がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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9月4日。
聖路加国際病院に行く。
いよいよラスト「セカンドオピニオン」である。
1回目のセカオピはとてつもない猛暑だった。
2回目のセカオピはイベントとぶつかってとんでもない人混みに飲み込まれた。
3回目のセカオピは傘がおちょこになるほどの台風にぶつかった。
なぜかいつも受難が続くセカオピだが、今回は「突然時間が大幅に変更」になった。
予約時間については「セカオピ準備完了!」にも書かれている通り、当日の夜の診察が終了し次第…ということになっていた。
何時になるかは2時頃に電話をかけて確認してくれとのことだったので、言われた通り出先から電話をしたのだが、「先生が急に夕方から出かけることになったので、できれば3時半頃に来てもらえないか」と言われて「なんだそりゃぁ」と思った。
聖路加はセカオピの予約受付の要領が非常に悪くて、ここまででも充分イライラしていたのに、最後にまだこんなオチがあろうとは。
診察が終わるのは7時半くらいにはなるというので、私はそこまでの時間をつぶそうと、その日いろいろな用事を入れていた。
今さら早く来いと言われても…と思ったが、しかたなく用事をキャンセル&調整して4時頃に病院に向かった。
聖路加国際病院は、築地の駅から徒歩7分程度と案内図には書かれていたが、実際はもっとずっと近く感じた。
広すぎない道は適度にさびれてて気もちよかったし、緑の中にある聖路加看護大学の瀟洒なたたずまいもいい雰囲気だ。
到着した病院の印象は…「なんて空いてるんだろう」だった。
時間的にもまだまだ患者が減る時間帯ではないと思うのだが、どこへ行っても人が少なくてなんともいえずまったりしている。
L病院とはえらい違いだ。
L病院は、夜になっても患者の数はいっこうに減らないし、特に母がかかっている乳腺科の某医師などは、朝から夜中の10時、11時までぶっ通しで診察していることで有名である(午前中に検査を済ませ、その結果を午後に聞く患者などは、まさに朝から晩まで待っていることになる。これでは健康な人でも気分が悪くなりそうだ)。
丁寧でいい先生なのだろうが、あまりにも患者の数が多すぎる。
いくら優秀で人柄のいい医師であっても、人間の体力・集中力には限界がある。
これでは見落としやミスがあっても不思議はないし、患者のほうも言いたいことがあっても申し訳なくて言えない。
そういう光景を見慣れてきた目には、聖路加の人口密度の低さにはびっくりだった。
実際、名前を呼ばれるまでは1時間ほど待たされたのだが、人が少なくて院内のムードがのんびりしているせいか、それほどイライラさせられることはなかった。
まずはブレストセンターの看護師(乳がんの専門知識を身につけたナース)に呼ばれて問診を受ける。
私が提出した資料を見ながら、「今一番心配なこと」「一番疑問なこと」「聞いてみたいこと」などを聞き出していく。
その後再び待合室で待っていると、今度は診察室から名前を呼ばれた。
返事をして診察室に向かおうとした私は、思わずギョッとした。
なんと、女の先生が、診察室から私を迎えにみずから出てきたのだ。
「こんにちは、(名札を見せて)私、一条(仮名)と申します。どうぞよろしくお願いします。今日は急な時間変更で本当に申し訳ありませんでした。さあ、こちらへどうぞ、どうぞ」と笑顔で診察室内に招き入れる。
患者がドアを開けて中に入ると医師が座って待っている…というのが診察室のデフォルトなので、この出迎えにはかなり度肝を抜かれた。
それもマニュアル化された行動ではなく、ごく自然に、「私のお部屋へようこそ」的な、まるで個人のお宅に人を招くような感じなのである。
これが「聖路加方式」なんだろうか。
それともこの先生だけのやり方なのか?
一条先生は私と同じくらいの年齢で、どうやら今年に入るまでずっと(15年間)アメリカにいたらしい。
一通り挨拶が済んで椅子に座り、さっそく本題に入ろうとしたら、先生は私の左手にちらっと視線をやったかと思うと、「ちょっと待ってね」と立ち上がった。
なにをするのかと思いきや、タオルを重ねてデスクの上に置き、左手をここに置くようにと言われる。
何回も言うように、私の左手はリンパ浮腫でかなりむくんでいる。
むくんだ腕は重いので、ついダランと下へ下げっ放しにしてしまうが(ただでさえ、麻痺で自力では腕が持ち上がらないので)、リンパ浮腫はなるべく高い位置に腕を置いたほうが悪化しない。
しかし、リンパ浮腫のケアについて興味のある医師は少なく、ましてや具体的なケアの知識を持つ医師は残念ながらほとんど皆無といっていい。
だからまっさきに腕の状態を気にしてくれたことに私はかなり驚いた。
そんな気遣いをする医師になど会ったことがなかったからだ。
「ようこそ診察室へ」パフォーマンスといい、やはりただ者ではないな>聖路加ドクター
この時点で初期の「事務方」の失点は一気に挽回の方向へとむかった。
ようやく本題に入る。
まず、先生は今の状態について云々する前に、最初の病気についてふれてきた。
「ホジキンだったんですね。治療、大変だったでしょう。よく頑張りましたね」
「ええ。そうですね。告知されてませんでしたし」
「そうか。その頃はそうだったんですね。それじゃあ、病名を知らずにこんな過酷な治療を受けられたんですね。それは本当につらかったでしょうね」
ここで横からたまらずに母が口を出す。
「そりゃあもう。告知できないでいる家族もつらかったですよ!」
いや、そういう話は今はいいから。と思ったが、一条先生は母にも深い共感を示しつつ「そりゃあそうですよ。言えないご家族の苦しみも大変なものですよ。当然です」と繰り返す。
先生の話を聞く姿勢はまさに「傾聴」といった感じで、これまた今まで会ってきたどの医者とも違う。
この聞き方はもはやただの医者ではなく「カウンセラー」か「宗教家」だった。
先生があまりにも熱心に話を聞いてくれるものだから、母は過去の鬱憤を一気に晴らす勢いで綿々と今までに味わったつらい思いを訴え始めた。
だから、そういう話はエンドレスになるから今はきりあげようよ!と思ったが、一条先生は身を乗り出して、何回も頷きながら母の話に聞き入っている。
まずい〜。これじゃ過去の話だけで時間切れになっちゃうよ。
とヒヤヒヤしたが、先生は途中からうまく本題へと話題をシフトしていった。
「まずこの乳がんの原因が放射線治療にあるかどうかという点ですが、たしかに可能性はあると思います。でも、これはホジキンの治療のため必要な選択だったと思うので、そのときはしかたがなかったんだと思いますよ」
……やっぱりこれについてのコメントは他の先生と同じだ。
放射線科の先生でない限り、これが「妥当な治療だったかどうか」はわからない。
わからない以上、こう言うしかないだろう。
でも、あれは「しかたがなかった治療」などでは断じてないのだ。その根拠ははっきりあるが、今ここでそれを言ってもしかたがないのでそれについては黙っていた。
とりあえず、「放射線治療と二次発癌の因果関係」についてのコメントがもらえればいい。
以降、「考えられる治療法」についても、ほぼ他の先生と同じ意見だった。
いわゆる標準治療というやつだ。
全摘手術+ホルモン療法。
温存はできなくはないが、放射線がかけられないと局所再発率が増すので、もし術後に局所再発が起こって再手術→全摘となったとき、二度メスを入れるのは身体への負担として望ましくないと言われた。
「一度放射線をかけた皮膚にメスを入れると皮膚が伸びにくくて傷がふさがりにくかったり、癒着を起こしやすくなったりするし、普通の人に比べて合併症も起こしやすいので、手術のリスクはできるだけ減らした方がいい」とのこと。
なるほど。それは新しい視点だなと思った。
内視鏡手術については、一条先生もあまり知らない様子だった。
内視鏡手術はもともと日本生まれの術式。手先が器用でないとできないので、欧米ではあまり広まっていないようだ。
15年間アメリカにいた一条先生がよく知らないのは当然だろう。
また、「再建術」について具体的に触れてきたのも一条先生が初めてだった。
乳房の再建には、シリコンバッグなどの人工物を入れる「インプラント法」と、背中の皮膚と脂肪と筋肉を切り取って血管をつないだままぐるっと後ろから前に移動させて使う「自家組織による再建(筋皮弁法)」があるが、過去の手術や放射線で組織が癒着しやすくなっているため、異物を入れるインプラント法は勧めないとのこと。
ただ、自家組織を使うというのは、聞こえはいいけど当然背中にも傷が残るわけだし、素人考えだが、左の脇にも放射線がたっぷりかかって固くなっているので、左上肢の血流がさらに悪くなるんじゃないかという不安が残る。
ちなみに、より多くの脂肪を必要とする場合はお腹の脂肪をとって使う方法もある。
というと「それいいじゃん!」と食いつく人も多いと思うが、これはこれで危険らしい。
お腹にかなり大きな傷が残るし、移植先までの距離が長いため、血流が悪くなって再建乳房が壊死を起こしたり、腹筋が弱ってヘルニアを起こしたりするなど、考えられる合併症は数多くあるという。
「全摘→再建」と一口に言うが、その道のりは一般の人が思うほど簡単ではないのだ。
一条先生の見解はだいたい以上だが、やはり聞けば聞くほど治療に対する疑問が大きくなってくる。
最初は「不安」だったが、今あるのはもっとはっきりとした「疑問」だ。
先生の説明は理屈ではよくわかる。
こちらの気持ちに配慮してくれているのもわかる。
それでも「なにかが違う」という違和感が自分の中でふくらんでいくのを、私はどうしても見逃すことができなかった。
その違和感を直接口に出すのはものすごく勇気が必要だったが、これが最後のセカンドオピニオンになるわけだし、思い切って言ってみようと決心した。
「あの…おっしゃることはよくわかるんですが…こうしたほうがいいという理由もよくわかるんですが…それでもどうしても今回は治療を受ける気持ちになれないんです。あまりにもいろいろなことが今までありすぎて…」
一条先生は静かに頷きながら私の言葉に耳を傾けている。
「私は過去に散々手術や抗がん剤治療や放射線治療をやってきて、大きな後遺症を残されています。今度のがんが過去の治療による発がんだとしたら、今回受ける治療も将来的にまたべつのがんや病気をひきおこす可能性はおおいにありますよね。そういうリスクはどんどん加算されていくものですから、二度目三度目のがんはますます治療が難しく、身体へのダメージも大きくなっていくはずです。そんないたちごっこをいったいいつまで続ければいいんでしょうか」
説得できるものなら説得してほしいと思ったが、先生は反論しなかった。
この部分が、西洋医学にとって一番のアキレス腱であることは間違いなかった。
「じつは1ヶ月ほど前から鍼治療を受けているんです。私も最初は西洋医学の治療を受ける覚悟でしたし、東洋医学だけでがんが治るとも思ってませんでしたけど、でもあまりにも劇的に体調が変化して、検査で見ても腫瘍が小さくなっているのがわかって、今は逆に西洋医学の治療を受けるのがこわくなってきているんです。前は後遺症が進んでいないかと毎日些細な変化にビクビクしていましたが、鍼を受けるようになってからは新しい変化を確認するのが楽しみになってます。せっかく体調がよくなっているのに、また身体にダメージを与えたくないんです」
さすがに「鍼でよくなっている」なんて話に西洋医学の医師が同意するわけはないと思っていたので、否定覚悟でのカムアウトだった。
しかし、意外にも先生はこれを否定しなかった。
「私は東洋医学だからといって頭ごなしに否定するつもりはないですよ。病気を治すのに一番必要なのは、患者さん本人の『この治療が効いている』と信じられる強い気持ちだと思います。それだけで免疫力はあがりますし、それが病気に効果を及ぼすことも充分あると思います。本人が疑いや不安をもったまま治療に臨んでも良い結果は得られませんし、小春さんが西洋医学にそこまで不信と恐怖を持っているのでしたら、それがとれるまでは治療は受けないほうがいいと私は思います」
正直、驚いた。
聖路加の先生は懐が広いとは聞いていたが、まさかここまで太っ腹(?)だとは思わなかった。
鍼を肯定する医者なんて絶対にいないと思っていたので、この言葉には感動すらおぼえた。
「ただ」と先生は続けた。
「私は医者なので、医者としてはさっき言った治療を勧めるしかありません。東洋医学には残念ながらエビデンスがないので、効くという保証がないのです」
出た、エビデンス!!
医者にとってこの「エビデンス」という言葉は「葵の御紋」に等しい。
「エビデンスがない」と言えば議論はそこまでになる。
エビデンス(科学的根拠)は、しばしば現実をもまげてしまう力をもっている。
「先生、ここが痛いんです」
「そんなはずはない。あなたの痛みにはエビデンスがない」
これでもう患者の痛みはなかったことにされてしまう。
エビデンスという名の辞書に載っていないものは存在を抹消される。
それが西洋医学というものだ。
でも、前にも書いた通り、エビデンスだけで病気が治るほど単純ではないし(もしそうなら、がんで亡くなる患者がこんなに増え続けるわけがない)、実際エビデンスの内容自体も日々変わっていくのだからそれほどあてになるものとは思えない。
医者が言う「エビデンス」とはあくまでも「現在時点の」という条件付きのものであり、目の前の患者が訴える症状はそれをくつがえす力をもっているかもしれないのに、想像力のない医者ほどエビデンスにしがみつく。
東洋医学というと決まって「エビデンスがない」と言われるが、それは当然だ。
エビデンスとは「統計的裏付け」であり、東洋医学は患者によってアプローチを変えていくものだから統計のとりようがない。
Aさんに効いたからといってBさんにも効くわけではない。
なぜなら、AさんもBさんも抱えている背景や事情がまったく違うから。
その差を無視して「Aさん効いた」「Bさん効かない」→「治癒率50%」としてしまうのが統計だ。
「すべての人が同じ構造をもっている」という前提がないと統計はとれないし、エビデンスも得られない。
それに気づいてからは、東洋医学にデータやエビデンスを求めても意味がないと思うようになった。
だからこのときも言い返さずにはいられなかった。
「たしかにデータはないです。でもデータってなんなんでしょうか。西洋医学でいうデータって、全員を把握してるわけじゃなくて、一部をサンプリングしてるっていうか、つまりそれって…」
言おうかどうか一瞬迷ったが続けた。
「…『視聴率』みたいなもんですよね」
「……」
言っちゃったよ。
さすがに気分を害したかな。と思いきや、一瞬の沈黙のあと、一条先生はこう答えた。
「たしかに…そうですね」
み、認めた!?
「疑問に思われるのはよくわかります。データは完全じゃないし、目安だし、たしかに視聴率と言われるとそうかもしれません」
なんと、一条先生はこれにも反論しなかったのである。
「医療には3つのEが必要だと言われています。1つ目は『evidence(科学的根拠)』、2つ目は『experience(経験)』、3つ目は『expert(熟練)』です。エビデンスは定量的な根拠に過ぎず、それだけでは治療はできません。数多くの患者さんに接することによって得られる経験則、それを治す技量やテクニックがなければ治療はできないんです」
そうなんだ〜。
初めてきいたよ。
だとすると、私の目には1つ目の「E」が2つ目と3つ目を凌駕して肥大しているようにしか見えないのだが。
というか、2つ目と3つ目が現場でもっと正当に評価されていれば、1つ目だけがこれほど幅をきかせることはないだろうと思う。
東洋医学は1つ目はないが、2つ目と3つ目が命綱になっている。
逆に言うと、2つ目と3つ目が大きすぎて定量化できないともいえる。
それはともかくとして、西洋医学の医者がここまで理解ある態度を見せてくれるなんて異例ともいうべき事態であり、「さすが聖路加」と感服した。
「患者さんの中には、西洋医学を頭から毛嫌いして東洋医学に走る方もいらっしゃいますけど、小春さんはこれだけちゃんと勉強したうえで東洋医学に手応えを感じていらっしゃるんですから、私にはもう何も言うことはありません。小春さんが信じた道をいくことが大事だと思います」
一条先生は何度も「信じる」という言葉を繰り返した。
「私が一番言いたいのは、今度は小春さん自身が治療を選ぶことができるということです。前のときは自分の知らないうちに治療を進められたということがとてもつらい傷になったと思います。今回は自分で選ぶ機会が与えられているのですから、このチャンスを大事にしてください」
こうして最後のセカンドオピニオンは締めくくられた。
一条先生は、帰りも診察室から一緒に出てきて、ブレストセンターの受付まで見送ってくれた。
「またいつでもお話しにきてくださいね」という言葉とともに。
聖路加のセカンドオピニオン料金は、1時間で31,500円だった。
安くはないが、満足度は高かった。
ここだったら、L病院からまるごと引っ越してもいいなと思った。
私の希望としては、当分の間、鍼だけで様子を見て、検査だけ病院でやってもらうことを考えていたが、ここならばそれも叶えてくれそうだ。
ただひとつ、入院することになると個室しかなくて入院費がかさみそうだというのが気になったが…。
ともあれ、これで4件、無事にセカオピまわりが終了した。
大変だったが、やはりいろいろな先生に話を聞くのは重要だとあらためて思った。
「evidence(科学的根拠)」にのみこまれないようにするためには、患者のほうにも「experience(経験)」と「expert(熟練)」が必要になる。
科学的根拠を理解し、患者としての経験を積み、医師とコミュニケーションする技量を身につけることによって、初めて3つの「E」が揃い、「自分に必要な治療法」が見えてくる。
セカンドオピニオンを通してそんなふうに感じた。
聖路加国際病院に行く。
いよいよラスト「セカンドオピニオン」である。
1回目のセカオピはとてつもない猛暑だった。
2回目のセカオピはイベントとぶつかってとんでもない人混みに飲み込まれた。
3回目のセカオピは傘がおちょこになるほどの台風にぶつかった。
なぜかいつも受難が続くセカオピだが、今回は「突然時間が大幅に変更」になった。
予約時間については「セカオピ準備完了!」にも書かれている通り、当日の夜の診察が終了し次第…ということになっていた。
何時になるかは2時頃に電話をかけて確認してくれとのことだったので、言われた通り出先から電話をしたのだが、「先生が急に夕方から出かけることになったので、できれば3時半頃に来てもらえないか」と言われて「なんだそりゃぁ」と思った。
聖路加はセカオピの予約受付の要領が非常に悪くて、ここまででも充分イライラしていたのに、最後にまだこんなオチがあろうとは。
診察が終わるのは7時半くらいにはなるというので、私はそこまでの時間をつぶそうと、その日いろいろな用事を入れていた。
今さら早く来いと言われても…と思ったが、しかたなく用事をキャンセル&調整して4時頃に病院に向かった。
聖路加国際病院は、築地の駅から徒歩7分程度と案内図には書かれていたが、実際はもっとずっと近く感じた。
広すぎない道は適度にさびれてて気もちよかったし、緑の中にある聖路加看護大学の瀟洒なたたずまいもいい雰囲気だ。
到着した病院の印象は…「なんて空いてるんだろう」だった。
時間的にもまだまだ患者が減る時間帯ではないと思うのだが、どこへ行っても人が少なくてなんともいえずまったりしている。
L病院とはえらい違いだ。
L病院は、夜になっても患者の数はいっこうに減らないし、特に母がかかっている乳腺科の某医師などは、朝から夜中の10時、11時までぶっ通しで診察していることで有名である(午前中に検査を済ませ、その結果を午後に聞く患者などは、まさに朝から晩まで待っていることになる。これでは健康な人でも気分が悪くなりそうだ)。
丁寧でいい先生なのだろうが、あまりにも患者の数が多すぎる。
いくら優秀で人柄のいい医師であっても、人間の体力・集中力には限界がある。
これでは見落としやミスがあっても不思議はないし、患者のほうも言いたいことがあっても申し訳なくて言えない。
そういう光景を見慣れてきた目には、聖路加の人口密度の低さにはびっくりだった。
実際、名前を呼ばれるまでは1時間ほど待たされたのだが、人が少なくて院内のムードがのんびりしているせいか、それほどイライラさせられることはなかった。
まずはブレストセンターの看護師(乳がんの専門知識を身につけたナース)に呼ばれて問診を受ける。
私が提出した資料を見ながら、「今一番心配なこと」「一番疑問なこと」「聞いてみたいこと」などを聞き出していく。
その後再び待合室で待っていると、今度は診察室から名前を呼ばれた。
返事をして診察室に向かおうとした私は、思わずギョッとした。
なんと、女の先生が、診察室から私を迎えにみずから出てきたのだ。
「こんにちは、(名札を見せて)私、一条(仮名)と申します。どうぞよろしくお願いします。今日は急な時間変更で本当に申し訳ありませんでした。さあ、こちらへどうぞ、どうぞ」と笑顔で診察室内に招き入れる。
患者がドアを開けて中に入ると医師が座って待っている…というのが診察室のデフォルトなので、この出迎えにはかなり度肝を抜かれた。
それもマニュアル化された行動ではなく、ごく自然に、「私のお部屋へようこそ」的な、まるで個人のお宅に人を招くような感じなのである。
これが「聖路加方式」なんだろうか。
それともこの先生だけのやり方なのか?
一条先生は私と同じくらいの年齢で、どうやら今年に入るまでずっと(15年間)アメリカにいたらしい。
一通り挨拶が済んで椅子に座り、さっそく本題に入ろうとしたら、先生は私の左手にちらっと視線をやったかと思うと、「ちょっと待ってね」と立ち上がった。
なにをするのかと思いきや、タオルを重ねてデスクの上に置き、左手をここに置くようにと言われる。
何回も言うように、私の左手はリンパ浮腫でかなりむくんでいる。
むくんだ腕は重いので、ついダランと下へ下げっ放しにしてしまうが(ただでさえ、麻痺で自力では腕が持ち上がらないので)、リンパ浮腫はなるべく高い位置に腕を置いたほうが悪化しない。
しかし、リンパ浮腫のケアについて興味のある医師は少なく、ましてや具体的なケアの知識を持つ医師は残念ながらほとんど皆無といっていい。
だからまっさきに腕の状態を気にしてくれたことに私はかなり驚いた。
そんな気遣いをする医師になど会ったことがなかったからだ。
「ようこそ診察室へ」パフォーマンスといい、やはりただ者ではないな>聖路加ドクター
この時点で初期の「事務方」の失点は一気に挽回の方向へとむかった。
ようやく本題に入る。
まず、先生は今の状態について云々する前に、最初の病気についてふれてきた。
「ホジキンだったんですね。治療、大変だったでしょう。よく頑張りましたね」
「ええ。そうですね。告知されてませんでしたし」
「そうか。その頃はそうだったんですね。それじゃあ、病名を知らずにこんな過酷な治療を受けられたんですね。それは本当につらかったでしょうね」
ここで横からたまらずに母が口を出す。
「そりゃあもう。告知できないでいる家族もつらかったですよ!」
いや、そういう話は今はいいから。と思ったが、一条先生は母にも深い共感を示しつつ「そりゃあそうですよ。言えないご家族の苦しみも大変なものですよ。当然です」と繰り返す。
先生の話を聞く姿勢はまさに「傾聴」といった感じで、これまた今まで会ってきたどの医者とも違う。
この聞き方はもはやただの医者ではなく「カウンセラー」か「宗教家」だった。
先生があまりにも熱心に話を聞いてくれるものだから、母は過去の鬱憤を一気に晴らす勢いで綿々と今までに味わったつらい思いを訴え始めた。
だから、そういう話はエンドレスになるから今はきりあげようよ!と思ったが、一条先生は身を乗り出して、何回も頷きながら母の話に聞き入っている。
まずい〜。これじゃ過去の話だけで時間切れになっちゃうよ。
とヒヤヒヤしたが、先生は途中からうまく本題へと話題をシフトしていった。
「まずこの乳がんの原因が放射線治療にあるかどうかという点ですが、たしかに可能性はあると思います。でも、これはホジキンの治療のため必要な選択だったと思うので、そのときはしかたがなかったんだと思いますよ」
……やっぱりこれについてのコメントは他の先生と同じだ。
放射線科の先生でない限り、これが「妥当な治療だったかどうか」はわからない。
わからない以上、こう言うしかないだろう。
でも、あれは「しかたがなかった治療」などでは断じてないのだ。その根拠ははっきりあるが、今ここでそれを言ってもしかたがないのでそれについては黙っていた。
とりあえず、「放射線治療と二次発癌の因果関係」についてのコメントがもらえればいい。
以降、「考えられる治療法」についても、ほぼ他の先生と同じ意見だった。
いわゆる標準治療というやつだ。
全摘手術+ホルモン療法。
温存はできなくはないが、放射線がかけられないと局所再発率が増すので、もし術後に局所再発が起こって再手術→全摘となったとき、二度メスを入れるのは身体への負担として望ましくないと言われた。
「一度放射線をかけた皮膚にメスを入れると皮膚が伸びにくくて傷がふさがりにくかったり、癒着を起こしやすくなったりするし、普通の人に比べて合併症も起こしやすいので、手術のリスクはできるだけ減らした方がいい」とのこと。
なるほど。それは新しい視点だなと思った。
内視鏡手術については、一条先生もあまり知らない様子だった。
内視鏡手術はもともと日本生まれの術式。手先が器用でないとできないので、欧米ではあまり広まっていないようだ。
15年間アメリカにいた一条先生がよく知らないのは当然だろう。
また、「再建術」について具体的に触れてきたのも一条先生が初めてだった。
乳房の再建には、シリコンバッグなどの人工物を入れる「インプラント法」と、背中の皮膚と脂肪と筋肉を切り取って血管をつないだままぐるっと後ろから前に移動させて使う「自家組織による再建(筋皮弁法)」があるが、過去の手術や放射線で組織が癒着しやすくなっているため、異物を入れるインプラント法は勧めないとのこと。
ただ、自家組織を使うというのは、聞こえはいいけど当然背中にも傷が残るわけだし、素人考えだが、左の脇にも放射線がたっぷりかかって固くなっているので、左上肢の血流がさらに悪くなるんじゃないかという不安が残る。
ちなみに、より多くの脂肪を必要とする場合はお腹の脂肪をとって使う方法もある。
というと「それいいじゃん!」と食いつく人も多いと思うが、これはこれで危険らしい。
お腹にかなり大きな傷が残るし、移植先までの距離が長いため、血流が悪くなって再建乳房が壊死を起こしたり、腹筋が弱ってヘルニアを起こしたりするなど、考えられる合併症は数多くあるという。
「全摘→再建」と一口に言うが、その道のりは一般の人が思うほど簡単ではないのだ。
一条先生の見解はだいたい以上だが、やはり聞けば聞くほど治療に対する疑問が大きくなってくる。
最初は「不安」だったが、今あるのはもっとはっきりとした「疑問」だ。
先生の説明は理屈ではよくわかる。
こちらの気持ちに配慮してくれているのもわかる。
それでも「なにかが違う」という違和感が自分の中でふくらんでいくのを、私はどうしても見逃すことができなかった。
その違和感を直接口に出すのはものすごく勇気が必要だったが、これが最後のセカンドオピニオンになるわけだし、思い切って言ってみようと決心した。
「あの…おっしゃることはよくわかるんですが…こうしたほうがいいという理由もよくわかるんですが…それでもどうしても今回は治療を受ける気持ちになれないんです。あまりにもいろいろなことが今までありすぎて…」
一条先生は静かに頷きながら私の言葉に耳を傾けている。
「私は過去に散々手術や抗がん剤治療や放射線治療をやってきて、大きな後遺症を残されています。今度のがんが過去の治療による発がんだとしたら、今回受ける治療も将来的にまたべつのがんや病気をひきおこす可能性はおおいにありますよね。そういうリスクはどんどん加算されていくものですから、二度目三度目のがんはますます治療が難しく、身体へのダメージも大きくなっていくはずです。そんないたちごっこをいったいいつまで続ければいいんでしょうか」
説得できるものなら説得してほしいと思ったが、先生は反論しなかった。
この部分が、西洋医学にとって一番のアキレス腱であることは間違いなかった。
「じつは1ヶ月ほど前から鍼治療を受けているんです。私も最初は西洋医学の治療を受ける覚悟でしたし、東洋医学だけでがんが治るとも思ってませんでしたけど、でもあまりにも劇的に体調が変化して、検査で見ても腫瘍が小さくなっているのがわかって、今は逆に西洋医学の治療を受けるのがこわくなってきているんです。前は後遺症が進んでいないかと毎日些細な変化にビクビクしていましたが、鍼を受けるようになってからは新しい変化を確認するのが楽しみになってます。せっかく体調がよくなっているのに、また身体にダメージを与えたくないんです」
さすがに「鍼でよくなっている」なんて話に西洋医学の医師が同意するわけはないと思っていたので、否定覚悟でのカムアウトだった。
しかし、意外にも先生はこれを否定しなかった。
「私は東洋医学だからといって頭ごなしに否定するつもりはないですよ。病気を治すのに一番必要なのは、患者さん本人の『この治療が効いている』と信じられる強い気持ちだと思います。それだけで免疫力はあがりますし、それが病気に効果を及ぼすことも充分あると思います。本人が疑いや不安をもったまま治療に臨んでも良い結果は得られませんし、小春さんが西洋医学にそこまで不信と恐怖を持っているのでしたら、それがとれるまでは治療は受けないほうがいいと私は思います」
正直、驚いた。
聖路加の先生は懐が広いとは聞いていたが、まさかここまで太っ腹(?)だとは思わなかった。
鍼を肯定する医者なんて絶対にいないと思っていたので、この言葉には感動すらおぼえた。
「ただ」と先生は続けた。
「私は医者なので、医者としてはさっき言った治療を勧めるしかありません。東洋医学には残念ながらエビデンスがないので、効くという保証がないのです」
出た、エビデンス!!
医者にとってこの「エビデンス」という言葉は「葵の御紋」に等しい。
「エビデンスがない」と言えば議論はそこまでになる。
エビデンス(科学的根拠)は、しばしば現実をもまげてしまう力をもっている。
「先生、ここが痛いんです」
「そんなはずはない。あなたの痛みにはエビデンスがない」
これでもう患者の痛みはなかったことにされてしまう。
エビデンスという名の辞書に載っていないものは存在を抹消される。
それが西洋医学というものだ。
でも、前にも書いた通り、エビデンスだけで病気が治るほど単純ではないし(もしそうなら、がんで亡くなる患者がこんなに増え続けるわけがない)、実際エビデンスの内容自体も日々変わっていくのだからそれほどあてになるものとは思えない。
医者が言う「エビデンス」とはあくまでも「現在時点の」という条件付きのものであり、目の前の患者が訴える症状はそれをくつがえす力をもっているかもしれないのに、想像力のない医者ほどエビデンスにしがみつく。
東洋医学というと決まって「エビデンスがない」と言われるが、それは当然だ。
エビデンスとは「統計的裏付け」であり、東洋医学は患者によってアプローチを変えていくものだから統計のとりようがない。
Aさんに効いたからといってBさんにも効くわけではない。
なぜなら、AさんもBさんも抱えている背景や事情がまったく違うから。
その差を無視して「Aさん効いた」「Bさん効かない」→「治癒率50%」としてしまうのが統計だ。
「すべての人が同じ構造をもっている」という前提がないと統計はとれないし、エビデンスも得られない。
それに気づいてからは、東洋医学にデータやエビデンスを求めても意味がないと思うようになった。
だからこのときも言い返さずにはいられなかった。
「たしかにデータはないです。でもデータってなんなんでしょうか。西洋医学でいうデータって、全員を把握してるわけじゃなくて、一部をサンプリングしてるっていうか、つまりそれって…」
言おうかどうか一瞬迷ったが続けた。
「…『視聴率』みたいなもんですよね」
「……」
言っちゃったよ。
さすがに気分を害したかな。と思いきや、一瞬の沈黙のあと、一条先生はこう答えた。
「たしかに…そうですね」
み、認めた!?
「疑問に思われるのはよくわかります。データは完全じゃないし、目安だし、たしかに視聴率と言われるとそうかもしれません」
なんと、一条先生はこれにも反論しなかったのである。
「医療には3つのEが必要だと言われています。1つ目は『evidence(科学的根拠)』、2つ目は『experience(経験)』、3つ目は『expert(熟練)』です。エビデンスは定量的な根拠に過ぎず、それだけでは治療はできません。数多くの患者さんに接することによって得られる経験則、それを治す技量やテクニックがなければ治療はできないんです」
そうなんだ〜。
初めてきいたよ。
だとすると、私の目には1つ目の「E」が2つ目と3つ目を凌駕して肥大しているようにしか見えないのだが。
というか、2つ目と3つ目が現場でもっと正当に評価されていれば、1つ目だけがこれほど幅をきかせることはないだろうと思う。
東洋医学は1つ目はないが、2つ目と3つ目が命綱になっている。
逆に言うと、2つ目と3つ目が大きすぎて定量化できないともいえる。
それはともかくとして、西洋医学の医者がここまで理解ある態度を見せてくれるなんて異例ともいうべき事態であり、「さすが聖路加」と感服した。
「患者さんの中には、西洋医学を頭から毛嫌いして東洋医学に走る方もいらっしゃいますけど、小春さんはこれだけちゃんと勉強したうえで東洋医学に手応えを感じていらっしゃるんですから、私にはもう何も言うことはありません。小春さんが信じた道をいくことが大事だと思います」
一条先生は何度も「信じる」という言葉を繰り返した。
「私が一番言いたいのは、今度は小春さん自身が治療を選ぶことができるということです。前のときは自分の知らないうちに治療を進められたということがとてもつらい傷になったと思います。今回は自分で選ぶ機会が与えられているのですから、このチャンスを大事にしてください」
こうして最後のセカンドオピニオンは締めくくられた。
一条先生は、帰りも診察室から一緒に出てきて、ブレストセンターの受付まで見送ってくれた。
「またいつでもお話しにきてくださいね」という言葉とともに。
聖路加のセカンドオピニオン料金は、1時間で31,500円だった。
安くはないが、満足度は高かった。
ここだったら、L病院からまるごと引っ越してもいいなと思った。
私の希望としては、当分の間、鍼だけで様子を見て、検査だけ病院でやってもらうことを考えていたが、ここならばそれも叶えてくれそうだ。
ただひとつ、入院することになると個室しかなくて入院費がかさみそうだというのが気になったが…。
ともあれ、これで4件、無事にセカオピまわりが終了した。
大変だったが、やはりいろいろな先生に話を聞くのは重要だとあらためて思った。
「evidence(科学的根拠)」にのみこまれないようにするためには、患者のほうにも「experience(経験)」と「expert(熟練)」が必要になる。
科学的根拠を理解し、患者としての経験を積み、医師とコミュニケーションする技量を身につけることによって、初めて3つの「E」が揃い、「自分に必要な治療法」が見えてくる。
セカンドオピニオンを通してそんなふうに感じた。
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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
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このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
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