がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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重たい話をしておいてそのまま「放置」というのも寝覚めが悪いので更新します。
べつに意地悪してるわけじゃないんだけど、今回こういう耳をふさぎたくなるような告知を何人かにしたところ、おもしろいくらい反応に差があることがわかった。
アメリカ在住のあるがん治療専門医師が、自らがんにかかったとき、友人にメールで告知したところ、レスポンスがかえってきたのが2割だったことにショックを受けたと書いていた。
しかも返事をくれないのはほとんどが日本人。アメリカ人は「打ち明けてくれてありがとう」「あなたを全面的にサポートするよ」という返事をくれる人が多かったらしい。
今、緩和ケア医療をやっている医師が書いた『死を忘れた日本人』という本を読み始めたが(本棚にあったが途中までしか読んでなかった)、まさに表題通りだ。
返事を返さないことをどうこう言うつもりはない。
返事をしないのがその人の返事なのだと思う。
ただ、「終わり」が見えるということは、「終わり」以外のものもいろいろ見えてくるんだなと思った。
水曜日は告知を受け止めて帰るだけでいっぱいいっぱいだったけど、水曜から木曜にかけてもろもろ連絡に追われたり、ヘルパーさんが来たり、療法士さんが来たりしているうちにあとからどっと疲れが吹き出てきた。
微熱、だるさ……そして食欲が皆無に。
昨日は午前中に鍼に行って院長に新しいがんが見つかったという話をした。
「放射線はね……あとになっても出てくるんですよ…」と一言。
「化学療法を受けるつもりはないので生検も受けないと思う」ということをあらためて伝えた。
もちろん、治療は今までと変わらない。
乳がんが大きくなってきたのと今回の腫瘤の出現は連動しているから、根っこは同じだ。
自分の今のキャパシティを越える負荷がかかったから起きている現象だ。
乳がんが小さくなっているのに新しい腫瘤ができたり、乳がんが転移したりしているわけではないので、やり方が間違っているのではないと思う。
「治療しなかったから」と言いたい人はたくさんいるだろうが、治療していたらもっと早く転移や原発がんが出てきただろうと思う。
そのくらい厳しい状態でこの4年間やってきたのだ。
私だってその間放置して好きなように生きていたわけではない。
病院で治療を受けるよりもずっとずっと気を遣い続け、多くのものを諦めて生活してきた。
傍目にはそんなふうには見えないと思うし、何万言を費やしても理解してくれる人はほとんどいなかったけれど。
院長は「まず、息苦しさをなんとかしましょう。それが最優先です」と言って治療を始めた。
患部を押して確かめているが、治療するのは足の指とか相変わらず関係がよくわからない場所だった。
鍼から帰ってきたら息苦しさがいっそう強くなった。
胃がムカムカして何も食べたくない。
窒息しそうとか呼吸困難というほどではないが、一回一回の呼吸が重く、胸がつまる。
疲労で起きていられない。
昨日まではここまでひどくなかったのになぜこんなに急に悪化したんだろう。
自分なりにこれだけはやっておきたいと思ったことがあったのに、それすらもうできないのか……と恐怖で硬直した。
が、夕方になり、少しずつ呼吸が楽になり、今日は霧が晴れたように息苦しさが消えた。
冷静に考えると、あれは鍼の反応だったのかもしれない。
母も鍼で治療した日はかなり痛みを訴えていたことを思い出した。
呼吸が楽になるだけで気持ちも随分変わる。
今日はケアマネさんとの打ち合わせ。
またいろいろと生活環境やサポート体制を整えていかなくてはならないが、少なくとも今月は省エネ月間としてできるだけ休養しようと思う。
べつに意地悪してるわけじゃないんだけど、今回こういう耳をふさぎたくなるような告知を何人かにしたところ、おもしろいくらい反応に差があることがわかった。
アメリカ在住のあるがん治療専門医師が、自らがんにかかったとき、友人にメールで告知したところ、レスポンスがかえってきたのが2割だったことにショックを受けたと書いていた。
しかも返事をくれないのはほとんどが日本人。アメリカ人は「打ち明けてくれてありがとう」「あなたを全面的にサポートするよ」という返事をくれる人が多かったらしい。
今、緩和ケア医療をやっている医師が書いた『死を忘れた日本人』という本を読み始めたが(本棚にあったが途中までしか読んでなかった)、まさに表題通りだ。
返事を返さないことをどうこう言うつもりはない。
返事をしないのがその人の返事なのだと思う。
ただ、「終わり」が見えるということは、「終わり」以外のものもいろいろ見えてくるんだなと思った。
水曜日は告知を受け止めて帰るだけでいっぱいいっぱいだったけど、水曜から木曜にかけてもろもろ連絡に追われたり、ヘルパーさんが来たり、療法士さんが来たりしているうちにあとからどっと疲れが吹き出てきた。
微熱、だるさ……そして食欲が皆無に。
昨日は午前中に鍼に行って院長に新しいがんが見つかったという話をした。
「放射線はね……あとになっても出てくるんですよ…」と一言。
「化学療法を受けるつもりはないので生検も受けないと思う」ということをあらためて伝えた。
もちろん、治療は今までと変わらない。
乳がんが大きくなってきたのと今回の腫瘤の出現は連動しているから、根っこは同じだ。
自分の今のキャパシティを越える負荷がかかったから起きている現象だ。
乳がんが小さくなっているのに新しい腫瘤ができたり、乳がんが転移したりしているわけではないので、やり方が間違っているのではないと思う。
「治療しなかったから」と言いたい人はたくさんいるだろうが、治療していたらもっと早く転移や原発がんが出てきただろうと思う。
そのくらい厳しい状態でこの4年間やってきたのだ。
私だってその間放置して好きなように生きていたわけではない。
病院で治療を受けるよりもずっとずっと気を遣い続け、多くのものを諦めて生活してきた。
傍目にはそんなふうには見えないと思うし、何万言を費やしても理解してくれる人はほとんどいなかったけれど。
院長は「まず、息苦しさをなんとかしましょう。それが最優先です」と言って治療を始めた。
患部を押して確かめているが、治療するのは足の指とか相変わらず関係がよくわからない場所だった。
鍼から帰ってきたら息苦しさがいっそう強くなった。
胃がムカムカして何も食べたくない。
窒息しそうとか呼吸困難というほどではないが、一回一回の呼吸が重く、胸がつまる。
疲労で起きていられない。
昨日まではここまでひどくなかったのになぜこんなに急に悪化したんだろう。
自分なりにこれだけはやっておきたいと思ったことがあったのに、それすらもうできないのか……と恐怖で硬直した。
が、夕方になり、少しずつ呼吸が楽になり、今日は霧が晴れたように息苦しさが消えた。
冷静に考えると、あれは鍼の反応だったのかもしれない。
母も鍼で治療した日はかなり痛みを訴えていたことを思い出した。
呼吸が楽になるだけで気持ちも随分変わる。
今日はケアマネさんとの打ち合わせ。
またいろいろと生活環境やサポート体制を整えていかなくてはならないが、少なくとも今月は省エネ月間としてできるだけ休養しようと思う。
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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
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