がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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11月25日水曜日未明。
3時20分に家の電話が鳴った。
母の呼吸が荒くなってきたという。
急いで支度して、親戚や神父様にも連絡して、タクシーで病院に駆けつけた。
日曜日に記念写真を撮って以来、母は大きな仕事をやりとげたかのようにぐったりと眠り続けた。
伯母夫婦が行った月曜日は、ほとんど反応がなかったものの、数口ゼリーや温泉卵を口に運んだという。
父が行った火曜日は、もはや激しい寝返りも打たなくなって、何回か薄目を開けた程度で、あとはすやすやと眠り続けていたという。
父いわく、「黄疸が出ているように感じたので、もうあまり時間は残されていないかもしれない」と思ったそうだが、それでも前のようにつらそうな様子ではなかったのでその点では安堵したとのこと。
病院に到着したとたん、母の呼吸はほとんど途絶えた。
「きっとご家族を待っていたんですね」と看護師さん。
「でも心臓はまだ動いていらっしゃいます。話しかけてあげてください。耳は最後まで聴こえていらっしゃいますよ」
緩和病棟での最後は、無理な延命治療(心臓マッサージなど)をいっさいしないことになっているので、無数のチューブやモニタで「死」を管理されることもなく、「身体ひとつ」で「死」を受け入れることになる。
「死」はおだやかに、緩やかにやってきた。
機械が判定するデジタル的な最後ではない。
まずは呼吸がとまり、それから心臓が止まる。
その間、今まで介護してきた家族や親しい親戚がそれを静かに見守り、手を握りながら名前を呼びかけ、「よく頑張ったね」「今はもうつらくないよね」「ありがとう」と精一杯話しかけ続ける。
看護師も医師もそれを邪魔することはしない。
ベッドの傍らで、母が喜んでいた、50年前に歌った曲「女の愛と生涯」を流し続けた。
ほどなく神父様が到着して、終油の秘跡(お祈り)を行ってくださる。
それを終えたあとに、医師が死亡確認を行った。
午前5時25分、母は神様の元へ旅立った。
本当に安らかな最後だった。
じつは前日、私は鍼治療に行ったあと、知人から紹介された気功師のもとを訪ねていた。
そこでのがん治療の基本は漢方薬だったが、母はもはや漢方を飲める状態ではない。
その気功師は、自分の「気」を布に込めることができるので、その布(ほくろ大の小さなもの)を気が停滞している場所に貼ることで、生体エネルギーを動かすという方法を用いてたくさんの人を癒しているらしい。
せめて布を貼るくらいならできるかもしれない。
そう思って訪ねたのだ。
本人が来られない場合、診断は写真からのエネルギーによってされるのだが、日曜日に撮った母の写真(記念写真ではなく、ぐったりと横たわった本来の姿)を持っていったところ、一目で「これはもう生きるエネルギーがほとんど残っていない厳しい状態だ」と宣告された。
それは私から見ても充分わかっていたが、あらためて言われるとやはりショックだった。
布をもらって、「今すぐに貼りなさい」と言われたけれど、そこから病院まで行く気力はもはや私にはなかった。
気持ちは焦っている。
海の底に沈んだ船室の中で、水が徐々に天井までのぼっていくような焦りと恐怖。
今すぐにでも貼りにいきたい。
でももう身体が動かなかった。
帰りのタクシーの中で運転手から話しかけられる言葉に答える気力すらなかった。
今日は早くに寝て、明日の朝貼りに行こう。
そう思って床についたら、夜が明ける前に母は逝ってしまった。
「来なくていいのよ。あなた、もう限界でしょう」と言われている気がした。
病院にかけつけたときにはまだ暗く、しとしとと雨が降り続いていたが、母が息をひきとってしばらくすると、雨がやみ、朝日が差し込んで来た。
病院のボランティアの人が窓辺に生けてくれた野の花が光にはえてきれいだった。
早朝だったが、緩和病棟の担当医師や看護師、一条先生ご夫妻(仮名)が次々にお別れにきてくださった。
私には感謝の言葉しかなかった。
今まで病院に対しては「悔しさ」と「憤り」ばかりを感じてきたが、最後に心から感謝できる病院に出会えてよかった。
それだけは母に対して親孝行ができたと思う。
母は、母であるだけではなく、今まで長く苦しい「病気」や「病院」との戦いを一緒に戦い抜いて来た「同志」だった。
壮絶な日々だっただけに、喜びも苦しみも色濃く、濃厚に分かち合ってきた。
この年になるまで、母とこんな日々を共有できたことはとても幸せだったと思う。
いつもこのブログにいらしてくださる皆さん、メールをくださった皆さんも、母への思いを共有してくださったことを本当に感謝します。
3時20分に家の電話が鳴った。
母の呼吸が荒くなってきたという。
急いで支度して、親戚や神父様にも連絡して、タクシーで病院に駆けつけた。
日曜日に記念写真を撮って以来、母は大きな仕事をやりとげたかのようにぐったりと眠り続けた。
伯母夫婦が行った月曜日は、ほとんど反応がなかったものの、数口ゼリーや温泉卵を口に運んだという。
父が行った火曜日は、もはや激しい寝返りも打たなくなって、何回か薄目を開けた程度で、あとはすやすやと眠り続けていたという。
父いわく、「黄疸が出ているように感じたので、もうあまり時間は残されていないかもしれない」と思ったそうだが、それでも前のようにつらそうな様子ではなかったのでその点では安堵したとのこと。
病院に到着したとたん、母の呼吸はほとんど途絶えた。
「きっとご家族を待っていたんですね」と看護師さん。
「でも心臓はまだ動いていらっしゃいます。話しかけてあげてください。耳は最後まで聴こえていらっしゃいますよ」
緩和病棟での最後は、無理な延命治療(心臓マッサージなど)をいっさいしないことになっているので、無数のチューブやモニタで「死」を管理されることもなく、「身体ひとつ」で「死」を受け入れることになる。
「死」はおだやかに、緩やかにやってきた。
機械が判定するデジタル的な最後ではない。
まずは呼吸がとまり、それから心臓が止まる。
その間、今まで介護してきた家族や親しい親戚がそれを静かに見守り、手を握りながら名前を呼びかけ、「よく頑張ったね」「今はもうつらくないよね」「ありがとう」と精一杯話しかけ続ける。
看護師も医師もそれを邪魔することはしない。
ベッドの傍らで、母が喜んでいた、50年前に歌った曲「女の愛と生涯」を流し続けた。
ほどなく神父様が到着して、終油の秘跡(お祈り)を行ってくださる。
それを終えたあとに、医師が死亡確認を行った。
午前5時25分、母は神様の元へ旅立った。
本当に安らかな最後だった。
じつは前日、私は鍼治療に行ったあと、知人から紹介された気功師のもとを訪ねていた。
そこでのがん治療の基本は漢方薬だったが、母はもはや漢方を飲める状態ではない。
その気功師は、自分の「気」を布に込めることができるので、その布(ほくろ大の小さなもの)を気が停滞している場所に貼ることで、生体エネルギーを動かすという方法を用いてたくさんの人を癒しているらしい。
せめて布を貼るくらいならできるかもしれない。
そう思って訪ねたのだ。
本人が来られない場合、診断は写真からのエネルギーによってされるのだが、日曜日に撮った母の写真(記念写真ではなく、ぐったりと横たわった本来の姿)を持っていったところ、一目で「これはもう生きるエネルギーがほとんど残っていない厳しい状態だ」と宣告された。
それは私から見ても充分わかっていたが、あらためて言われるとやはりショックだった。
布をもらって、「今すぐに貼りなさい」と言われたけれど、そこから病院まで行く気力はもはや私にはなかった。
気持ちは焦っている。
海の底に沈んだ船室の中で、水が徐々に天井までのぼっていくような焦りと恐怖。
今すぐにでも貼りにいきたい。
でももう身体が動かなかった。
帰りのタクシーの中で運転手から話しかけられる言葉に答える気力すらなかった。
今日は早くに寝て、明日の朝貼りに行こう。
そう思って床についたら、夜が明ける前に母は逝ってしまった。
「来なくていいのよ。あなた、もう限界でしょう」と言われている気がした。
病院にかけつけたときにはまだ暗く、しとしとと雨が降り続いていたが、母が息をひきとってしばらくすると、雨がやみ、朝日が差し込んで来た。
病院のボランティアの人が窓辺に生けてくれた野の花が光にはえてきれいだった。
早朝だったが、緩和病棟の担当医師や看護師、一条先生ご夫妻(仮名)が次々にお別れにきてくださった。
私には感謝の言葉しかなかった。
今まで病院に対しては「悔しさ」と「憤り」ばかりを感じてきたが、最後に心から感謝できる病院に出会えてよかった。
それだけは母に対して親孝行ができたと思う。
母は、母であるだけではなく、今まで長く苦しい「病気」や「病院」との戦いを一緒に戦い抜いて来た「同志」だった。
壮絶な日々だっただけに、喜びも苦しみも色濃く、濃厚に分かち合ってきた。
この年になるまで、母とこんな日々を共有できたことはとても幸せだったと思う。
いつもこのブログにいらしてくださる皆さん、メールをくださった皆さんも、母への思いを共有してくださったことを本当に感謝します。
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カウンター
お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
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照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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