは緩和ケア病棟に移ることを決めた日(=母が漢方を飲める状態ではなくなった日)だとブログには書いたが、今思うともっと前だった。

 母が最後に入院した11月12日、私は友人と旅行に出ていた。
 自分の病気や事故、母の病気…とずっと緊張状態が続いていた中、唯一の息抜きとして以前から計画していた一泊旅行だった。
 行こうかどうしようか迷ったが、母が入院することが決まって行く気になれた。

 通院治療が始まってから、母はずっとしんどそうで、何を作ってもほとんど食べてくれないし、家の中を移動するのにも息が切れて苦しそうだった。
 通院は車で送迎していたが、それでも限界だと思ったので、体力が回復するまで入院したほうがいいと勧めていたのだが、母は「病院は眠れなくなっていや。同じ不眠なら家にいるほうがいい」と言い張り、あくまでも通院を貫こうとした。

 その母が11月13日の治療の前日から入院すると言い出したので、よっぽどつらいんだなと思いつつも、入院してくれるならかえって安心だと思い、旅行には予定通り行くことにした。
 そのときは「治療さえ続けていれば、少しずつがんの勢いも弱まっていくはず」と信じていたからだ。
 だから、旅行から帰って「入院後の検査でがんは以前より憎大。治療は効いていないようなので中止した」と聞いたときには大きなショックを受けた。

 肝生検まで受けて、がんのタイプを詳細に調べて薬を選んだのに、効いてないってどういうこと?
 日頃連呼していたエビデンスはどこにいったの?
 効くという確信があったから投与したんじゃないの?
 効いてると思えばこそ副作用の高熱にも耐えたのに、じゃああれはただ身体にダメージを与えただけだったってことなの?
 納得できない気持ちでいっぱいだった。

 私が病院に顔を出したのは、11月14日だった。
 そのときだと思う。
 「母はもしかしたらこのまま回復しないかもしれない」という恐ろしい予感が初めて黒いしみのように胸に広がったのは…。
 最後に会ったのは旅行に発つ日の朝だから、会うのはわずか3日ぶりだったのだが、母は家にいるときよりも明らかに一段階衰弱していた。
 表情はうつろだったし、口調もろれつがまわらなくて声に力がなかった。
 家にいたときの母は、弱っているとはいえ「いつもの母」の延長だったが、この日の母は「いつもの母」とはもう違う人だった。
 たった1泊、旅行に行っている間に、母が一気に遠くへ行ってしまった気がして私は慄然とした。 
 「なんとかしなくちゃ」
 言いようのない焦りに襲われた。
 日頃から心のどこかでずっと抱いていた「恐怖」があらためて視界に入ってきて、この日から私の精神状態は底なし沼に落ちていくように不安定になっていった。

 「母を失うかもしれない」という恐怖を現実のものとして明確に認識したのは、11月16日に漢方医のところに行ったときだ。
 頼りにしていた漢方医に「これはちょっともう…」と消極的な態度を見せられたとき、最後の綱をブツッと切られたように感じた。
 漢方を飲み始めるタイミングとしてはもう遅いということなのか。
 漢方では対応できないほどがんの悪性度が強いということなのか。
 とにかく漢方で効果を望むのは難しいだろうということ、それ以前に口から漢方を摂取することじたいがもう無理だろうということが、そのとき私に知らされた現実だった。

 この瞬間から、実際に母を失う日までの9日間、私は幾度となく「母がいなくなる現実」を想像しては気が狂いそうな恐怖に襲われた。
 こんなことを想像してはいけない。
 何回もそう自分に言い聞かせたが、ふと気がゆるむと再び恐怖の妄想にスイッチが入り、その都度凍りついた。
 まるで、実際にこの恐怖が現実になったときに耐えられるよう、自分の身体に免疫を植え付けているかのようだった。

 そのときは自分の感情を制御するので精一杯だったが、今考えるに、いったい母はどの時点で「もうだめかもしれない」と自分で認識したんだろうか。
 17日に初めて持っていった漢方を母が1日かけてすべて飲みきったと聞いたとき、私は電話口で泣き出すほど嬉しかったが、母は自分のために、という以上に、私たちのために飲んでくれたのだなと思う。

 300ccの漢方を飲みきるのは弱った病人にとってかなり厳しいことだ。
 17日は伯母が病院に行って少しずつ飲ませたそうだが、あまりにもつらそうで、最後に残った数十ccは吸い飲みに移すのをやめようかと思ったらしい。
 しかしその夜、会社の帰りに病室に寄った弟に「あとこれだけだけど飲む?」と聞かれた母は、「じゃあ××ちゃん(弟のこと)のためにママ頑張って飲むわ」と言って一生懸命残りを飲んだのだという。
 そのとき、母は「皆がこんなに一生懸命やってくれるんだから、これからは私『もうだめだ』とか言わないことにするわね」とも言ったらしい。
 母はこの時点ですでに覚悟を決めていたのかもしれない。
 覚悟を決めつつ、家族の望みをつなぐために頑張る姿をみせてくれたのだと思う。

 翌18日、病院に行った私がスタッフの人にいろいろこまごまとしたお願いごとや指示を出していたところ、横で見ていた母がポツッと「急に大人になったね」と言い出した。
 「なに言ってんの。いったい私のこといくつだと思ってんのよ」と言うと「じゃあもう私がいなくても大丈夫ね」と言う。
 私が我慢できずに泣いてしまったのはこのタイミングだった。
 そのとき、母は泣きながら(といってももう泣く力も残っていないのだが)かぼそい声で「小春ちゃん、やっぱりママ死ねないよ…」と繰り返した。
 やっぱり死ねない…。
 ということは、やっぱり母は「自分はもうだめだ」と思っていたのだ。

 翌19日、緩和ケア病棟の先生方から「今後どうしてほしいという希望はありますか?」と聞かれた母は「私がどういう状態にあるのか、詳しいことは娘には話さないでください」と言ったらしい。
 母を失う私のダメージを、誰よりもよく知っていたのは母自身だったのだろう。

 今でも「やっぱり死ねないよ」という母の悲痛な声が耳について離れない。
 葬儀後、お手紙をくださる皆さんは、どの方も「お元気な頃のお母様の声や姿ばかりが浮かんでくる」と言うが、私は逆に弱って動けなくなっていく母の姿ばかりが思い出され、元気な姿が浮かばなくなっている。
 そのことがたまらなくつらい。

 「短い間でも介護できただけいいじゃない」
 そう言われることが多く、それは本当にそうだと思うのだが、弱っていく姿をつぶさに見なければならなかった苦しみはまたまったく別のものだ。
 どんなに「今は苦しみから解放されておだやかな幸せに包まれている」「天国で花に包まれて笑っている」と言われても、私にとって一番リアルな母の映像が「弱った姿」であることは動かせない。
 いったいいつになったら苦しむ姿が元気な姿に置き換わるのだろうか。

 家族を亡くした人の話を聞くと、一様に「ある日、自分のすぐそばにいることがたしかに実感できるようになる。そのときが本当の意味で立ち直れたとき」「時間がたてばたつほど近くにいると感じられるようになる」と言うのだが、私はその境地に達するまで何年かかるんだろうか。
 そのときは私が生きているうちにくるんだろうか…。

 家の中には、母が生きていた痕跡が無数にあって、いやでも毎日それと向き合うことになる。
 そのひとつひとつがスイッチとなって、一日に何回も私の身体から涙を絞り出す。
 先日も、母のメールボックスを整理していて、胸を突かれる文面に出会った。

 それは5年前に書かれたメールだった。
 ちょうどその頃、母は祖母を見送ったのだ。
 交通事故に遭ってから3年半の入院の末、祖母は亡くなったのだが、その直前に母は友人にこう綴っている。
 「母(祖母のこと)がまた危篤状態から持ち直してくれた。母の生命力に感動している。と同時に、母はこうやって何度も持ち直すことによって、私たちに少しずつ死を受け入れるための心の準備をする時間を与えてくれ、きたるべき悲しみをやわらげてくれているのだと思った」

 私にとっても、ずっとそばにいた祖母の死はとても悲しかったが、祖母と母はやはりまったく違う。
 当たり前のことだが、母もまた祖母の死にあたって、今の私と少なからず同じ思いを味わったのだ。
 隣で同じ死に立ち会いながら、私は「母を失う娘の痛み」を知らずにここまできた。
 母はそれを知っているからこそ、私の痛みもわかったのだと思う。
 わかっているなら、もう少し準備期間を与えてくれたっていいのに…と恨み言を言いたくなってしまうが…。

 母を失った気持ち。
 同じ経験をした人はいろいろな言葉でその気持ちを表現する。
 私にとっては「心の羅針盤を失ったような状態」だ。
 朝起きてから夜寝るまで、昨日までと同じように慣れた行動をしているはずなのに、なぜかなにをしても心もとない。
 明るい道でも足下がおぼつかない。
 平衡感覚がおかしくて、本当に正しい方向に向かって歩いているのか自信がなくなる。
 心の底から「安心」できる状態が得られない。
 セイフティネットが一瞬にして消えてしまったような感じだ。

 正直、これから先、この身体で生きていくことには大きな「不安と恐怖」がある。
 母がいたからこそ、かろうじてそれを緩和することができたのだが、今はダイレクトにそれが襲ってくるようになった。
 母が最後まで私の身体を心配していたことは痛いほどよくわかるので、「しっかり生きていかなきゃ」とは思うのだが、一方でその重荷につぶされそうになる。

 まだまだ立ち直るには時間がかかりそうだ。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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