がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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今年最初の更新になります。
すべて報告が中途半端になっていたので簡単に今の状況をお知らせします。
1)相談支援について
相談支援とは、世間一般でいういわゆる「ケアマネージャー」の仕事のこと。
介護保険ではもれなくついて、ケアマネさんがすべてマネージメントをしてくれるが、障害者にはつかない(という事実を知っている人も少ない)。
でも自分でなにもかもやるのは厳しいし、特に私は年齢的にも障害の種類的にも病気の経過的にもあてはまるカテゴリーがあまりにも乏しいので、なんとか相談支援をつけてほしいと働きかけた結果、手続き上あれこれ「むきーっ」ってことはあったけど結論としては雪村さん(仮名)がひきうけてくれることになった。
これは大きな一歩だった。
その後、いろいろ状況が変化しているが、どれもこれも「相談支援が入ってこそ」という変化で、ほんとにこのタイミングで入ってよかった。
2)訪問リハについて
これも前に書いた通り。
週一回リハのために聖路加に通ってたけど、その頻度での通院もしんどくなってきたうえ、リハを受けるためには必ず医師の診察を同じ日に受けなければならず、形式的なものであるにもかかわらず、そのために何時間も待たなくてはならなかった。
病院の固い椅子に座り続けるのは上肢障害者にとってはこのうえなく苦痛で、下手すると行きよりも帰りの方が具合が悪くなっていることもしばしば。
これでは通う意味がないので訪問リハに切り換えたいと訴えた結果、これまた手続き上あれこれ「むきーっ」ってことがあったんだけど、なんとか訪問リハビリに来てくれる療法士さんを見つけることができた。
訪問リハをやっているのは訪問看護ステーションだけど、こちらの世界はこちらの世界で福祉の世界とはまったく違う複雑怪奇なシステムがあって、その業界の人でもすべては把握できないというほど複雑だ。
受けている人はほとんどが高齢者で介護保険適用者。50歳以下で利用している人、医療保険で利用している人は著しく少数で、自分が使える地域の訪問看護ステーションの数は驚くほど少なかった。
うちはA区とB区のちょうど境目あたりなんだけど、住所のA区で探すと「遠すぎて圏外」と言われるし、B区で探すと「B区民優先なので…」と断られるしでエリア的にも微妙。
さらに訪問看護ステーションに所属する療法士さんの絶対数がどこも少ないため、来てくれるのはオーケーでも「もしかしたら看護師が訪問するかもしれないんですけど…」というケースもあった。
が、結論からいうと、ひきうけてくれた訪問看護ステーションは大当たりだった。
家まで来てくれるのが楽なのは言うまでもないが、なによりも療法士さんのやり方が全然違う!
あらためて、病院の療法士さんは「回復&期間限定を前提にやるリハビリ」なんだなということがわかった。
同じ週1でも病院の療法士さんは「前の状態からどう変化したのか」にそれほど関心がなく、機械的に一連のメニューを繰り返すのみ。
しかもほとんどの時間はホットパックで肩関節を温める時間に費やされ、リハビリの実働時間はせいぜい15分といったところ。
また、内容的にも「自分で動かす(自動)」のが基本なので、わずかに残るほっそーーーい筋肉で無理矢理動かす(もちろん補助つきだが)といった感じで超疲れる。そして疲れるわりに効果は感じられない。
対して、訪問の療法士さんは「維持目的&期間無制限が前提のリハビリ」をおこなうので、長い目でつきあうという感じ。
「元通りの状態への回復は望めないが、悪化はさせないことを目的に、様子を見ながらいろいろな方法を少しずつ試していく」というスタンスなので、毎回毎回じつに辛抱強く綿密に状態を観察してくれる。
内容は「自分で動かせない筋肉を動かす(他動)」のが基本で、両下肢+両上肢に合計90分費やしてくれる。
こちらとしては自分で動かさなくていいので全然楽ちんなのだが、もちろんやみくもに動かしてる訳ではなく、可動域が広がるように考えてストレッチをかけているので、最初はびっくりするほど変化があった。
まず、関節がすっごく柔らかくなって曲げられる範囲がぐんと広がった。
関節はもともと柔らかかったが、今まではむくみがひどくて動かせられなかったんだと思う。
一歩踏み出すたびに全体重がかかるため、これまでは怪獣のようにドスンドスンと音をたてて歩いていたんだけど、父に「二階で動いても音がしなくなった」と言われた(笑)。
療法士さんいわく、「全身が、着ぐるみのようにむくみ(水分)で覆われてる。実際はもっともっと痩せてるはず」というのだが、たしかにこの2年ほどで10キロくらい体重が増えている。
10キロ減らすのは簡単ではないと思ったが、可動域が広がってむくみの自然排出が促されるようになってからは、平均で2キロくらいは減った。
まずは足のむくみが、続いて両上肢のむくみが減っていった。
しかし、いいことばかりではない。
今まで動かなかったところが動くようになるということは、それまで無理矢理にでもなんとか保たれていたバランスがいったん崩れるということだ。
当然体に負担もかかるし、筋肉の炎症も起きる。
正直、次にどんな反応が出るのかおっかなびっくりだ。
療法士さんも「予想外のこと」がいっぱいあるみたいで、毎週驚いている。
でも同じ人が続けて腰を据えて診てくれるというのはやはり心強い。
「人間の体が一筋縄ではいかないこと」をよく知っている百戦錬磨の療法士さんならなおのことだ。
とにかく、体に触り、中で何が起こっているのかを想像すること。
体が発するシグナルにいちいち耳を傾けること。
これが今の自分には一番必要なことであり、それを一緒にしてくれる人を日々根気強く探していくしかない。
長くなったのでひとまずはここまで。
最後にお知らせをひとつ。
今まで「わたしの履歴書<病気版>」を記すつもりでこのブログを綴ってきたが、実際はご覧のように最新の情報を更新するだけで精一杯になっている。
本来の目的は「最初」から歴史をひもといていくことだったのに、なかなか過去まで手が回らない。
また、たまに過去の記録をアップしても、ブログ形式だと他の記事の中にまぎれてしまい、時系列に閲覧するのが難しくなっている。
そんなわけで、元旦を機に、新しくサイトをたちあげた。
最初から順番に読みたい方のために、そちらでは25歳の出来事から順を追って更新していこうと思う。
気が遠くなるほどの道のりだが、気分をリセットしたいので、あえてまた一から記し始めた。
25年分の出来事をはたして生きてるうちに書ききれるのかどうかわからないが、ひとつでも多く残していくつもりだ。
こちらのブログでは今まで通り、最新のことをアップしていくようにする。
サイトのタイトルは、
「闘病、いたしません。」
こちらもよろしくお願いします。
すべて報告が中途半端になっていたので簡単に今の状況をお知らせします。
1)相談支援について
相談支援とは、世間一般でいういわゆる「ケアマネージャー」の仕事のこと。
介護保険ではもれなくついて、ケアマネさんがすべてマネージメントをしてくれるが、障害者にはつかない(という事実を知っている人も少ない)。
でも自分でなにもかもやるのは厳しいし、特に私は年齢的にも障害の種類的にも病気の経過的にもあてはまるカテゴリーがあまりにも乏しいので、なんとか相談支援をつけてほしいと働きかけた結果、手続き上あれこれ「むきーっ」ってことはあったけど結論としては雪村さん(仮名)がひきうけてくれることになった。
これは大きな一歩だった。
その後、いろいろ状況が変化しているが、どれもこれも「相談支援が入ってこそ」という変化で、ほんとにこのタイミングで入ってよかった。
2)訪問リハについて
これも前に書いた通り。
週一回リハのために聖路加に通ってたけど、その頻度での通院もしんどくなってきたうえ、リハを受けるためには必ず医師の診察を同じ日に受けなければならず、形式的なものであるにもかかわらず、そのために何時間も待たなくてはならなかった。
病院の固い椅子に座り続けるのは上肢障害者にとってはこのうえなく苦痛で、下手すると行きよりも帰りの方が具合が悪くなっていることもしばしば。
これでは通う意味がないので訪問リハに切り換えたいと訴えた結果、これまた手続き上あれこれ「むきーっ」ってことがあったんだけど、なんとか訪問リハビリに来てくれる療法士さんを見つけることができた。
訪問リハをやっているのは訪問看護ステーションだけど、こちらの世界はこちらの世界で福祉の世界とはまったく違う複雑怪奇なシステムがあって、その業界の人でもすべては把握できないというほど複雑だ。
受けている人はほとんどが高齢者で介護保険適用者。50歳以下で利用している人、医療保険で利用している人は著しく少数で、自分が使える地域の訪問看護ステーションの数は驚くほど少なかった。
うちはA区とB区のちょうど境目あたりなんだけど、住所のA区で探すと「遠すぎて圏外」と言われるし、B区で探すと「B区民優先なので…」と断られるしでエリア的にも微妙。
さらに訪問看護ステーションに所属する療法士さんの絶対数がどこも少ないため、来てくれるのはオーケーでも「もしかしたら看護師が訪問するかもしれないんですけど…」というケースもあった。
が、結論からいうと、ひきうけてくれた訪問看護ステーションは大当たりだった。
家まで来てくれるのが楽なのは言うまでもないが、なによりも療法士さんのやり方が全然違う!
あらためて、病院の療法士さんは「回復&期間限定を前提にやるリハビリ」なんだなということがわかった。
同じ週1でも病院の療法士さんは「前の状態からどう変化したのか」にそれほど関心がなく、機械的に一連のメニューを繰り返すのみ。
しかもほとんどの時間はホットパックで肩関節を温める時間に費やされ、リハビリの実働時間はせいぜい15分といったところ。
また、内容的にも「自分で動かす(自動)」のが基本なので、わずかに残るほっそーーーい筋肉で無理矢理動かす(もちろん補助つきだが)といった感じで超疲れる。そして疲れるわりに効果は感じられない。
対して、訪問の療法士さんは「維持目的&期間無制限が前提のリハビリ」をおこなうので、長い目でつきあうという感じ。
「元通りの状態への回復は望めないが、悪化はさせないことを目的に、様子を見ながらいろいろな方法を少しずつ試していく」というスタンスなので、毎回毎回じつに辛抱強く綿密に状態を観察してくれる。
内容は「自分で動かせない筋肉を動かす(他動)」のが基本で、両下肢+両上肢に合計90分費やしてくれる。
こちらとしては自分で動かさなくていいので全然楽ちんなのだが、もちろんやみくもに動かしてる訳ではなく、可動域が広がるように考えてストレッチをかけているので、最初はびっくりするほど変化があった。
まず、関節がすっごく柔らかくなって曲げられる範囲がぐんと広がった。
関節はもともと柔らかかったが、今まではむくみがひどくて動かせられなかったんだと思う。
一歩踏み出すたびに全体重がかかるため、これまでは怪獣のようにドスンドスンと音をたてて歩いていたんだけど、父に「二階で動いても音がしなくなった」と言われた(笑)。
療法士さんいわく、「全身が、着ぐるみのようにむくみ(水分)で覆われてる。実際はもっともっと痩せてるはず」というのだが、たしかにこの2年ほどで10キロくらい体重が増えている。
10キロ減らすのは簡単ではないと思ったが、可動域が広がってむくみの自然排出が促されるようになってからは、平均で2キロくらいは減った。
まずは足のむくみが、続いて両上肢のむくみが減っていった。
しかし、いいことばかりではない。
今まで動かなかったところが動くようになるということは、それまで無理矢理にでもなんとか保たれていたバランスがいったん崩れるということだ。
当然体に負担もかかるし、筋肉の炎症も起きる。
正直、次にどんな反応が出るのかおっかなびっくりだ。
療法士さんも「予想外のこと」がいっぱいあるみたいで、毎週驚いている。
でも同じ人が続けて腰を据えて診てくれるというのはやはり心強い。
「人間の体が一筋縄ではいかないこと」をよく知っている百戦錬磨の療法士さんならなおのことだ。
とにかく、体に触り、中で何が起こっているのかを想像すること。
体が発するシグナルにいちいち耳を傾けること。
これが今の自分には一番必要なことであり、それを一緒にしてくれる人を日々根気強く探していくしかない。
長くなったのでひとまずはここまで。
最後にお知らせをひとつ。
今まで「わたしの履歴書<病気版>」を記すつもりでこのブログを綴ってきたが、実際はご覧のように最新の情報を更新するだけで精一杯になっている。
本来の目的は「最初」から歴史をひもといていくことだったのに、なかなか過去まで手が回らない。
また、たまに過去の記録をアップしても、ブログ形式だと他の記事の中にまぎれてしまい、時系列に閲覧するのが難しくなっている。
そんなわけで、元旦を機に、新しくサイトをたちあげた。
最初から順番に読みたい方のために、そちらでは25歳の出来事から順を追って更新していこうと思う。
気が遠くなるほどの道のりだが、気分をリセットしたいので、あえてまた一から記し始めた。
25年分の出来事をはたして生きてるうちに書ききれるのかどうかわからないが、ひとつでも多く残していくつもりだ。
こちらのブログでは今まで通り、最新のことをアップしていくようにする。
サイトのタイトルは、
「闘病、いたしません。」
こちらもよろしくお願いします。
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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
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