がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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10月8日。
あれからダメもとですぐに一条先生(仮名)にメールを出したところ、「セカンドオピニオンなら紹介状なしでも大丈夫です」という返事がきた。
メールを出したのが5日だったので、最短の外来日は8日になる。
紹介状なしなので、揃えられるデータは血液検査のデータくらいしかなかったが、とにかく話を聞いてもらいに行くことになった。
つい1ヶ月前には私のことで相談に行ったのに、今度は母の転移の相談。
あまりの展開に一条先生も驚いていた。
話を一通り聞いた先生は、「転移した乳がんの治療は局所治療(外科手術)ではなく、全身治療(薬物療法)の領域になるので、担当は私ではなく腫瘍内科医になります」と言った。
腫瘍内科医とは、がんの薬物治療の専門医のことで、アメリカではかなり前から育成が進められているが、日本ではまだまだ少ない。
今までのがん治療は、胃とか腸とか肺とか脳とか、臓器別の専門医が診るのが普通だった。がん治療の第一選択といえばおもに「手術」なので、ここでいう専門医とは具体的には「外科医」になる。
胃がんなら胃がん専門の外科医がまずは手術を行い、次に内科的治療(抗がん剤)が必要になるとやっぱり外科医がそのまま治療を行う。
しかし、本来ならば抗がん剤治療は内科の領域である。外科医が手術の片手間にやっていいのかという疑問は当然起きる。
そこで出てくるのが腫瘍内科医だ。
腫瘍内科医の最大の特徴は、すべての臓器のがんを取り扱うということだ。
がんは最初はひとつの臓器からスタートする。この時点では外科手術での根治もまだ可能な段階である。
しかし、転移するようになると、がんは(画像で確認できない部分も含めて)全身に広がることになるから、こうなるともう外科の出番はない。治療は薬物療法しかなくなる。
しかもどの臓器にとぶかもわからないため、臓器ごとの専門医ではカバーできない。
腫瘍内科医は、まさにこういう状況のために存在する。
理想は外科医と腫瘍内科医の連携だが、腫瘍内科医の絶対数が少ないうえ、前にも書いたように、外科医が自分で薬物治療までやってしまうケースが多いため、実際は転移した時点で、外科に見放されて難民になってしまうがん患者が大量に発生しているのが現実だ。
外科は「再発転移しないように」治療しているわけだから、初期治療には熱心に取り組むが、再発転移してしまった患者には冷たい。とまで言い切るのは悪いが、そういう傾向は少なからずあると思う。
私の場合は後遺症だったが、「もう治せない」という意味では同じで、「自分には治せない」となると急速に興味をなくすのが医者だ。
「自分に治せない」なら、もっと治せる専門性をもった他の医者につないでくれればいいのだが、それをしてくれないから難民が次々に発生する。
だから医者同士の連携はとても重要だと思っているのだが、私が見る限り、L病院の連携のまずさは最低だ。
これではいくら一人ひとりが優秀で豊富なキャリアや知識を持っていようと、患者にとってはまったく安心できない。
聖路加を選んだのはその「連携」が進んでいるという印象を受けたからであり、開口一番、一条先生の口から「腫瘍内科医につなぎます」という言葉が出たときは「やはり思った通り!」と感心した。
しかも、よく聞くとその腫瘍内科医というのは、一条先生のご主人だというではないか。
これ以上の連携があるだろうか!?
L病院に腫瘍内科医がいるのかどうか知らないが、三井先生(仮名)のやり方を見ていると、とても他科と連携して治療を進めていくとは思えないので、いてもいなくても事実上機能していないと見た。
聖路加ならどこかで腫瘍内科医も治療にかかわってくれるんじゃないかと思っていたのだが、まさかここまでうまくいくとは思わなかった。
が、問題がただひとつあって、その先生はまだアメリカから正式帰国していないのだそうだ。
帰国後すぐに診察を受けても19日にはなってしまう。
そこまで治療をしないで待っていられるかと言われるとちょっと悩ましい。
今の予定では、その前の週にL病院に入院して一回目の治療(ハーセプチン投与)を行うことになっていたが、もし病院を移るなら入院の申込もキャンセルしなくてはならない。
でも、せっかく腫瘍内科の先生に診てもらえるんだから、どうせなら最初から診てもらいたい。
ということで、とにかく至急三井先生に事情を話して紹介状と検査資料を揃えてもらうことにした(多分、それだけで1週間くらいかかってしまいそうだし)。
そして、一条先生には、腫瘍内科のご主人に今の状況をできる限り詳しく説明して伝えておいていただくということに。
母も、聖路加が引き受けてくれるとわかってかなり安心したようだった。
本題が終わって、後半は雑談に入った。
「そういえば一条先生はクリスチャンなんですよね。うちの母もクリスチャンなんですよ」と話したところ、一条先生は「えーーーー!」と驚いたあと、「なぁんだ〜。じゃあ大丈夫ですよ〜!」といきなりくだけた態度に。
なにがどう大丈夫なのかよくわからなかったが、要するに「クリスチャンなら神様にお任せすれば絶対に悪いようにはならない」という共通概念があるということらしい。
同じ信者ということでさらに親近感が増し、「これは絶対に神様のお導き!」と2人で和気あいあいと盛り上がっていた。
その後、一条先生が私と同じ年(正確には同じ学年)だということ、一条先生と母の出身高校が同じだということ、などなど不思議な縁が次々に見つかり、いちいち驚いたが、なんといっても一番驚いたのは「私のセカンドオピニオンは、本来別の先生が担当することになっていた」という事実だった。
当日になって、その先生にはずせない用事ができたため、急遽ピンチヒッターとして一条先生が診ることになったのだという。
これにはちょっと鳥肌がたった。
「神様が会わせてくださった」とはまさにこういうことなのかもしれない。
ともあれ、なんとか道はつながった。
19日までが待ち遠しい。
あれからダメもとですぐに一条先生(仮名)にメールを出したところ、「セカンドオピニオンなら紹介状なしでも大丈夫です」という返事がきた。
メールを出したのが5日だったので、最短の外来日は8日になる。
紹介状なしなので、揃えられるデータは血液検査のデータくらいしかなかったが、とにかく話を聞いてもらいに行くことになった。
つい1ヶ月前には私のことで相談に行ったのに、今度は母の転移の相談。
あまりの展開に一条先生も驚いていた。
話を一通り聞いた先生は、「転移した乳がんの治療は局所治療(外科手術)ではなく、全身治療(薬物療法)の領域になるので、担当は私ではなく腫瘍内科医になります」と言った。
腫瘍内科医とは、がんの薬物治療の専門医のことで、アメリカではかなり前から育成が進められているが、日本ではまだまだ少ない。
今までのがん治療は、胃とか腸とか肺とか脳とか、臓器別の専門医が診るのが普通だった。がん治療の第一選択といえばおもに「手術」なので、ここでいう専門医とは具体的には「外科医」になる。
胃がんなら胃がん専門の外科医がまずは手術を行い、次に内科的治療(抗がん剤)が必要になるとやっぱり外科医がそのまま治療を行う。
しかし、本来ならば抗がん剤治療は内科の領域である。外科医が手術の片手間にやっていいのかという疑問は当然起きる。
そこで出てくるのが腫瘍内科医だ。
腫瘍内科医の最大の特徴は、すべての臓器のがんを取り扱うということだ。
がんは最初はひとつの臓器からスタートする。この時点では外科手術での根治もまだ可能な段階である。
しかし、転移するようになると、がんは(画像で確認できない部分も含めて)全身に広がることになるから、こうなるともう外科の出番はない。治療は薬物療法しかなくなる。
しかもどの臓器にとぶかもわからないため、臓器ごとの専門医ではカバーできない。
腫瘍内科医は、まさにこういう状況のために存在する。
理想は外科医と腫瘍内科医の連携だが、腫瘍内科医の絶対数が少ないうえ、前にも書いたように、外科医が自分で薬物治療までやってしまうケースが多いため、実際は転移した時点で、外科に見放されて難民になってしまうがん患者が大量に発生しているのが現実だ。
外科は「再発転移しないように」治療しているわけだから、初期治療には熱心に取り組むが、再発転移してしまった患者には冷たい。とまで言い切るのは悪いが、そういう傾向は少なからずあると思う。
私の場合は後遺症だったが、「もう治せない」という意味では同じで、「自分には治せない」となると急速に興味をなくすのが医者だ。
「自分に治せない」なら、もっと治せる専門性をもった他の医者につないでくれればいいのだが、それをしてくれないから難民が次々に発生する。
だから医者同士の連携はとても重要だと思っているのだが、私が見る限り、L病院の連携のまずさは最低だ。
これではいくら一人ひとりが優秀で豊富なキャリアや知識を持っていようと、患者にとってはまったく安心できない。
聖路加を選んだのはその「連携」が進んでいるという印象を受けたからであり、開口一番、一条先生の口から「腫瘍内科医につなぎます」という言葉が出たときは「やはり思った通り!」と感心した。
しかも、よく聞くとその腫瘍内科医というのは、一条先生のご主人だというではないか。
これ以上の連携があるだろうか!?
L病院に腫瘍内科医がいるのかどうか知らないが、三井先生(仮名)のやり方を見ていると、とても他科と連携して治療を進めていくとは思えないので、いてもいなくても事実上機能していないと見た。
聖路加ならどこかで腫瘍内科医も治療にかかわってくれるんじゃないかと思っていたのだが、まさかここまでうまくいくとは思わなかった。
が、問題がただひとつあって、その先生はまだアメリカから正式帰国していないのだそうだ。
帰国後すぐに診察を受けても19日にはなってしまう。
そこまで治療をしないで待っていられるかと言われるとちょっと悩ましい。
今の予定では、その前の週にL病院に入院して一回目の治療(ハーセプチン投与)を行うことになっていたが、もし病院を移るなら入院の申込もキャンセルしなくてはならない。
でも、せっかく腫瘍内科の先生に診てもらえるんだから、どうせなら最初から診てもらいたい。
ということで、とにかく至急三井先生に事情を話して紹介状と検査資料を揃えてもらうことにした(多分、それだけで1週間くらいかかってしまいそうだし)。
そして、一条先生には、腫瘍内科のご主人に今の状況をできる限り詳しく説明して伝えておいていただくということに。
母も、聖路加が引き受けてくれるとわかってかなり安心したようだった。
本題が終わって、後半は雑談に入った。
「そういえば一条先生はクリスチャンなんですよね。うちの母もクリスチャンなんですよ」と話したところ、一条先生は「えーーーー!」と驚いたあと、「なぁんだ〜。じゃあ大丈夫ですよ〜!」といきなりくだけた態度に。
なにがどう大丈夫なのかよくわからなかったが、要するに「クリスチャンなら神様にお任せすれば絶対に悪いようにはならない」という共通概念があるということらしい。
同じ信者ということでさらに親近感が増し、「これは絶対に神様のお導き!」と2人で和気あいあいと盛り上がっていた。
その後、一条先生が私と同じ年(正確には同じ学年)だということ、一条先生と母の出身高校が同じだということ、などなど不思議な縁が次々に見つかり、いちいち驚いたが、なんといっても一番驚いたのは「私のセカンドオピニオンは、本来別の先生が担当することになっていた」という事実だった。
当日になって、その先生にはずせない用事ができたため、急遽ピンチヒッターとして一条先生が診ることになったのだという。
これにはちょっと鳥肌がたった。
「神様が会わせてくださった」とはまさにこういうことなのかもしれない。
ともあれ、なんとか道はつながった。
19日までが待ち遠しい。
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カウンター
お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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