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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 結婚式に出席してから3日後、聖路加に行った。
 腫瘍内科(主治医)→リハビリ(診断書作成のための計測)→眼科(定期検診・眼底検査)→文書係(診断書2通依頼)→ソーシャルワーカーに自立支援の事業所探しについて相談……とかなりハードなスケジュールだった。

 しかし、メンタルはまだ回復せず、往きの電車の中からすでにボロ泣き。
 これはいかんと途中でティッシュを買いたしたが、病院に着いて順番待ってるときも涙ボロボロ鼻水ダーーッ。
 鞄の中にどんどんたまっていく使用済みティッシュ。
 一条先生(仮名)に呼ばれてからもまたさらに大泣き。
 どんだけ泣いてるんだ>私。

 当然、先生は「どうしたのか」「何があったのか」と聞いてくるが、そんな問いに一言で答えられるくらいならこんなに泣いてない。
 今まで何十年もずーーーーっと病院に通い続けてきたが、診察室で泣いたのはこれが初めてかもしれない(母が亡くなった直後は誰の前でも泣いていたが、それはべつとして)。

 なんて答えたらいいのかなかなか思いつかなかったが、最初に出た言葉は
 「なんで治療なんてしたの?」
 「治療なんてしないで放っておいてくれればよかったのに」
 だった。

 もちろん、治療したのは一条先生ではない。
 それどころか、一条先生は無治療を支持してくれた希少な先生だ。
 こんな後遺症を残すほどの治療をしてくれた医者はべつにいて、その人たちは今でもそのことを絶対に認めようとしないし、責任逃れや隠蔽工作をすることしか考えていない。

 私の問いに対し、一条先生は前と同じことを言った。
 「過去のことを言ってもどうにもならないからね」

 じゃあ何を言えばいいというのか?
 現在の状態を誰もどうにもしてくれなくて、未来も考えられなかったら、原因のある過去へ感情が向かうのは当然じゃないのか?
 まわりの人に「理解できない」と言われ、目の前の医者に「どうしたらいいんだろうね」と頭を抱えられ、過去にもぶつけられないというのなら、この重苦しい気持ちはいったいどこへぶつければいいのか?
 国?……厚生省?……神様?

 そうやっていつも同じところで堂々巡りになる。
 ぐるぐるまわって、まわって、結局最後は自分のところに戻ってくる。
 一条先生はかなり困って考え込んでいたが、一応私の大泣きが収まるまで待っていてくれた。
 けっこうな時間、泣き続けていたが、ようやく沈静化してきたところでふと我に返った。
 
「そういえば、がん転移ってどうなってましたっけ?」
 
 この前のCTで、頸部に転移を疑われる所見があったため、1週間前に頸部エコー検査を入れてもらったんだった。
 今日はその結果を聞きにきたんだよ。そうだよ。

 私の言葉で一条先生も我に返り、あわててデータをチェックする。
 結果は、「たしかに右鎖骨上部、両顎下に5ミリ程度のリンパ節が見られるが、過去に治療をおこなった部分でもあり、その影響でリンパ節が変形しているのかも。この程度の大きさならば経過観察で充分対応可能。生検までは必要ないのでは?また、甲状腺の左側にも腫瘤が認められるが、良性だと思われる」といった内容だった。

 これでとりあえず、頸部のほうも「シロ」寄りになった。
 血液検査の結果も変わりなし。
 腫瘍マーカーもじわじわ下がっているものもあり、上がっているものもありで、これだけではなんともいえない感じ。

 「まあ、がんのほうはたいしたことないから気にしないでいいよ。とにかく支援が受けられることを最重要課題でやっていこう」という一条先生。
 たいしたことないって……言い切られちゃうと…(^_^;)
 でもたしかに今は支援を受けられるかどうかが一番死活問題。

 まず第一に、リハビリを継続的に受けられるようにすること。
 今の制度では、リハビリを受ける人をなるべく減らそうという方向に向かっているので、ボヤボヤしているとあっという間に打ち切られてしまう。
 今までは昨年の骨折のためのリハビリの延長という形で受けられていたが、骨折じたいはもう治ってしまったので、このまま受け続けるのも苦しくなってきた。

 「動かしていればそのうちに回復する」という機能障害ならば、ある程度動くようになったところで自主トレに切り替えろというのはわかる。
 でも私は脳血管性の麻痺とは違うので、いくらリハビリをしても動くようにはならないし、自分で訓練することもできない。
 そういう意味ではリハビリは「意味なし」なのだが、ただ自分では動かせなくても、人に動かしてもらうことで関節がかたまらないようにすることはできるし、今残っている神経を訓練することもできる(進行を遅らせることはできないけど)。

 だから、リハビリは続けたほうがいいのだが、これ以上続けるにはドクターのあらたな依頼書が必要になる。
 整形外科は「骨折までしか診ない」という態度だったのでもう頼めそうにない。
 頼めるとしたら一条先生しかいないが、整形外科以外の科から依頼書を出す場合は、毎回リハビリを受ける前にその科を受診しなければならないというルールがあるらしい。
 今は週1でリハビリに通っているので、そうなると今後は腫瘍内科の予約も毎週入れなくてはならない。

 なんかこのルールっていうのがどこに行っても立ちふさがっていて、手続きを進めようとするたびに障害になる。
 今、どういう手続きをおこなっているのかについてはまた次回まとめて書くことにする。

 ちなみに、この日は泣いた分診察時間が長引き、お昼を食べそこなった。
 自業自得だけど、あとでお腹が空きすぎてめまいがしてきたので、眼科で瞳孔開く目薬が効くのを待ってるあいだに食べに行った。

 悲しくても、へこたれてても、おなかは空くんだな。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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