がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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今日はちょっと愚痴らせてもらうから。
…って、え?今までのは愚痴じゃなかったの?と言われそうだが、今日は「がん患者」としてではなく「障害者」としての愚痴だ。
言ってもしょうがないし、読んだ人もどんよりするだけだと思うので、今まで書くのを控えてきたが、自分の中で何かが壊れたという実感があったので、とりあえず吐き出すことにした。
ていうか、吐き出さないと危険かもしれないこれ。と思ったので。
一昨日、弟の結婚式に出席した。
結婚式に出席することじたいすごく久しぶりだし、もちろん嬉しいし、楽しみだった。
でも気の滅入ることがひとつ……それは「服装」だった。
私はもう久しくスカートをはいていない。
同時に、ストッキングもはいていない。
というか、ストッキングをはきたくないからスカートもはかなかったという部分がある。
肢体不自由者にとって、「おしゃれを楽しむ」なんてことはもっともプライオリティーの低いことだ。
特に上肢不自由者にとっては。
ただ「服を着る(脱ぐ)」というだけのことが、どれだけのエネルギーを奪っていくことか…。
楽なほうへ、楽なほうへと流れていくのはそれしか選択肢がないからだ。
私の場合、少しずつゆるやかに自由がきかなくなっていく障害なので、現在どの程度不自由になっているのか、自分でも判断しづらいことが多々ある。
ちょっと前までは普通にできていたことが、しばらくぶりにやってみたらまったくできなくなってた……ということもしばしばだ。
ただでさえ、真夏の結婚式は体力を消耗する。
なるべく無難に、なるべく楽できる服装を選ぶべきだったのかもしれない。
が、同時に、「おしゃれというものを楽しめる場に出られる機会はこれが最後かもしれない」という思いもあり、私はいつもなら絶対に着ないような膝丈のワンピースを選んだ。
ヘアメイクも会場のそばのサロンでやってもらうことにして、朝早いので前日はホテルに泊まった。
……と書くと簡単そうだが、一人で行動するのは無理なので、つねに同伴者が必要だった。
さて。問題はストッキングだ。
前にはいたのはいつだろう。
もう思いだせないくらい昔だということはたしかだ。
今回はワンピースが膝丈なので、ストッキングはフルの長さが必要だ。
なおかつ、私は大きいサイズでないと無理。
とりあえず通販カタログで探してみたが、サイズはいろいろあるものの普段づかいのものばかり。
せっかくなのでもう少しおしゃれっぽい生地のものがほしい。
で、買いに行こうと思ったが、ほとんど毎日通院や鍼通いに追われて買いに行く余裕がない。
時間がないのではなく、買い物のためだけに違う場所に立ち寄る体力がないのだ。
しかたなく通りがかりの駅ビル内の店などで2種類ほどフォーマルっぽいストッキングを買ったのだが、サイズはワンサイズしかない(S〜Lというもの)。
前から思ってたけど、SサイズとLサイズの人が同じものを兼用できるという発想はどこからくるんだろうか?
迷ったけど、ないよりはましだろうと思って買った。
さらに、随分昔に通販で買ったらしき未開封のフォーマルっぽいストッキング(LLサイズ)が箪笥の奥から出てきたので、「まあこの中のどれかは入るだろう」と思い、3足を荷物の中に入れた。
そして式前日。
ホテルにチェックインし、なんだかんだバタバタしたあと、お風呂に入ってさあ寝ようというときに、試しにストッキングをはいてみた。
ここで「え?なんでもっと前にはいてみなかったのよ〜!」というつっこみが入るかもしれない。
それについてはもうまったくその通りとしか言いようがない。
そしてその先の展開はご想像の通り。
は……け……な……い……(゚д゚)
すんなりはけるとは思ってなかったけど、まさかここまで絶望的にはけないなんて…。
この「はけない」という言葉は「サイズとして」という意味と「着脱能力」という意味の2つを兼ねる。
サイズが小さいということもさることながら、右手だけではストッキングははけないのだ。
頑張ってひっぱっても膝くらいまでしかのびない。しかも片足のみ。
生地がやわらかいのでこれ以上ひっぱったら破れそうでこわい。
あせってLLサイズをとりだしてみたが、なんと古すぎて開封しただけでゴム部分がボロボロに崩壊。
それにこちらもサイズは前に試したものとたいして違わない。
あせりを通り越して私はパニックになった。
翌朝一緒にサロンに行く従姉妹に連絡したが、時刻はもう12時近い。
サロンに行く時間は8時20分。
親族集合は10時45分。
どう考えても買いに行く時間はない。
そこでまた言われたこのセリフ。
「どうしてもっと早くはいてみなかったの!」
言われたときは本当にそうだ、私が悪い、と思ったのだが、だんだん違う感情がわいてきた。
なぜもっと早くはいてみなかったのか。
それは自分の中で「ストッキングを開封してはいてみる」というハードルがとても高かったからだ。
まず、はく以前に袋から出す作業を考えるだけでも気が重い。
そのうえ「はく」となると、正直もう考えたくないくらい荷が重い。
想像することすらきつい。
どうせ最終的には誰かにはかせてもらうことになるのだから。
そう。私は試着することから「逃げていた」。
結局、従姉妹が家にある在庫の中からLLサイズを持ってきてくれて、はかせてもらったら入ったので事なきを得たのだが、「なんでもっと早くに試着しなかったの?」という一言は予想以上に私にダメージを与え、2日たった今でもまだ立ち直れないでいる。
現実的に事前に試着しようと思ったら私はどうすればよかったのだろう。
サイズが何サイズであれ、自分でストッキングがはけないということは今回はっきりわかった。
手伝ってもらうとしたら父しかいない。
てことは、父にはかせてもらわなきゃいけないの?
股下までひっぱってもらわなきゃいけないの?
そう考えたら、なんか一気にいろいろなことが真っ暗になった。
前は、不自由ながらも自分でストッキングをはくことはできた。
でも今はできない。
こうやって「できないこと」が確実にひとつずつ増えていく。
ケガなどの一時的な不調ならば一定期間をしのげばいいが、じわじわと下降していく機能には何の希望もない。
頭ではわかっているけれど、そんなことリアルに実感しながら毎日生きていくのは耐えられない。
がんが転移するより耐えられない。
だから無理なドレスを着たり、ストッキングをはいたりして「現実」からなるべく目を背けようとしていたのだ。
私がなんとか無理を通して「平気」という顔をすれば、まわりにも絶望的な障害について考えさせずに済む。
考えさせたら最後、まわりとはつきあえなくなる。
私のほうが健常者に合わせなければ、私はいろいろなものをあきらめなければならない。
もちろん、今だって充分いろいろなものをあきらめているし、まわりも気づける範囲でサポートはしてくれている。
それでも「なんで試着しなかったの?」という一言に対して「悪かった」と思ってしまう自分に、「健常者の感覚に無意識に頑張って合わせようとしている不自然さ」を感じてしまったのは事実だ。
ひらたく言えば、私は自分で思っている以上に無理をしていたんだと思う。
「無理しないで」という言葉は、「頑張って」という言葉と同じくらい頻繁に使われる。
その言葉じたいにたいした意味はないし、いずれも社交辞令のようなもの。健康な人には「頑張って」と言い、病弱な人には「無理しないで」と言うくらいの使い分けでしかないだろう。
でも、本当にハンデのある人間は、「無理」しなかったらQOLダダ下がりになってしまう。
無理をして無理をして、それでようやく健常者が無意識にやっているレベルかそれ以下に到達できる。
健常者の「無理をする」とは次元は違うのだ。
同様に、「頑張ってるね」と言われるのも違和感を感じる。
だって「頑張らない」という選択肢はないから。
気持ちの上では無理してないし、頑張ってないつもりでも、心と体は常にロッククライマーが岩にしがみつくようにフル回転で稼働している。
それがまわりにわからないことはしょうがないと思う。
でも自分も気づかないでいたことがショックだった。
式の間は気が張っていたのでまだそこまで明確に意識していなかったが、家に帰ったら緊張の糸が一気にきれた。
本当はまわりの人の一挙手一投足にいちいち「私はあれもできないんだ」「これもできないんだ」と無意識にカウントして絶望が深くなっていたこと。できないのに、なるべくそれを悟らせないように必死に頑張ってふんばってあの場にいたこと。
そのことに気づいたら体中に「もう無理」「もう無理」「もう無理」という言葉が充満し、涙がとまらなくなった。
泣いたからって何が変わるわけでもない。
どんなに説明しても話が通じず、私が「一人暮らし」もできるくらいに思っている人もいる。
そういう人はこのブログを読むこともないだろう。
でも、状況はいろいろでも、同じような閉塞感を抱えている人は世の中にたくさんいるはず。
だから書いてみた。
これを読んで少しでも苦しみが実感できる人がいることを期待して。
最近は、右手も力が入りにくくなってきているので、タイピングもいつまでできるかわからない。
昔はどんなに長文でも平気だったが、今は片手になった分、思うように打てないし、疲労感も増している。
書けるうちに書いておきたい。発信したい。
今起こっていること、そしてまだまだ書けないでいる「私がなぜこうなったか」という過去の経緯を…。
…って、え?今までのは愚痴じゃなかったの?と言われそうだが、今日は「がん患者」としてではなく「障害者」としての愚痴だ。
言ってもしょうがないし、読んだ人もどんよりするだけだと思うので、今まで書くのを控えてきたが、自分の中で何かが壊れたという実感があったので、とりあえず吐き出すことにした。
ていうか、吐き出さないと危険かもしれないこれ。と思ったので。
一昨日、弟の結婚式に出席した。
結婚式に出席することじたいすごく久しぶりだし、もちろん嬉しいし、楽しみだった。
でも気の滅入ることがひとつ……それは「服装」だった。
私はもう久しくスカートをはいていない。
同時に、ストッキングもはいていない。
というか、ストッキングをはきたくないからスカートもはかなかったという部分がある。
肢体不自由者にとって、「おしゃれを楽しむ」なんてことはもっともプライオリティーの低いことだ。
特に上肢不自由者にとっては。
ただ「服を着る(脱ぐ)」というだけのことが、どれだけのエネルギーを奪っていくことか…。
楽なほうへ、楽なほうへと流れていくのはそれしか選択肢がないからだ。
私の場合、少しずつゆるやかに自由がきかなくなっていく障害なので、現在どの程度不自由になっているのか、自分でも判断しづらいことが多々ある。
ちょっと前までは普通にできていたことが、しばらくぶりにやってみたらまったくできなくなってた……ということもしばしばだ。
ただでさえ、真夏の結婚式は体力を消耗する。
なるべく無難に、なるべく楽できる服装を選ぶべきだったのかもしれない。
が、同時に、「おしゃれというものを楽しめる場に出られる機会はこれが最後かもしれない」という思いもあり、私はいつもなら絶対に着ないような膝丈のワンピースを選んだ。
ヘアメイクも会場のそばのサロンでやってもらうことにして、朝早いので前日はホテルに泊まった。
……と書くと簡単そうだが、一人で行動するのは無理なので、つねに同伴者が必要だった。
さて。問題はストッキングだ。
前にはいたのはいつだろう。
もう思いだせないくらい昔だということはたしかだ。
今回はワンピースが膝丈なので、ストッキングはフルの長さが必要だ。
なおかつ、私は大きいサイズでないと無理。
とりあえず通販カタログで探してみたが、サイズはいろいろあるものの普段づかいのものばかり。
せっかくなのでもう少しおしゃれっぽい生地のものがほしい。
で、買いに行こうと思ったが、ほとんど毎日通院や鍼通いに追われて買いに行く余裕がない。
時間がないのではなく、買い物のためだけに違う場所に立ち寄る体力がないのだ。
しかたなく通りがかりの駅ビル内の店などで2種類ほどフォーマルっぽいストッキングを買ったのだが、サイズはワンサイズしかない(S〜Lというもの)。
前から思ってたけど、SサイズとLサイズの人が同じものを兼用できるという発想はどこからくるんだろうか?
迷ったけど、ないよりはましだろうと思って買った。
さらに、随分昔に通販で買ったらしき未開封のフォーマルっぽいストッキング(LLサイズ)が箪笥の奥から出てきたので、「まあこの中のどれかは入るだろう」と思い、3足を荷物の中に入れた。
そして式前日。
ホテルにチェックインし、なんだかんだバタバタしたあと、お風呂に入ってさあ寝ようというときに、試しにストッキングをはいてみた。
ここで「え?なんでもっと前にはいてみなかったのよ〜!」というつっこみが入るかもしれない。
それについてはもうまったくその通りとしか言いようがない。
そしてその先の展開はご想像の通り。
は……け……な……い……(゚д゚)
すんなりはけるとは思ってなかったけど、まさかここまで絶望的にはけないなんて…。
この「はけない」という言葉は「サイズとして」という意味と「着脱能力」という意味の2つを兼ねる。
サイズが小さいということもさることながら、右手だけではストッキングははけないのだ。
頑張ってひっぱっても膝くらいまでしかのびない。しかも片足のみ。
生地がやわらかいのでこれ以上ひっぱったら破れそうでこわい。
あせってLLサイズをとりだしてみたが、なんと古すぎて開封しただけでゴム部分がボロボロに崩壊。
それにこちらもサイズは前に試したものとたいして違わない。
あせりを通り越して私はパニックになった。
翌朝一緒にサロンに行く従姉妹に連絡したが、時刻はもう12時近い。
サロンに行く時間は8時20分。
親族集合は10時45分。
どう考えても買いに行く時間はない。
そこでまた言われたこのセリフ。
「どうしてもっと早くはいてみなかったの!」
言われたときは本当にそうだ、私が悪い、と思ったのだが、だんだん違う感情がわいてきた。
なぜもっと早くはいてみなかったのか。
それは自分の中で「ストッキングを開封してはいてみる」というハードルがとても高かったからだ。
まず、はく以前に袋から出す作業を考えるだけでも気が重い。
そのうえ「はく」となると、正直もう考えたくないくらい荷が重い。
想像することすらきつい。
どうせ最終的には誰かにはかせてもらうことになるのだから。
そう。私は試着することから「逃げていた」。
結局、従姉妹が家にある在庫の中からLLサイズを持ってきてくれて、はかせてもらったら入ったので事なきを得たのだが、「なんでもっと早くに試着しなかったの?」という一言は予想以上に私にダメージを与え、2日たった今でもまだ立ち直れないでいる。
現実的に事前に試着しようと思ったら私はどうすればよかったのだろう。
サイズが何サイズであれ、自分でストッキングがはけないということは今回はっきりわかった。
手伝ってもらうとしたら父しかいない。
てことは、父にはかせてもらわなきゃいけないの?
股下までひっぱってもらわなきゃいけないの?
そう考えたら、なんか一気にいろいろなことが真っ暗になった。
前は、不自由ながらも自分でストッキングをはくことはできた。
でも今はできない。
こうやって「できないこと」が確実にひとつずつ増えていく。
ケガなどの一時的な不調ならば一定期間をしのげばいいが、じわじわと下降していく機能には何の希望もない。
頭ではわかっているけれど、そんなことリアルに実感しながら毎日生きていくのは耐えられない。
がんが転移するより耐えられない。
だから無理なドレスを着たり、ストッキングをはいたりして「現実」からなるべく目を背けようとしていたのだ。
私がなんとか無理を通して「平気」という顔をすれば、まわりにも絶望的な障害について考えさせずに済む。
考えさせたら最後、まわりとはつきあえなくなる。
私のほうが健常者に合わせなければ、私はいろいろなものをあきらめなければならない。
もちろん、今だって充分いろいろなものをあきらめているし、まわりも気づける範囲でサポートはしてくれている。
それでも「なんで試着しなかったの?」という一言に対して「悪かった」と思ってしまう自分に、「健常者の感覚に無意識に頑張って合わせようとしている不自然さ」を感じてしまったのは事実だ。
ひらたく言えば、私は自分で思っている以上に無理をしていたんだと思う。
「無理しないで」という言葉は、「頑張って」という言葉と同じくらい頻繁に使われる。
その言葉じたいにたいした意味はないし、いずれも社交辞令のようなもの。健康な人には「頑張って」と言い、病弱な人には「無理しないで」と言うくらいの使い分けでしかないだろう。
でも、本当にハンデのある人間は、「無理」しなかったらQOLダダ下がりになってしまう。
無理をして無理をして、それでようやく健常者が無意識にやっているレベルかそれ以下に到達できる。
健常者の「無理をする」とは次元は違うのだ。
同様に、「頑張ってるね」と言われるのも違和感を感じる。
だって「頑張らない」という選択肢はないから。
気持ちの上では無理してないし、頑張ってないつもりでも、心と体は常にロッククライマーが岩にしがみつくようにフル回転で稼働している。
それがまわりにわからないことはしょうがないと思う。
でも自分も気づかないでいたことがショックだった。
式の間は気が張っていたのでまだそこまで明確に意識していなかったが、家に帰ったら緊張の糸が一気にきれた。
本当はまわりの人の一挙手一投足にいちいち「私はあれもできないんだ」「これもできないんだ」と無意識にカウントして絶望が深くなっていたこと。できないのに、なるべくそれを悟らせないように必死に頑張ってふんばってあの場にいたこと。
そのことに気づいたら体中に「もう無理」「もう無理」「もう無理」という言葉が充満し、涙がとまらなくなった。
泣いたからって何が変わるわけでもない。
どんなに説明しても話が通じず、私が「一人暮らし」もできるくらいに思っている人もいる。
そういう人はこのブログを読むこともないだろう。
でも、状況はいろいろでも、同じような閉塞感を抱えている人は世の中にたくさんいるはず。
だから書いてみた。
これを読んで少しでも苦しみが実感できる人がいることを期待して。
最近は、右手も力が入りにくくなってきているので、タイピングもいつまでできるかわからない。
昔はどんなに長文でも平気だったが、今は片手になった分、思うように打てないし、疲労感も増している。
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今起こっていること、そしてまだまだ書けないでいる「私がなぜこうなったか」という過去の経緯を…。
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カウンター
お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
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和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
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