がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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10月2日。
不幸は重なると言うけれど、さすがにこれはなかなかないだろうという事態が起こった。
4年9ヶ月前に乳がんの手術をした私の母が、肝臓への転移を宣告されたのだ。
このブログでもちらっと「術後、再発予防のためにホルモン剤をずっと飲んできたが、副作用がないので効いてないのかも」と書いたことがあるが、冗談ではなくその通りになってしまった。
しかも、ここが大事な部分なのだが、今回の転移をみつけたのは、事実上病院ではなく母自身だったのだ。
結論から言うと、転移があったのは肝臓だけだということが今日の検査でわかったのだが、乳がんの場合、転移が肝臓「だけ」に起きることは滅多にない。
普通は、乳房に近い脇のリンパとか、肺とか、骨とか、まあいろいろコースはあるんだけど、とにかく肝臓は最後にくることが多いので、肝臓でみつかったらまず全身に転移していると考えなければならない。
だから術後の定期検査でも、残った乳房とか肺なんかは、最初に転移しやすい場所ということもあってわりとチェックするんだけど、肝臓はほぼノーチェックだった。
血液検査で腫瘍マーカーが上昇しているとか、同じく血液検査で肝機能が悪化しているといった問題がない限りは、肝臓の検査をわざわざ行うことはほとんどないのだ。
母はその点について、以前から何度も「もっと検査をしなくていいんですか?」と自分から念押ししていたのだが、「初期治療と違って、転移というのは早くみつけて早く治療したから治りがよくなるってものじゃないので、あんまり検査しすぎても意味ないんです。全身調べてたらキリがないですから」と言われて終わっていた。
とはいうものの、肝臓は沈黙の臓器というだけあって、自覚症状が出るのはかなり進んでからだ。
医者もいきなり肝臓というのは予想外だろうから、はっきり言って油断していたと思う。
ではどうやって今回の転移がみつかったか?
これはもう本当に本人の「勘」と「運」というしかない。
今考えると、去年の秋頃から、すでに慢性的な疲労感を感じていたらしいが、寝込むほどではなかったし、血液検査にも異常は出ていなかったため、そのまま放置していたという。
最初に異常を感じたのは「排尿の違和感」だったそうだ。
今年の6月頃のことだ。なんとなく「出にくい」気がする。という程度だったが、母は片方の腎臓が働いていないため(これはずっと前からのこと。原因はわからないが腎盂腎炎をやったときにやられたのかもしれない)、腎臓のことはいつも気にしていて、念のために自分から腎臓内科と泌尿器科を受診した。
そこでは「腎臓は異常なし。でもエコーで見ると肝臓にちょっと影がありますね」と言われたらしい。
先生は「まあ大丈夫ですよ。たいした影じゃないから」という感じだったが、母は「心配だから消化器内科に行きたい」と言い、紹介状を書いてもらって次は消化器内科へと足を運んだ。
消化器内科では「たしかに影があるけど、これは血管腫だと思いますよ。血管腫は知らないうちにできてる人も多いですから」とやはりのんびりしたコメント。
そこで終わりにしようと思えばできたが、やっぱり心配が拭えない母は「じつは私、乳がんをやっているので、転移が心配なんですけど…」と言ったところ、「え? そうなんですか? じゃあCTとMRIも追加しておきましょうか。そうしたら腫瘍か血管腫かはっきりするので」と言われて検査追加に。
この時点でもすでにツッコミどころ満載だが、とりあえずそこはおいておく。
CT検査は7/24に行われ、7/31に結果を聞きにいった。
結果は「やはり血管腫でした」とのこと。
これですっかり安心した母は、MRIの検査もキャンセルしてしまった(閉所恐怖症でMRI嫌いなので)。
ところが、8月に私と一緒にセカンドオピニオンまわりをするうちに、疲労感はますます強くなっていった。
9月に入り、高血圧のために定期的に通っている循環器内科で血液検査を受けたところ、初めて肝機能の数値が上がっていることが判明。
循環器内科の先生には「この程度の上昇なら薬の副作用かも。最近新しく飲み始めた薬はありませんか?」と言われ、まずは2週間ほど前から飲んでいた胃腸の薬をやめてみた。
1週間ほどたってから再び血液検査を行ってみたが、数値はいっこうに変わらなかった。
薬のせいだとすれば、あと考えられるのはずっと飲んでいるホルモン剤だろう。
そう思って次は乳腺科に行こうとしたが、母がかかっている乳腺科の担当医は、超が3つくらいつく多忙なドクターで、とても定期の予約外に診てくれるような状態ではない。
しかたなく、私が受ける南田先生(仮名)の診察日に相乗りする形で相談することになり、9/11に診察を受けた。
南田先生は「ホルモン剤の副作用ならもっとすぐに出るはず。4年以上も飲んでから出ることはない」と言い張ったが、とりあえずホルモン剤もやめてみることになった。
と同時に、「7月に撮ったCT写真を見ると、メインの大きな影はたしかに血管腫のように見えるが、他に小さな芽がたくさんあって、そっちは血管腫じゃないかもしれない。最新の血液検査の結果を見ると、肝機能だけでなく、腫瘍マーカーもわずかに上昇してきているし、気になるのでMRIを早急に撮ったほうがいい」と言われた。
しかし、L病院は常に検査の予約が満杯。特にMRIは予約をとるのが大変だ。
というわけで、南田先生の判断で別のクリニックで検査だけ行ってもらうことに。
MRIの結果は、そのまま担当医の三井先生(仮名)に届けられ、9/28に結果を聞きにいくことになった。
前にもこのブログでちらっと書いたが、この三井先生というのは乳腺外科の世界ではかなり名を馳せている女の先生で、とてつもなく大量の患者を抱えている。
それはもう尋常な数ではない。
といって、横柄だったり、機械的に患者をさばくわけではなく、大変情熱的で親身な先生らしく(伝聞形で書くのは、私は実際会ったことがないので)、そのことがさらに待ち時間の延長を招いている。
健康な人には想像もできないと思うが、予約しているにもかかわらず、5時間6時間待ちは当たり前なのだ。診察前に検査を受けたりすると、総待ち時間は文字通り朝から晩までとなる。
それを聞くと誰もが「ひどすぎる」と思うだろうが、当の先生があまりにも熱心で献身的なので、誰も文句が言えないらしい。
しかし、それって本当にいい先生なんだろうか?
……いやいや、とりあえずその問題はおいおい話すことにして、今はおいておこう。
この日の母の体調は非常に悪かった。
倦怠感も相変わらずだったうえに、9月に入ってから脇腹痛がひどくて息がよく吸えない状態が続いていた(最初は骨転移を疑ったが、骨シンチの結果は異常なしで、どうやら肋間神経痛らしい)。
にもかかわらず、その状態で6時間待たされたあげく、1時間半かけて「転移の告知」を受けたのだ。
診察を終えた母から電話が入ったのはなんと夜の11時すぎだった(母によると、まだあともう一人待っている人がいたらしい)。
ある程度覚悟はしていたが、あまりにも急転直下の展開に家族全員言葉を失った。
三井先生によると、「血管腫」だと断言されたメインの大きな影も「腫瘍」だと言う。
メインの影は直径で8センチくらいあるかなりの大きさのものだ。
ずっと定期検査を受けてきたのに、いきなりそんな巨大な腫瘍ができてましたと言われてもにわかには信じがたかった。
三井先生もかなりあわてた様子で、「とにかく、もう一度大至急検査を受けてください。私がなんとか入れますから」と、「至急」「至急」「大至急!!」と判子を押しまくって10/2にまとめて検査をねじこんだ。
そして今日。
検査(全身CT)の結果、肝臓の他に転移は見られないことがわかった。
しかし、画像上見えなくても、転移がんである以上、肝臓だけではなく、全身に散らばっていることはまず間違いないので、もう手術はできない。
全身治療、すなわち抗がん剤を使うしか選択肢はない。
しかし、抗がん剤と一口に言っても、乳がんの抗がん剤だけとってみても種類は数多い。
どれが効いてどれが効かないか、やってみなければわからないのが実情だ。
三井先生は、使える抗がん剤を片端から並べて、機関銃のような早口で説明してくれたそうだが、要は使えるカードを順番に切りまくるつもりらしい。
母の話では、大雑把ではあるが「余命」も宣告されたという。
がんはいったん転移したらもう治らず、あとはいかに延命するかという話になることは、がん患者なら誰でも知っているから、母も、付き添いで行った父も、当然のことだが大変ショックを受けていて、「もう三井先生の言う通りにするしかない」と力なく言っていた。
今日撮ったCT画像と血液検査の結果を見たところ、7月に撮ったCT画像に比べて明らかに猛スピードで進行していることが素人目にもわかったそうで、「早く治療しなければ手遅れになってしまう」という焦りでいっぱいになっているようだった。
それはわかる。
データを見せられて、医者に脅されたら、誰だって「お任せしますからすぐに治療を」という気持ちになるだろう。
しかし、私は今までの経過をきいて、どうしても三井先生にそのまま母を任せる気にはなれなかった。
過去の経緯があり、L病院が信用できないというのももちろんあるが、それだけでなく、三井先生自身に不安を感じるのだ。
たしかに三井先生は外科医としては腕のいい先生なのだろうが、再発転移となったらもう外科の世話になることはないはずだ。
薬物療法でコントロールしていくことになるなら、専門は内科の領域になる。
しかし、往々にして医者というものは自分一人の力ででなんとかなると思いたがる人が多い。
熱心でキャリアがあって自信家ならなおのことだ。
これは私が過去に受けたがん治療で身をもって感じたことである。
本来ならば、外科である三井先生は薬物療法が専門ではないわけだから、薬物に詳しい内科医と連携して治療にあたってくれるのが患者にとっては一番安心なのだが、三井先生は典型的な「一人で抱え込むタイプ」で、他の科の先生と連携してやっていくつもりなどさらさらないのは明らかだった。
「私でもそのくらいできる」と顔に書いてあるのが目に見えるようだ(会ったことないけど)。
というか、そもそもL病院には(L病院に限らず大学病院全般の傾向として)「連携」という概念がない。
「たらい回し」や「丸投げ」はするけれど、一緒に診ていくという姿勢が決定的に欠如しているのだ。
私が今これだけ重い荷物を背負わなくてはならなくなった理由もまさにそこにある。
だいたい、最初に本人が異常を感じて消化器内科に行ったとき、同じ病院内であるにもかかわらず、なぜ消化器内科と乳腺科の連携がとれなかったのだろうか。
消化器内科の医師は、こちらが申告しなかったら、母が「元乳がん患者」であるということにも気づかなかった。
いったい、目の前にあるLANで結ばれた端末はなんのためにあるのか?
これは情報を共有するためのツールではないのか?
彼は、少なくとも乳腺科の担当医に「あなたの担当の患者にこういうことがあったので、これ以降はそちらで経過をみてほしい」という報告くらいすべきではなかったのか?
乳腺科は乳腺科で、消化器内科に確認をとるでもなく、「消化器内科のほうで今後の経過を見るつもりだったんでしょう」とかいい加減なことを言ってるし(母が「いいえ。もうこれで検査はしないでいいと言われました」と反論したら、「あらま、そうなの?」とあきれたような顔をしたという)。
三井先生はよっぽど他人のやることに関心がないのか、はたまた信用していないのか、外部診療機関から送られてきたMRIの検査所見すら「私、こういうものは見ないので」と言って目を通そうとしなかったそうだ(私だって読影くらいできるんだからこんなものいらないと言いたいのか)。
一人の能力・体力でできることは限界がある。
三井先生がどんなに優秀かつ頑健であろうと、生身の人間である限り、なにもかもすべてを完璧にやりとげることはできないはずだ。
不安理由の2つ目はここにある。
どう考えたって、夜中まで診察というのは尋常ではない。
熱心といえばきこえはいいが、本当に患者のことを考えているなら、「私が頑張ればいい」という問題ではないということに気づくはずではないか。
一度、母が「先生の外来はいつもすごく混んでるから」と言ったら、なにを勘違いしたのか、「私は大丈夫です。朝までだってやりますよ」と返されて絶句したらしい。
朝までって……病人を朝まで待たせるつもりなのかよ!(怒)
先生は使命感に燃えて気持ちいいかもしれないが、待たされる患者は、体調の悪さと、精神的不安に押しつぶされそうになりながら何時間も何時間もじっと同じ場所に座り続けているのだ。
同じ6時間でも、職場で仕事している6時間と、なにもしないで待たされている6時間とでは苦痛のレベルが違う。
なぜそのことがわからないのだろう。
せめて「夜中まで待たされることが確実」なら、遅めに来院することを許可してほしいところだが、受付は受付で早く帰りたいものだから「受付だけは早く済ませてくれ」と言うし、結局ツケを払わせられるのはいつも患者側なのだ。
いくら人気があるといっても、そこまで非常識な数の患者を抱えている医者に自分の身内を預けたいかと言われたら私は断じて「否」と答える。
もちろん、そこまで待たされることによって身体にかかるであろう負担も心配だったが、なによりも「こんなに忙しい先生なんだから」という遠慮によって、聞きたいことも聞けない、言いたいことも言えない、不安になったときにすぐに連絡をとるのも憚られる…といった不健全なコミュニケーションしかとれなくなってしまうことが心配だった。
これからの治療は長期戦になる。
担当医との信頼関係は「絶対不可欠」だ。
話をよく聞いてくれること。これは絶対にはずせない条件だ。
話を聞くといっても、ただ相づちを打って聞いてくれればいいというわけではない。
時間をとってくれるかどうかももちろん大事だが、それよりもこちらの気持ちを汲み取るだけの精神的余裕と能力があるかどうかがもっとも重要だ。
正直なところ、三井先生にそれはないとみた。
理由の第3は、第2にも通じるが、余裕のなさから、なんだかんだいって、結局自分が一番なじんでいる方法にしがみつくような医師では困るということだ。
率直に言って、私は抗がん剤は使わせたくない。
たとえ抗がん剤が効いて今あるがんが縮小しても、身体を弱らせることで結局またべつの場所にがんを作り、いたちごっこになるのがこわいからだ。
でも、ここまでがんが大きくなり、肝臓の機能もがた落ちしている状態を見ると、まずは抗がん剤を使うという選択もやむをえないかなとは思う。
とにかく肝機能と体力をあげないことにはなにも始められないからだ。
でも、抗がん剤をダラダラと使い続けることには激しく抵抗を感じる。
ある程度体調が回復したら、鍼に通って免疫増強に努めて全身状態を改善することが望ましいと私は思っている。
そのへんの意向をどのくらい担当医が理解してくれるのか。
そこも重要である。
残念ながら三井先生はかなり西洋医学に凝り固まっているタイプのようだ。
母が鍼の話と私の話をしたところ、「それはありえません。鍼で元気になることはあっても、がんが小さくなるなんてこと、絶対にありませんよ」と断言したという。
「でも27mmが18mmになって…」と反論したら、「エコーはやる人によって誤差も出ますし」とまったく取り合おうとしなかったそうだ。
バカ言っちゃいけない。目測で縮小が確認できるほど小さくなっているのにどうして「誤差」で片付けられるんだよ。
おまけに「鍼灸院でも毎回皮膚の上から計測してますけど、確実に小さくなってるんです」と言ったら「それは都合のいいように言ってるだけかもしれないですよ」と言われて、これにはさすがに母もカチンときたらしい。私もきた。
あのねぇ、自分がよく知らない分野のことを認めたくないのはわかりますよ。
でもそこまで人を貶める資格があなたにあるんですか?
私たちは今までずっと、西洋医学に従い、医師の言う通りの治療をまじめに受けてきたんですよ。
でも母は再発しましたよね。
ずっと飲んできたホルモン剤は効いてなかったってことですよね。
「ええ、そうですね」ってそれで終わり?
乳がん患者はみんな、効くと信じて、つらい副作用に耐えながら必死にホルモン剤を飲み続けてるんですよ。
それって「がん治療に失敗した」ってことじゃないんですか?
自分の失敗は棚に上げて、人のやってることには悪意に満ちた評価しかしないのってどうなんでしょう。
だいたい1センチ近いサイズダウンを「誤差」と言い切るなら、エコーで薬の効果を確認するのも全然あてにならないってことですよね。
それとも抗がん剤を使ったときは、それは「誤差」ではなく「合理的縮小」になるんでしょうか。
元気にはなってもがんは小さくならない?
元気ならいいじゃないですか。
がんがなくなっても本体がへろへろになったら意味ないんですよ。
がんがあっても元気ならいいんですよ。
結局あなたはがんの存在にしか興味がないんですね。
元気であることが、それがなによりも重要なんですよ。
会ったこともない人のことをあまり悪く言いたくはないが、話を聞いただけで反論したいことがわき水のように溢れ出てきてしまう。
だめだ。
絶対この先生にかかっちゃだめだ。
たとえ「日本百名医」に入ってる先生でも絶対だめ。
そう強く思った私は「早まらないで他の病院に話だけでも聞きに行こう」と主張した。
しかし、治療を焦る両親は「今さら病院を変えるなんて無理に決まってるし、第一、三井先生にそんなこととても言えない」と及び腰で、しまいにはケンカになった。
結局、「治療の予約(一回目は入院してやる)は入れるけど、それはそれとして話だけは聞きにいく」ということで同意を得た。
私が話を聞きたいと思っていたのは聖路加だった。
聖路加ならチーム医療も進んでいるし、私の考えている条件に一番近い医療が受けられそうだったからだ。
本当なら三井先生に紹介状を書いてもらわないと、セカンドオピニオンも初診も受けられないのだが、そんなもの頼んでいるとどんどん遅くなるし、「聖路加が受け入れてくれるかどうかもわからないのに三井先生との関係をこわしたくない」と母が言うので、とにかく紹介状なしで診てもらえるよう、セカンドオピニオンでお世話になった一条先生に直談判することにした。
不幸は重なると言うけれど、さすがにこれはなかなかないだろうという事態が起こった。
4年9ヶ月前に乳がんの手術をした私の母が、肝臓への転移を宣告されたのだ。
このブログでもちらっと「術後、再発予防のためにホルモン剤をずっと飲んできたが、副作用がないので効いてないのかも」と書いたことがあるが、冗談ではなくその通りになってしまった。
しかも、ここが大事な部分なのだが、今回の転移をみつけたのは、事実上病院ではなく母自身だったのだ。
結論から言うと、転移があったのは肝臓だけだということが今日の検査でわかったのだが、乳がんの場合、転移が肝臓「だけ」に起きることは滅多にない。
普通は、乳房に近い脇のリンパとか、肺とか、骨とか、まあいろいろコースはあるんだけど、とにかく肝臓は最後にくることが多いので、肝臓でみつかったらまず全身に転移していると考えなければならない。
だから術後の定期検査でも、残った乳房とか肺なんかは、最初に転移しやすい場所ということもあってわりとチェックするんだけど、肝臓はほぼノーチェックだった。
血液検査で腫瘍マーカーが上昇しているとか、同じく血液検査で肝機能が悪化しているといった問題がない限りは、肝臓の検査をわざわざ行うことはほとんどないのだ。
母はその点について、以前から何度も「もっと検査をしなくていいんですか?」と自分から念押ししていたのだが、「初期治療と違って、転移というのは早くみつけて早く治療したから治りがよくなるってものじゃないので、あんまり検査しすぎても意味ないんです。全身調べてたらキリがないですから」と言われて終わっていた。
とはいうものの、肝臓は沈黙の臓器というだけあって、自覚症状が出るのはかなり進んでからだ。
医者もいきなり肝臓というのは予想外だろうから、はっきり言って油断していたと思う。
ではどうやって今回の転移がみつかったか?
これはもう本当に本人の「勘」と「運」というしかない。
今考えると、去年の秋頃から、すでに慢性的な疲労感を感じていたらしいが、寝込むほどではなかったし、血液検査にも異常は出ていなかったため、そのまま放置していたという。
最初に異常を感じたのは「排尿の違和感」だったそうだ。
今年の6月頃のことだ。なんとなく「出にくい」気がする。という程度だったが、母は片方の腎臓が働いていないため(これはずっと前からのこと。原因はわからないが腎盂腎炎をやったときにやられたのかもしれない)、腎臓のことはいつも気にしていて、念のために自分から腎臓内科と泌尿器科を受診した。
そこでは「腎臓は異常なし。でもエコーで見ると肝臓にちょっと影がありますね」と言われたらしい。
先生は「まあ大丈夫ですよ。たいした影じゃないから」という感じだったが、母は「心配だから消化器内科に行きたい」と言い、紹介状を書いてもらって次は消化器内科へと足を運んだ。
消化器内科では「たしかに影があるけど、これは血管腫だと思いますよ。血管腫は知らないうちにできてる人も多いですから」とやはりのんびりしたコメント。
そこで終わりにしようと思えばできたが、やっぱり心配が拭えない母は「じつは私、乳がんをやっているので、転移が心配なんですけど…」と言ったところ、「え? そうなんですか? じゃあCTとMRIも追加しておきましょうか。そうしたら腫瘍か血管腫かはっきりするので」と言われて検査追加に。
この時点でもすでにツッコミどころ満載だが、とりあえずそこはおいておく。
CT検査は7/24に行われ、7/31に結果を聞きにいった。
結果は「やはり血管腫でした」とのこと。
これですっかり安心した母は、MRIの検査もキャンセルしてしまった(閉所恐怖症でMRI嫌いなので)。
ところが、8月に私と一緒にセカンドオピニオンまわりをするうちに、疲労感はますます強くなっていった。
9月に入り、高血圧のために定期的に通っている循環器内科で血液検査を受けたところ、初めて肝機能の数値が上がっていることが判明。
循環器内科の先生には「この程度の上昇なら薬の副作用かも。最近新しく飲み始めた薬はありませんか?」と言われ、まずは2週間ほど前から飲んでいた胃腸の薬をやめてみた。
1週間ほどたってから再び血液検査を行ってみたが、数値はいっこうに変わらなかった。
薬のせいだとすれば、あと考えられるのはずっと飲んでいるホルモン剤だろう。
そう思って次は乳腺科に行こうとしたが、母がかかっている乳腺科の担当医は、超が3つくらいつく多忙なドクターで、とても定期の予約外に診てくれるような状態ではない。
しかたなく、私が受ける南田先生(仮名)の診察日に相乗りする形で相談することになり、9/11に診察を受けた。
南田先生は「ホルモン剤の副作用ならもっとすぐに出るはず。4年以上も飲んでから出ることはない」と言い張ったが、とりあえずホルモン剤もやめてみることになった。
と同時に、「7月に撮ったCT写真を見ると、メインの大きな影はたしかに血管腫のように見えるが、他に小さな芽がたくさんあって、そっちは血管腫じゃないかもしれない。最新の血液検査の結果を見ると、肝機能だけでなく、腫瘍マーカーもわずかに上昇してきているし、気になるのでMRIを早急に撮ったほうがいい」と言われた。
しかし、L病院は常に検査の予約が満杯。特にMRIは予約をとるのが大変だ。
というわけで、南田先生の判断で別のクリニックで検査だけ行ってもらうことに。
MRIの結果は、そのまま担当医の三井先生(仮名)に届けられ、9/28に結果を聞きにいくことになった。
前にもこのブログでちらっと書いたが、この三井先生というのは乳腺外科の世界ではかなり名を馳せている女の先生で、とてつもなく大量の患者を抱えている。
それはもう尋常な数ではない。
といって、横柄だったり、機械的に患者をさばくわけではなく、大変情熱的で親身な先生らしく(伝聞形で書くのは、私は実際会ったことがないので)、そのことがさらに待ち時間の延長を招いている。
健康な人には想像もできないと思うが、予約しているにもかかわらず、5時間6時間待ちは当たり前なのだ。診察前に検査を受けたりすると、総待ち時間は文字通り朝から晩までとなる。
それを聞くと誰もが「ひどすぎる」と思うだろうが、当の先生があまりにも熱心で献身的なので、誰も文句が言えないらしい。
しかし、それって本当にいい先生なんだろうか?
……いやいや、とりあえずその問題はおいおい話すことにして、今はおいておこう。
この日の母の体調は非常に悪かった。
倦怠感も相変わらずだったうえに、9月に入ってから脇腹痛がひどくて息がよく吸えない状態が続いていた(最初は骨転移を疑ったが、骨シンチの結果は異常なしで、どうやら肋間神経痛らしい)。
にもかかわらず、その状態で6時間待たされたあげく、1時間半かけて「転移の告知」を受けたのだ。
診察を終えた母から電話が入ったのはなんと夜の11時すぎだった(母によると、まだあともう一人待っている人がいたらしい)。
ある程度覚悟はしていたが、あまりにも急転直下の展開に家族全員言葉を失った。
三井先生によると、「血管腫」だと断言されたメインの大きな影も「腫瘍」だと言う。
メインの影は直径で8センチくらいあるかなりの大きさのものだ。
ずっと定期検査を受けてきたのに、いきなりそんな巨大な腫瘍ができてましたと言われてもにわかには信じがたかった。
三井先生もかなりあわてた様子で、「とにかく、もう一度大至急検査を受けてください。私がなんとか入れますから」と、「至急」「至急」「大至急!!」と判子を押しまくって10/2にまとめて検査をねじこんだ。
そして今日。
検査(全身CT)の結果、肝臓の他に転移は見られないことがわかった。
しかし、画像上見えなくても、転移がんである以上、肝臓だけではなく、全身に散らばっていることはまず間違いないので、もう手術はできない。
全身治療、すなわち抗がん剤を使うしか選択肢はない。
しかし、抗がん剤と一口に言っても、乳がんの抗がん剤だけとってみても種類は数多い。
どれが効いてどれが効かないか、やってみなければわからないのが実情だ。
三井先生は、使える抗がん剤を片端から並べて、機関銃のような早口で説明してくれたそうだが、要は使えるカードを順番に切りまくるつもりらしい。
母の話では、大雑把ではあるが「余命」も宣告されたという。
がんはいったん転移したらもう治らず、あとはいかに延命するかという話になることは、がん患者なら誰でも知っているから、母も、付き添いで行った父も、当然のことだが大変ショックを受けていて、「もう三井先生の言う通りにするしかない」と力なく言っていた。
今日撮ったCT画像と血液検査の結果を見たところ、7月に撮ったCT画像に比べて明らかに猛スピードで進行していることが素人目にもわかったそうで、「早く治療しなければ手遅れになってしまう」という焦りでいっぱいになっているようだった。
それはわかる。
データを見せられて、医者に脅されたら、誰だって「お任せしますからすぐに治療を」という気持ちになるだろう。
しかし、私は今までの経過をきいて、どうしても三井先生にそのまま母を任せる気にはなれなかった。
過去の経緯があり、L病院が信用できないというのももちろんあるが、それだけでなく、三井先生自身に不安を感じるのだ。
たしかに三井先生は外科医としては腕のいい先生なのだろうが、再発転移となったらもう外科の世話になることはないはずだ。
薬物療法でコントロールしていくことになるなら、専門は内科の領域になる。
しかし、往々にして医者というものは自分一人の力ででなんとかなると思いたがる人が多い。
熱心でキャリアがあって自信家ならなおのことだ。
これは私が過去に受けたがん治療で身をもって感じたことである。
本来ならば、外科である三井先生は薬物療法が専門ではないわけだから、薬物に詳しい内科医と連携して治療にあたってくれるのが患者にとっては一番安心なのだが、三井先生は典型的な「一人で抱え込むタイプ」で、他の科の先生と連携してやっていくつもりなどさらさらないのは明らかだった。
「私でもそのくらいできる」と顔に書いてあるのが目に見えるようだ(会ったことないけど)。
というか、そもそもL病院には(L病院に限らず大学病院全般の傾向として)「連携」という概念がない。
「たらい回し」や「丸投げ」はするけれど、一緒に診ていくという姿勢が決定的に欠如しているのだ。
私が今これだけ重い荷物を背負わなくてはならなくなった理由もまさにそこにある。
だいたい、最初に本人が異常を感じて消化器内科に行ったとき、同じ病院内であるにもかかわらず、なぜ消化器内科と乳腺科の連携がとれなかったのだろうか。
消化器内科の医師は、こちらが申告しなかったら、母が「元乳がん患者」であるということにも気づかなかった。
いったい、目の前にあるLANで結ばれた端末はなんのためにあるのか?
これは情報を共有するためのツールではないのか?
彼は、少なくとも乳腺科の担当医に「あなたの担当の患者にこういうことがあったので、これ以降はそちらで経過をみてほしい」という報告くらいすべきではなかったのか?
乳腺科は乳腺科で、消化器内科に確認をとるでもなく、「消化器内科のほうで今後の経過を見るつもりだったんでしょう」とかいい加減なことを言ってるし(母が「いいえ。もうこれで検査はしないでいいと言われました」と反論したら、「あらま、そうなの?」とあきれたような顔をしたという)。
三井先生はよっぽど他人のやることに関心がないのか、はたまた信用していないのか、外部診療機関から送られてきたMRIの検査所見すら「私、こういうものは見ないので」と言って目を通そうとしなかったそうだ(私だって読影くらいできるんだからこんなものいらないと言いたいのか)。
一人の能力・体力でできることは限界がある。
三井先生がどんなに優秀かつ頑健であろうと、生身の人間である限り、なにもかもすべてを完璧にやりとげることはできないはずだ。
不安理由の2つ目はここにある。
どう考えたって、夜中まで診察というのは尋常ではない。
熱心といえばきこえはいいが、本当に患者のことを考えているなら、「私が頑張ればいい」という問題ではないということに気づくはずではないか。
一度、母が「先生の外来はいつもすごく混んでるから」と言ったら、なにを勘違いしたのか、「私は大丈夫です。朝までだってやりますよ」と返されて絶句したらしい。
朝までって……病人を朝まで待たせるつもりなのかよ!(怒)
先生は使命感に燃えて気持ちいいかもしれないが、待たされる患者は、体調の悪さと、精神的不安に押しつぶされそうになりながら何時間も何時間もじっと同じ場所に座り続けているのだ。
同じ6時間でも、職場で仕事している6時間と、なにもしないで待たされている6時間とでは苦痛のレベルが違う。
なぜそのことがわからないのだろう。
せめて「夜中まで待たされることが確実」なら、遅めに来院することを許可してほしいところだが、受付は受付で早く帰りたいものだから「受付だけは早く済ませてくれ」と言うし、結局ツケを払わせられるのはいつも患者側なのだ。
いくら人気があるといっても、そこまで非常識な数の患者を抱えている医者に自分の身内を預けたいかと言われたら私は断じて「否」と答える。
もちろん、そこまで待たされることによって身体にかかるであろう負担も心配だったが、なによりも「こんなに忙しい先生なんだから」という遠慮によって、聞きたいことも聞けない、言いたいことも言えない、不安になったときにすぐに連絡をとるのも憚られる…といった不健全なコミュニケーションしかとれなくなってしまうことが心配だった。
これからの治療は長期戦になる。
担当医との信頼関係は「絶対不可欠」だ。
話をよく聞いてくれること。これは絶対にはずせない条件だ。
話を聞くといっても、ただ相づちを打って聞いてくれればいいというわけではない。
時間をとってくれるかどうかももちろん大事だが、それよりもこちらの気持ちを汲み取るだけの精神的余裕と能力があるかどうかがもっとも重要だ。
正直なところ、三井先生にそれはないとみた。
理由の第3は、第2にも通じるが、余裕のなさから、なんだかんだいって、結局自分が一番なじんでいる方法にしがみつくような医師では困るということだ。
率直に言って、私は抗がん剤は使わせたくない。
たとえ抗がん剤が効いて今あるがんが縮小しても、身体を弱らせることで結局またべつの場所にがんを作り、いたちごっこになるのがこわいからだ。
でも、ここまでがんが大きくなり、肝臓の機能もがた落ちしている状態を見ると、まずは抗がん剤を使うという選択もやむをえないかなとは思う。
とにかく肝機能と体力をあげないことにはなにも始められないからだ。
でも、抗がん剤をダラダラと使い続けることには激しく抵抗を感じる。
ある程度体調が回復したら、鍼に通って免疫増強に努めて全身状態を改善することが望ましいと私は思っている。
そのへんの意向をどのくらい担当医が理解してくれるのか。
そこも重要である。
残念ながら三井先生はかなり西洋医学に凝り固まっているタイプのようだ。
母が鍼の話と私の話をしたところ、「それはありえません。鍼で元気になることはあっても、がんが小さくなるなんてこと、絶対にありませんよ」と断言したという。
「でも27mmが18mmになって…」と反論したら、「エコーはやる人によって誤差も出ますし」とまったく取り合おうとしなかったそうだ。
バカ言っちゃいけない。目測で縮小が確認できるほど小さくなっているのにどうして「誤差」で片付けられるんだよ。
おまけに「鍼灸院でも毎回皮膚の上から計測してますけど、確実に小さくなってるんです」と言ったら「それは都合のいいように言ってるだけかもしれないですよ」と言われて、これにはさすがに母もカチンときたらしい。私もきた。
あのねぇ、自分がよく知らない分野のことを認めたくないのはわかりますよ。
でもそこまで人を貶める資格があなたにあるんですか?
私たちは今までずっと、西洋医学に従い、医師の言う通りの治療をまじめに受けてきたんですよ。
でも母は再発しましたよね。
ずっと飲んできたホルモン剤は効いてなかったってことですよね。
「ええ、そうですね」ってそれで終わり?
乳がん患者はみんな、効くと信じて、つらい副作用に耐えながら必死にホルモン剤を飲み続けてるんですよ。
それって「がん治療に失敗した」ってことじゃないんですか?
自分の失敗は棚に上げて、人のやってることには悪意に満ちた評価しかしないのってどうなんでしょう。
だいたい1センチ近いサイズダウンを「誤差」と言い切るなら、エコーで薬の効果を確認するのも全然あてにならないってことですよね。
それとも抗がん剤を使ったときは、それは「誤差」ではなく「合理的縮小」になるんでしょうか。
元気にはなってもがんは小さくならない?
元気ならいいじゃないですか。
がんがなくなっても本体がへろへろになったら意味ないんですよ。
がんがあっても元気ならいいんですよ。
結局あなたはがんの存在にしか興味がないんですね。
元気であることが、それがなによりも重要なんですよ。
会ったこともない人のことをあまり悪く言いたくはないが、話を聞いただけで反論したいことがわき水のように溢れ出てきてしまう。
だめだ。
絶対この先生にかかっちゃだめだ。
たとえ「日本百名医」に入ってる先生でも絶対だめ。
そう強く思った私は「早まらないで他の病院に話だけでも聞きに行こう」と主張した。
しかし、治療を焦る両親は「今さら病院を変えるなんて無理に決まってるし、第一、三井先生にそんなこととても言えない」と及び腰で、しまいにはケンカになった。
結局、「治療の予約(一回目は入院してやる)は入れるけど、それはそれとして話だけは聞きにいく」ということで同意を得た。
私が話を聞きたいと思っていたのは聖路加だった。
聖路加ならチーム医療も進んでいるし、私の考えている条件に一番近い医療が受けられそうだったからだ。
本当なら三井先生に紹介状を書いてもらわないと、セカンドオピニオンも初診も受けられないのだが、そんなもの頼んでいるとどんどん遅くなるし、「聖路加が受け入れてくれるかどうかもわからないのに三井先生との関係をこわしたくない」と母が言うので、とにかく紹介状なしで診てもらえるよう、セカンドオピニオンでお世話になった一条先生に直談判することにした。
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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
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このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
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