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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 今までずっと出来事のあった日時に設定して更新してきたが、今日は1ヶ月分をとばしてリアルタイムでアップすることにする。

 この1ヶ月。
 母のがんは信じられないほどの勢いで増殖を続けた。
 まず、初めて聖路加の担当医(腫瘍内科)の診察を家族で受けにいったのが10月19日のこと。
 このときは、母もかなりだるかったり食欲がなかったりしていたが、まだ電車で築地まで行くことはできた。

 初めて会った夫一条先生(仮名・ご夫妻になるのでこれからはこう呼ぶ)はとても真摯に対処してくださり、前日にも自宅にまでわざわざ挨拶の電話をかけてきてくれた。
 夫一条先生にはまず肝生検を勧められた。
 というのも、上昇している腫瘍マーカーをみると、乳がんではなく、大腸がんからの転移という可能性もあるというのだ。
 大腸がんなんてなった覚えはないので、寝耳に水だったのだが、大腸がんは自覚症状のないまま肝臓に転移することが珍しくないので、可能性はあるという。
 一方、乳がんがいきなり肝臓だけに転移するのはかなり珍しく、そういう意味でも疑いをもっているらしい。
 たしかに乳腺科の医者だと乳がんのことばかり考えてしまうが、腫瘍内科はすべてのがんを網羅しているので、そういうところは多角的に考えるのだろう。
 もし大腸がんだったら、まったくお門違いの薬を使ってしまう危険もある。
 肝生検をやるなら治療前しかないという。

 しかし、肝生検は決して軽い検査ではない。
 検査じたいはポピュラーではあるが、生検が及ぼす影響は小さくはない(たとえ生検じたいが簡単に終わるものであったとしても)。
 少なくとも鍼灸の四ッ谷先生は「肝生検は危険だからやめたほうがいい」という意見だったので、本当の事を言えば私はやってほしくなかった。
 8割がた乳がんなら、もう乳がんの治療でいいじゃんという気持ちだった。
 でも、先生が気になるという以上、そのときは「やる」という選択しかないため、結局やることになった。

 どうやらMRIの検査所見には「大腸がんの可能性もあり」と書かれていたらしいのだが、L病院の三井先生(仮名)はそれについてはなにも触れていなかった。
 もしかしたら所見もろくに見ないで最初から「乳がん」だと決めていたのか、あるいは見たけど「こんなのどうせ乳がんに決まってるよ」と決めつけて問題にせず、患者には話さなかったのか、それはわからない。
 しかしもしそうだとしても、「検査所見には『大腸がんの可能性も』と書かれていたけど、自分はこういう理由で乳がんだと診断した」ということを患者に説明するか、せめて聖路加への紹介状にそう書くべきではなかったのか。
 いきなり大腸がんと言われ、また悩みが増えた事で母は相当動揺していた。
 その他、検査資料も全部揃ってなくてあとからもう一度とりにいかなければならなかったりなど、相変わらずなにもかもが杜撰なL病院だった。

 肝生検は局麻でできる検査だが、検査後の安静が必要なので、入院が必要になる。
 夫一条先生は19日に即日入院を予定していたようだが、生検を行う放射線科医がその日都合が悪かったため、22日に入院して行うことになった。
 これまた、激込みのL病院は、(緊急時を除いて)前日になるまで入院できるかどうかわからないというシステムなので、前もって入院日がわかることにびっくりした(友達にきいたら「前もってわかるのが普通だよ」と逆にびっくりされたが)。

 生検は22日に無事終了した。
 翌日には帰ってもいいことになっていたが、本人が一日も早く治療を始めたいということだったので、生検の結果を待たずにハーセプチン(分子標的薬)の治療を、入院ついでに生検の翌日から始めることになった。
 見切り発車の形になるが、大方の予想は乳がんなので、始めるなら早いほうがいいという判断だった。

 ハーセプチンは、抗がん剤のように正常細胞も一緒に攻撃するものではないので、一般に副作用は軽いとされている。
 3人に1人は悪寒と発熱が出るが、それもたいがいはその日だけで、2回目以降は出ないという話だった。
 しかし、母は初回から38.5度以上の高熱を丸2日間出して、結局5日間入院することになった。
 私の周囲にもハーセプチンを打っている人はいるが、だいたいが予防的投与で、いわば元気になった状態で打つ人が多いためか、それほどひどい副作用が出るという話は聞いたことはない。
 やはり母の場合は身体が弱っているからきついのだろうか。

 退院してから4日目の10月30日。
 2回目のハーセプチン治療を受けるため、病院に行った(ハーセプチン投与は週1回)。
 このときはもう車の送迎でないと通える状態ではなかった。
 熱が下がっても具合がよくなるわけではなく、食事のとき以外はずっと横になっていた。
 その食事にしても、朝と昼に少々、夜はまったく受け付けないという感じだった。

 2回目はもう薬に慣れて副作用も出ないのでは?と期待したが、やはり38度の熱が出た。
 なんだか治療を受けるたびに弱っていくように見える。
 2回目の治療時に生検の結果が出て、やはり乳がんであることが判明。
 まれに、転移するうちに最初のがんのタイプと性質が変わってしまうことがあるらしいが、HER2は相変わらず強陽性だったので、ハーセプチンはよく効くだろうと言われた。
 できれば抗がん剤を組み合わせたほうが効きがいいとのことだったが、体力的に副作用に耐えられるかどうか微妙だったので、まずはハーセプチン単剤で様子をみることにした。

 しかし、体調はどんどん悪化。
 眠ることにかけてはまったく苦労知らずだった母がついに眠れなくてつらいと言い出した。
 安定剤を飲んでみたら?と言ってみたが、入院中に眠れなくて、お守りのように持っていた安定剤を飲もうとしたら、病棟の先生に「肝臓に負担がかかるから勝手に飲まないでください」と怒られたことがあったようで、それ以来飲むことに恐怖があるようだ。
 代わりにもらった安定剤もあまり身体に合わないようで、飲みたがらない。
 そうこうするうちに3回目の治療日(11月6日)になったが、その前日に一睡もできなかったため、とても治療どころではない状態になってしまった。

 治療は10時半からだが、病院に電話してなんとか開始時間を延ばしてもらい、治療前に先生に診察の時間をとってもらうことにした。
 夫一条先生は、思った以上に衰弱している様子に困惑し、これでは通院は無理だから入院したほうがいいのではないかと言ったが、母は「病院はもっと眠れなくなるからいやだ」と拒否。
 それよりも母はなんとか治療と併用して漢方にトライしたいという意欲をみせていた。

 もちろん、鍼も週1のペースで車で通ってはいたが、それも体力的に厳しくなってきている。
 鍼は向こうまで出向かなくてはならないが、漢方ならば自分でも煎じて飲むことができる。
 だから私もなんとか漢方で薬をもらえないかとあちこち探しまわっていたのだが、西洋医学の病院と違って、どこでも均一の治療をしてくれるわけではないので(また、誰にでも合うわけではないので)、どこかひとつを探すのはとても難しい。
 知人で「末期でなにも食べられなかったけど、漢方で奇跡的に元気になり、ずっとがんと共存している」という人は何人もいるので、そういう人にも聞いてみたのだが、だいたい東洋医学専門医なので、西洋医学の病院と連携してやっていくのは難しいように思えた。
 そこで探したのが東銀座にあるクリニック。
 ここは元外科医がやっている漢方クリニックで、がん治療を専門に行っているらしい。病理医の経験もあり、ツムラの研究所にもいたとあるから、両方に詳しいかもしれない。
 そう思って11月16日に予約を入れた。
 
 しかし、その日を待たずに母は結局再入院してしまった。
 夫一条先生は、11月10日から14日までアメリカ出張で不在になるため、4回目の治療時には立ち会えなくなる。
 だから入院しないでいることがとても心配だったようだが、私もそれは同様で、少なくとも4回目のハーセプチン治療の前日には入院したほうがいいと母を説得した。
 次回のハーセプチン投与日は、米大統領の来日とぶつかっていたので道が混むのではないかと気になっていたのだ。
 前の日に入院してもらえればこっちも安心だった。

 3回目のハーセプチン治療後は、もうメールを打つ気力もなくなっていたので、もっぱら私が代筆して送っていたのだが(一条夫妻はL病院と違って、電話にもすぐに出てきてくれるし、メールにもすぐ返信してくれるので、とても安心だった)、11月10日の夕方、状況をメールし、入院させてほしいと妻一条先生にメールで頼んだところ、即夫一条先生に連絡がいって、空港へ向かうバスの中から電話がかかってきた。
 自分はいないので、妻一条先生が持っているベッド枠を使って入院してくれとのことだった。

 11月12日、母はブレストセンターの外科病棟に入院した。
 しかし、状況は思った以上に厳しく、入院当日にとったCTでは、がん細胞はさらに増殖し、もうほとんど正常に機能している肝臓はないということだった。
 普通、乳がんは進行が遅いと言われている。
 転移してもHER2陽性ならハーセプチンでかなり進行を抑えられるともきいている。
 が、ハーセプチンはとても効いているとは思えず(効いていたとしてもおそらく進行のスピードのほうがそれを上回っていたのだろう)、どの科の先生方も「こんなに進行の早い乳がんは見たことがない」と愕然としていた。

 結局、13日に行うはずだった4回目のハーセプチン治療は中止になった。
 14日の夕方、空港からかけつけた夫一条先生は、「抗がん剤をやるなら今がギリギリ最後のチャンス」だと言ったが、母も私も、今は漢方に賭けたいという気持ちが強かった。
 漢方で一気にがんが消えるとは思っていないが、少なくとも肝臓に負担をかけずに状況を少しでも改善することが第一の選択だと思った。
 一条夫妻も、もはやその選択に反対はしなかった。

 11月16日、母の代わりに、父と一緒に漢方クリニックに行った。
 さすがにCTの所見を見て先生も「これはちょっと…せめてもう少し肝臓の機能が残っていれば選択肢もいろいろあるんですが…」とひき気味だった。
 それでも抗がん作用のある2種類の薬草をはじめ、肝臓の保護、食欲の増強、免疫強化などの成分を25種類ほどブレンドした生薬を3日分処方してくれた。
 漢方クリニックといっても、ここは完全に自由診療なので、使用する薬草に制限がないのが特徴だ。
 そこでは煎じ薬をレトルトづめしたパックも売っていたのだが、それだとある程度の量をまとめ買いすることになる。
 正直、吐き気がずっとある今の状態で口から飲むのはかなり難しいと思うので、まずは飲めるかどうかを確認してからでないとまとめ買いは無理だろう。
 まずは3日分。
 なんとか飲めるようにと祈って購入する。

 母の状態はどんどん悪くなっていく。
 もうベッドの上に起き上がることも一人ではできないし、手を動かすこともだるくてできないようだ。
 これまでは夜中に「眠れなくてつらい」と携帯から家に電話があったが、それもなくなった。
 電話をかけることも難しくなったのかもしれない。

 11月17日。
 前日煎じた漢方を病室に持っていく。
 私は病院には行けなかったが、外出している間中、涙がとまらなかった。
 友達の顔を見ては泣き、鍼灸院に行っては泣き、電車に乗っては泣き、しまいには目がパンパンになった。

 今までずっと「転移? 大丈夫だよ、転移したって。方法はいっぱいあるよ。医者の言うことなんていちいち真に受けちゃだめだよ!」などと強気で母をひっぱっていってたが、さすがにここまで進行が早いのを見るともう限界だった。
 ふっと気を抜くと悪い想像ばかりが頭に浮かんでしまい、恐怖で押しつぶされそうになる。

 周囲には「あなたは充分よくやっている。自分の身体のことを一番に考えなきゃダメだよ」と言われるが、もう自分の身体がどうなっているという意識も薄れている。
 ちょっと前まではその通りだと思ってなるべく自分の生活のペースは崩さず、体調管理にも気を配っていたのだが、それがいよいよ決壊してしまったようだ。 
 本当に漢方は飲めたのか?
 1日300ccというのはかなりつらいはずだ。
 もう一口も入らないんじゃないか。
 そう思うといてもたってもいられなかった。

 でも、その日、母は力をふりしぼり、1日かけて漢方をすべて飲みきってくれたらしい。
 その報告を電話できいたときはもう本当に嬉しくて、また泣いた。
 これで一縷の望みがつながったと思った。
 
 11月18日。
 この日は本当につらい日だった。
 母の状態は今まででもっともひどく、見ているほうも胸が引き裂かれる思いだった。
 どうやらこの2日間、どんな薬を使ってもうまく眠れていないらしい。
 健康な人間だって寝なければ消耗する。
 どんなにかつらいだろうと思うが、どうすることもできない。
 どうにかして楽にしてあげたいと、思いつく限りのいろいろな方法を考えて試みてみるがどうにもならない。

 この日は水を飲むのもつらそうで、それなのに、意識もうろうとしながらも私の持ってきた漢方だけは必死に飲もうとしていて、その姿を見たらもうたまらなくなって「もういいから。飲まなくていいよ。充分頑張ったよ。なんにも飲まなくても食べなくてもいいよ。ごめんね、ごめんね」と言いたくなった。
 人が頑張る姿を見るのがこんなにつらいことだったなんて…。

 私は自分がずっと闘病する側だったから、自分のつらさにばかり思いがいっていたが、病気で苦しむ家族を見ている側がこんなにもつらいのかと初めて知り、あらためて自分のそばにいた両親がどんな思いで病院に通っていたのかを思い、うちのめされた。

 母と家族の前では泣かないようにとずっとこらえていたが、この日はついに我慢できずに大泣きしてしまった。
 「病気とか訴訟とか後遺症とか、普通ならしなくてもいい心配ばっかりかけ通しで、気に入らないことばっかりの娘でほんとに情けないよ。これからもっと喜んでもらえることしたかったのに、安心させたかったのにごめんなさい」と。
 それに対し、母は「あなたは自慢の娘。こんなにやってもらって本当に嬉しい。結婚もさせないで、ずっとそばにいてもらってあなたには申し訳なかったけど毎日楽しかったよ」と言った。
 まだなにもやってない。
 こんなのなにもやってるうちに入らないよ。
 もっと介護させてよ。
 「ああ、お陰でちょっと楽になったみたい」っていう言葉をきかせてよ。
 そう言いたかったけど言葉にならなかった。

 この日はこちらの希望で緩和ケア病棟の先生が病室まで話しにきてくれた。
 聖路加はキリスト教系だけあって、緩和ケア治療にかなり力を入れている。
 これはどこの病院でもあるものではない。
 転移と聞いたとき、聖路加に移ろうと思ったのは、この緩和ケアがしっかりしている部分にひかれたというのもひとつの理由だ。

 緩和ケア病棟に入るのは「積極的な治療(延命措置を含めて)をしないこと」が条件になる。その代わりに患者に苦痛を与えないことを最優先させたケアを専門スタッフが行ってくれる。
 積極的な治療をしないと言うと「なんにもしないで放置するということか」「見捨てられるのか」と思われがちだが、緩和ケアも立派な「治療」である。
 母も「緩和ケア」と聞いて「もう終わりなのか」「もう出られないのか」と思って躊躇していたようだが、「それは違う。緩和ケアで体力を取り戻して、また一般病棟に戻って治療を再開する人もいる。先のことはどうなるかわからないんだから考えるのはやめよう。それよりも今のこのつらい状態をなんとか少しでも楽にすることを第一に考えよう。身体が楽になったらまた選択肢も増えてくるんだから」と話したら、承諾してくれた。

 この病棟は外科病棟なので、ナースもバタバタしている。
 緩和ケア病棟のナースは、専門の看護知識もあるだろうから、ここよりは手厚い看護が受けられるだろう。
 積極的な治療をしない以上、ここにいても意味はない。
 それに、緩和ケア病棟なら漢方も大手を振って飲み続けられるし、少しでも安楽に過ごせるような融通がもっといろいろときくと思う。
 移るなら一日でも早いほうがいいので、さっそく家族に電話して相談し、全員の了承を得た。
 病棟のナースにそう伝えたところ、明日にでも移れるようにとりはからうと言われた。
 明日から再スタートだ。
 「ああすればよかった」という後悔は、考え始めたら際限なく出てくるので考えないようにしよう。
 それよりも、今これから何ができるのかを精一杯考えよう。

 一人で電話をかけられない母のために、自宅につながる短縮番号をメモして携帯に張り付け、看護師さんに頼めば代わりにかけてもらえるようにして帰った。
 病院をあとにする瞬間はいつでも身を切られるようにつらい。
 そばについていてもつらいし、離れていてもつらい。
 よくないとわかってはいるが、この日から自分も食べ物が喉を通らなくなった。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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