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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 このところ、過去の話や母の話を書いたりして、現状の話を更新していなかった。
 目の手術の話は別にして、現在進行形の記事は2009年9月18日でストップ。かれこれもう2年近くがたとうとしている。

 乳がんを発症し、いろいろ悩みつつ西洋医学的に「無治療」という道を選び、唯一おこなっていた鍼治療で明らかに腫瘍が縮小していったこと。
 そこまでで話は終わっていたと思う。
 その後どうなったか?

 じつはまたあらたな動きがあったので、ここから新しい章を起こすことにする。
 章のタイトルはまだあえて決めない。
 自分でもこの先どうなってしまうのかわからないからだ。

 「乳がん」の章の最後の記事以来、やっていることに変わりはない。
 手術もしていないし、抗がん剤も放射線治療もホルモン療法もやっていない。
 漢方も途中でやめてしまった。
 続けているのは鍼灸治療のみ。
 L病院の乳腺科へは定期的なエコーチェックで足を運ぶだけだった。

 エコー上の腫瘍の大きさは、乳がんと確定された2009年7月6日時点のエコーでは27×20ミリだったが、鍼灸治療を9回おこなってから測定した9月11日のエコーでは18×13ミリ、10月23日のエコーではさらに縮小して15×12ミリに。
 以降、だいたい2ヶ月に一度のペースで測定をおこなってきたが、最新の計測(昨年の12月24日)では10×8ミリにまでなっていた。

 南田先生(仮名)は、最初のうちこそ「そんなはずはない」と疑わしい目を向けていたが、一度も大きくなることなく縮小を続けている画像データを見ているうちに、ついに最後は何も言わなくなってしまった。
 「病院に通うのも大変でしょうから、次は半年後でいいですよ」と言われたときは、「このままフェードアウトして出ていってくれないかな」という投げやりな願望の色すら見えた。

 しかし、私の体調はずっと良いわけではなかった。
 2009年は母が亡くなるという大きな出来事でストレスはマックスだったし、2010年はうつ状態から抜けたと思ったら左腕の骨折で聖路加に入院、さらに目の手術やその他もろもろのイベントで忙殺されるなど、息つく暇もなくさまざまな出来事に翻弄され続けた。
 その疲れが2010年秋頃から積もり始め、慢性的に疲労感を感じるようになった。
 思えば以前はもっとひどい状態だったのだが、鍼で一回良い体調を経験してしまっただけに、その後の体調悪化は前よりもつらく感じた。

 なによりも骨折をきっかけに腕のむくみが悪化したのが打撃だった。
 リンパ浮腫があるから手術ができず、固定で骨がつくまで待つしかなかったのだが、骨折の炎症でむくみがひどくなったうえ、長期間の固定のせいで筋力はガタ落ち。しばらくはリハビリもできないほど浮腫の状態が悪くなった。
 腕の重さは想像を絶するほどで、ただでさえ筋肉の落ちた左肩では腕を支えきれず、ただ腕を下におろしているだけで脱臼寸前状態。三角巾で吊ると今度は首に腕の重みがめりこんで前に倒れそう、といった具合だった。

 試行錯誤の末、聖路加のリハビリ室で肩全体をカバーする最新型のアームスリングを提供してもらい、それをしている間は腕の重さを軽減できるようになった。
 とはいうものの、腰と首両方で重みを支えるため、不自由な腕でこれを着脱するのは大変難儀。さらに、これをつけるとリュックが使えなくなるので、荷物は今まで以上に体の負担になった。
 つけてもつけなくても楽にはなれないが、そんな中でも鍼通い、病院通いは続く。

 少し前までは、腰のあたりまでなら肘を曲げて左腕をなんとかひき上げることができたのに、今ではまったくあがらなくなった。
 診察券や財布の出し入れひとつにしても命がけで気合いを入れて取り組まないと乗り越えられないが、周囲は「なにがどうそんなに大変なのか」なんてわからないので、人と同じ行動をするのが日に日に負担になっていった。

 もちろん、不自由なのは家の中でも同様だ。
 身の回りのことがどんどんできなくなる。
 脱いだ服を裏返せない。ハンガーにかけられない。洗濯物を干せない。たためない。封書から書類を出せない。しまえない。
 ささいなことの積み重ねが澱のように疲労として体に蓄積されていく。
 手伝ってもらうといっても、ここまで細かいことはなかなかまわりには頼めない。
 人に見られたくないもの、触られたくないものだってある。

 思いあまって地域の福祉事務所に相談に行ったら「ヘルパー支援の申請」と「障害認定等級の格上げ申請」を提案された。
 現在、私の障害等級は3級だが、左手がまったく持ち上がらない、握れないとなると、2級の認定がおりるのではないかというのだ。
 2級になったから何かが解決するというわけではないのだが、3級と2級の壁はけっこう大きいので、2級以上でないと受けられない支援はいろいろあるらしい。

 「ヘルパー申請」については、管轄が区役所になるので、まずは申請をして、区役所からの訪問調査で「ヘルパー派遣」が必要な状態なのかどうかを判断され、認可がおりたところで事業所からヘルパーが派遣されてくるという。
 ただ、同居している家族がいると認可がおりるのはかなり難しいと言われた。
 介護保険だとまたべつなんだけど、私はまだまだ介護保険が使える年齢ではないので、非常に中途半端な位置にある。
 年齢で区切るっていうのもよくわからない話だが…。

 そんなわけで、急にさまざまな診断書が必要になってきた。
 そこではたと気がついた。

 私って「主治医」がいないかも…。

 乳がんの経過は乳腺科医が診ているが、ここでは腕の障害については診てくれない。
 ホジキンはもう寛解して久しいので血液内科の出番もない。
 麻痺のもともとの原因は放射線だが、放射線科とは確執がいろいろあってもう縁が切れてしまった。
 眼科は術後の経過を診てもらっているだけだから関係がない。
 呼吸器内科も喘息を診てもらっているだけだからやっぱり腕は関係ない。
 かろうじて今回の書類までは整形外科が書いてくれるだろうだが、ここだってたまたま骨折でかかったから担当してくれただけで、骨折が治った以上、もとからある障害についていつまでもかかわってはくれないだろう。

 あらためて「漂流難民」であることを実感した。

 私の体は、どこから何が飛び出すのかわからない「びっくり箱」のようなものだ。
 その都度飛び出してきたものを診てくれる人はいても、箱そのものを引き受けてくれる人はいない。
 本来ひきうけるべき相手が職務を放棄してしまったのだからしかたがない。
 飛び出して来たものを中に押し込んだら、その人もまたどこかへ去っていく。
 次に飛び出してきたらそれはそれでまた別の人が押し込むだろうが、私はそのたびに「びっくり箱」の成り立ちについて説明しなければならず、その情報は決して積み上がってはいかない。

 そんなことをボーッと考えながら聖路加の院内をフラフラ歩いていたら、一条先生(仮名)とバッタリ会った。
 一条先生は、腫瘍内科医で、母の主治医だった先生だ。
 奥さんの一条先生(ブレストセンター)のほうは外科医で、そもそも私が聖路加と縁ができたのはセカンドオピニオンでブレストセンターの一条先生に会ったことが始まりだった。

 一条先生に現在の状況を聞かれ、「主治医がいない苦悩」について語ったところ、「医療連携室」に相談をもちかけてくれた。
 そこで言われたのは、「一般内科で診てもらったらどうか?」という意見だった。
 一般内科は、いわゆる総合診療科と呼ばれる科で、細分化してしまった日本の医療界ではなかなか人材が育たないらしいのだが、アメリカでは「総合診療」そのものが高度に専門化していて、発達しているらしい。
 聖路加では今その人材が揃いつつあるということで、病気の範囲が多岐にわたっている患者には最適だという。

 そう聞くと、自分が求めていた「主治医」がそこにいる気がして、一気に道がひらけたように思ったが、現実はそう甘くはなかった。
 実際に一般内科の先生を紹介してもらえるまでには何週間もかかり、あげくのはてに橋渡しをしてくれた看護師さんから「いろいろ状況を聞いたら、やはり一般内科では難しい気がしてきた」と言われてしまった。

 理由はいろいろあったが、結局そこまで病歴の多い患者を途中から診るのは難しいということと、後遺症というのは病気とは違うから、おおもとの原因にかかわったところでしか診ることができないということ、大きな病院は医師が頻繁にチェンジするので、長くつきあってもらうのはシステム的に難しいということ……このへんがネックのようだった。
 
 言われればいちいちもっともなのだが、期待しただけに落胆は大きかった。
 やっぱりまた難民か……。
 一般内科にも断られたらもう行くところはないな。
 私は主治医をもつことを諦め、再びいろいろな科を、避難所を渡り歩くように移動するようになった。

 そんなある日、私はまたバッタリと一条先生に会った。
 「一般内科の件、どうなった?」と聞かれたので、断られたという話をしたところ、「えーーー、なんだよ!一般内科いいと思ったのに」とがっかりしたような反応。
 「なんだよ」って言われても……。
 ていうか、それこっちが言いたいセリフだし。
 と思いつつ黙ってたら、次の瞬間意外な言葉が。
 「うーーん……じゃあ僕んとこ来る?」

 えーーーーーーー!!!
 行っていいのぉおお?!!
 抗がん剤やらないけど、ホルモン療法もやらないけど、それでもひきうけてくれるの?
 私は捨てられた子犬がすがるようなウルウルした目で一条先生を見た。

 こうして私に「主治医」ができた。
 今日の話はここまで。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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