がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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昨日の鍼のあとの反応は、ちょっと圧迫されるような息苦しさがあったものの、前回ほどひどい反応はなかった。
鍼の日はなるべく早く寝るようにと言われているので、とるものもとりあえずさっさと寝ようと思ったのだが、鍼に行った日はなぜか眠れなくなる。
体の中でなにかがもぞもぞと蠢き始める感じで、夕べも眠剤飲んでるのになかなか寝付けなかった。
今日は久しぶりに咳がひどい。
咳は刺激でとまらなくなるので、寒冷刺激とかでもすごく出る。
そしていったん出るとくせになる。
午後はケアマネさん立ち会いのもと、介護保険への切り替えに伴う聞き取り調査。
介護保険が使えるようになると、さまざまな介護福祉用品が1割負担でレンタルできるようになる(今は全額負担)。
が、一方で障害者自立支援として負担なしで利用できていたヘルパーさん利用は1割負担になる。
このへんの制度の仕組みはおそろしく複雑なので、皆さんも他人事と思わず心して備えたほうがいいですよ。
夕方には訪問診療のドクターが来る。
まだ4回しか訪問してもらってないけど今日でやめるらしい。
2月からはまたべつの先生になるので曜日も変わる。
がんがみつかってからは今回が初めての訪問になる。
訪問の先生も生検は勧めなかった。
放射線を照射されている部位は組織がもろくなっているため、針を入れるのはたしかにリスクがあるし、生検してなんのがんだかわかったところでどちらにしろ有効な治療はなさそうな感じだった。
放射線科の先生は「転移性乳がんだったらホルモン療法が効くかもしれない」という期待も持っていたようだが、乳がん転移である可能性はきわめて低く、放射線の二次発がんである可能性はきわめて高い。
それにホルモン療法をやるつもりがあればもっと早い時点でやっている。
訪問の先生には「夫婦と連れ添うつもりで一緒に生きていくしかない」と言われた。
「ケンカすることもあるかもしれないけど、おとなしくしていることもありますよ」
人によっては怒りだしそうだが、私も同感だった。
今となっては最後まで添い遂げるしかないという気持ちだ。
もともとは自分の一部だったものだし…。
ただ、薬についてはやはり西洋医なので「薬で症状を抑えていく」という基本は変わらない。
咳止めについても頓服で飲むくらいなら特に気にするほどのものではないという。
まあ、医者としてはそう言うだろうな〜。
残念ながら、医者の話はどんなにいい先生でも4掛けくらいのバイアスをかけてしか聞けなくなってしまった。
「咳で体力を消耗するのが問題」
という点に関しては洋の東西を問わず「一致」しているようだが、そうなると薬を飲んでも治癒力を落とすし、飲まなくても体力を落とすということになり、ますます悩ましくなる。
とりあえず、前よりは食べられるようになってきたので、咳を誘発させないようにぜんそく系の薬はまた飲み始めることにした(食事が充分とれなかったので薬はしばらくやめていた)。
それかられんこん汁。
古めかしい自然療法の本に載っていた「咳止め」のレシピ(れんこんをすりおろして熱湯でうめるだけのもの)を一日3回作って飲んでいる。
効果のほどはさだかではないが、先人の知恵は侮れない。
もともとれんこんは好きなのでけっこう楽しんでいる。
鍼の先生に話したら「生をすりおろすの大変じゃない?『節れんこん』って名前で粉になってるのが売ってるよ」と言われた。
「粉なんて邪道だ!」とか言いそうな院長の口から出たのでびっくりした。
粉でいいんだ〜。
鍼の日はなるべく早く寝るようにと言われているので、とるものもとりあえずさっさと寝ようと思ったのだが、鍼に行った日はなぜか眠れなくなる。
体の中でなにかがもぞもぞと蠢き始める感じで、夕べも眠剤飲んでるのになかなか寝付けなかった。
今日は久しぶりに咳がひどい。
咳は刺激でとまらなくなるので、寒冷刺激とかでもすごく出る。
そしていったん出るとくせになる。
午後はケアマネさん立ち会いのもと、介護保険への切り替えに伴う聞き取り調査。
介護保険が使えるようになると、さまざまな介護福祉用品が1割負担でレンタルできるようになる(今は全額負担)。
が、一方で障害者自立支援として負担なしで利用できていたヘルパーさん利用は1割負担になる。
このへんの制度の仕組みはおそろしく複雑なので、皆さんも他人事と思わず心して備えたほうがいいですよ。
夕方には訪問診療のドクターが来る。
まだ4回しか訪問してもらってないけど今日でやめるらしい。
2月からはまたべつの先生になるので曜日も変わる。
がんがみつかってからは今回が初めての訪問になる。
訪問の先生も生検は勧めなかった。
放射線を照射されている部位は組織がもろくなっているため、針を入れるのはたしかにリスクがあるし、生検してなんのがんだかわかったところでどちらにしろ有効な治療はなさそうな感じだった。
放射線科の先生は「転移性乳がんだったらホルモン療法が効くかもしれない」という期待も持っていたようだが、乳がん転移である可能性はきわめて低く、放射線の二次発がんである可能性はきわめて高い。
それにホルモン療法をやるつもりがあればもっと早い時点でやっている。
訪問の先生には「夫婦と連れ添うつもりで一緒に生きていくしかない」と言われた。
「ケンカすることもあるかもしれないけど、おとなしくしていることもありますよ」
人によっては怒りだしそうだが、私も同感だった。
今となっては最後まで添い遂げるしかないという気持ちだ。
もともとは自分の一部だったものだし…。
ただ、薬についてはやはり西洋医なので「薬で症状を抑えていく」という基本は変わらない。
咳止めについても頓服で飲むくらいなら特に気にするほどのものではないという。
まあ、医者としてはそう言うだろうな〜。
残念ながら、医者の話はどんなにいい先生でも4掛けくらいのバイアスをかけてしか聞けなくなってしまった。
「咳で体力を消耗するのが問題」
という点に関しては洋の東西を問わず「一致」しているようだが、そうなると薬を飲んでも治癒力を落とすし、飲まなくても体力を落とすということになり、ますます悩ましくなる。
とりあえず、前よりは食べられるようになってきたので、咳を誘発させないようにぜんそく系の薬はまた飲み始めることにした(食事が充分とれなかったので薬はしばらくやめていた)。
それかられんこん汁。
古めかしい自然療法の本に載っていた「咳止め」のレシピ(れんこんをすりおろして熱湯でうめるだけのもの)を一日3回作って飲んでいる。
効果のほどはさだかではないが、先人の知恵は侮れない。
もともとれんこんは好きなのでけっこう楽しんでいる。
鍼の先生に話したら「生をすりおろすの大変じゃない?『節れんこん』って名前で粉になってるのが売ってるよ」と言われた。
「粉なんて邪道だ!」とか言いそうな院長の口から出たのでびっくりした。
粉でいいんだ〜。
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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
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