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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 手が不自由になって、自分で料理が作れなくなった。
 自分の食べたいものを自分で好きなように作れるのはなんて幸せなことなんだろう。
 料理が好きだっただけに、自分で作ることができないのはストレスだ(作ってくれる人には申し訳ないけど)。
 料理に限らず、人にしてもらうよりは自分でしたいよね。誰だって。

 介助があれば、まだ自分の作りたい物を作ることはできるけど、常に手伝ってくれる人がいるわけではないので、そういうときは外食なり、買ってきたものを食べるなり…ということになる。
 しかし、これはこれでまたストレスなのだ。
 開封したり、茶碗を持ったり…といった細かいさまざまなところでつまづくので、やっぱり一人ではできないことがたくさん出てくる。
 特に外食は、一人だといちいちお店の人に頼まなければならず、気が重い。
 セルフサービスの店などもいろいろ考えると入りにくくなる。

 今日は久しぶりに一人でモスバーガーに入ったのだが、トレーを受け取るときにバランスを崩してコーヒーをソーサーにこぼしてしまった。
 一瞬「あっ」と思ったが、このときの店員さん(女性)がよくできた人で、すぐに私の手が不自由だと認識し、「運びますからどうぞ」と席に案内してくれて、コーヒーもとりかえてくれて、ドレッシングの小袋もクリームのポーションも開けてくれた(ドレッシングも全部かけるのではなく、あとから好みで足せるようにと七分目くらいまでで止めてくれた)。
 当たり前のように思うかもしれないけど、なかなかここまで自然に、気持ちよく、しかも自主的にやってくれる人はいない。
 サービス料をとるようなレストランでもまったく気が利かないところもあるし、同じ店でも人によって対応が違ったりする。

 聖路加通院時にいつも行く店は、週に1回以上は必ず通っているのでもう顔を憶えられてしまい、黙ってても肉や魚やパンまでカットしたものを出してくれるし、荷物を置く椅子は右側に持ってきてくれる。
 こうなると、初めて入るお店はますます敷居が高くなり、同じ店ばかりに足が向くようになってしまうのだが、それだけに「一を見て十を判断する」みたいな店員さんにあたるとすごく嬉しくなる。
 その一方で、障害者を相手に仕事をしているところなのになんで?という対応をされて愕然とすることもある。

 今年になってから障害が進み、福祉事務所に相談に行ったら「障害認定の取り直し(3級から2級へ)」と「ヘルパー支援の要請」をおこなうようにアドバイスされた…という話はすでに書いたが、それからはや2ヶ月。手続きするたびに壁にぶちあたり、いまだに現在進行形だ。
 上肢障害に関して私がおこなっている(あるいはおこなった)手続きは以下の通り。

 1)骨折による治療費および保険金請求(保険会社)
 2)骨折による後遺障害保険金請求(保険会社)
 3)障害者手帳の認定取り直し(福祉事務所)
 4)自動車税の減免手続き(都税事務所)
 5)ガソリン代の助成(福祉事務所)
 6)医療費の助成(福祉事務所)
 7)障害厚生年金の受給手続き(年金事務所)
 8)居宅介護の要請(区役所障害者施策課)

 この半年でどのくらい診断書をとったことか。
 1通とるのに9000円近くかかるので、費用もバカにならない。

 あとから還付されるものに関しては領収書をまとめておかなければならないし、「審査に通れば還付。通らなければ診断書の文書料のみ返金」など、結果次第で変わってくるケースもあったりして、これだけ同時進行していると、なんの書類を受け取っているのか、依頼しているのか、わけがわからなくなってきて、書類が郵送されてくるたびに、また仕分けしなければ…とプレッシャーにつぶされそうになる。

 一条先生(仮名)に「部屋が散らかって片付かない」と愚痴ったら「みんな捨てちゃえばいいじゃん」と簡単に言われたが、散らかっている原因の大部分はこうした医療福祉関係の書類なのだ。
 昔の診療記録や検査データは病院にも残っていないから、古いものでもうっかり処分はできない。

 人に頼もうにも複雑すぎて頼めないし、いちいち内容を確認しようとするたびに手が思うように動かなくて涙目。
 電話しながら冊子をめくったりメモをとったりもできないので、簡単に電話連絡されても困るし。
 手書きも厳しいので、記入量が多いときは「お願いだから電子化してよ〜」と叫びたくなる。

 今日もガソリン代の助成申請のために福祉事務所に行ってきたが、記入に何十分もかかり、なおかつ「準備してくるもの」のリストに書いてなかったものもあとから次々に要求され、「自動車税減免とセットなんだから通知と一緒に申請用紙送付してよ〜。そしたら事前に記入してこられるのに〜」とその要領の悪さにイライラ。
 また、対応する職員がおじさんだと、往々にして仕事が遅くて、不手際も多い。今日も年輩の女性職員に1カ所、若手女性職員に1カ所不手際を指摘されてオロオロしていた。

 それでもまあ1)〜6)まではなんとかなった。
 障害の等級も3級から2級にあがった。
 が、ここから先が険しかった。
 問題は7)と8)だ。

 障害年金の存在は福祉事務所で教えてもらったのだが、管轄は区役所の国保年金課か年金事務所かどちらかになると言われた。
 どういう意味かというと、「初診日=障害が生じる原因となった病気のことで初めて病院にかかった日」に国民年金を払っていた場合は前者、厚生年金を払っていた場合は後者の管轄になるというのだ。

 私の場合、障害が起こった原因は治療なので、治療日までさかのぼるのか、それともホジキン発症までさかのぼるかで支払っている年金も違ってきてしまう。
 わからないのでとりあえず国保年金課に行ってみた。
 ひととおり事情を話したら「とにかく初診です。最初に不調を感じて病院に行った日です。そのときに見当違いの診断をされてそのあとに本当の病名がわかった…というケースであっても、最初の診察が基準になります」と言われたので、じゃあ頸部が初めて腫れた昭和62年までさかのぼることになるので会社員時代かな…と思い、今度は年金事務所を訪ねた。

 「障害年金の申請をしたいんですけど」というと、窓口のおじさんはまず「病名は?」ときいてきた。
 「ホジキンです」と答えたところ、おじさんは「ほいきた」と言わんばかりの手慣れた様子で書棚からシュパシュパと用紙を抜き取り、目の前にダーーーッと並べた。
 必要な書類は大きく分けて4種類あり、うち2種類は自分で書くものだったが、残りの2種類は病院が書くものだった。

 ひとつは「現在の状況について報告する証明書」。
 これは現在の主治医である一条先生に書いてもらえばいい。
 問題はもうひとつのほう。これが「初診証明」だ。
 当然、L病院に書いてもらうしかない。
 とたんに気が重くなった。
 誰に頼んだらいいんだこれ……。

 おじさんは「記入するのに楽なように」…と、あらかじめ鉛筆で丸をつけながら説明を続けた。
 「『傷病は治っていますか?』……これは『いいえ』に◯…と」
 ……え??
 いや、ホジキンだったら治ってるから『はい』なんだけど。
 でも『はい』だと「じゃあ障害ないじゃん」ってことになっちゃうのか。
 ぷぎゃーー。どうすんだ、これ(>_<)

 「あのー、病名はホジキンなんですけど、障害の原因はホジキンの治療であってホジキンそのものじゃないんです。そういう場合はどうしたら…」
 そう質問したら、水をさされたおじさんは「そんな難しいこと言われてもわかんないよ」と不機嫌になってしまった。
 「とにかく、申請しても審査に通らなければ受給できないから、あんまり期待しないでね」
 えーー、ここまでめんどくさいことやらせられたらそりゃ期待するよ。なに言ってんだよ。

 とりあえず、まず厄介なのは初診証明をどうやってとるかだ。
 因果関係をいまだに認めようとしないL病院がはたしてこの書類を書いてくれるのだろうか。
 正面きって頼めばまたいやがらせでなかなか書いてくれないということも充分ありうる。
 ということで、最初は裁判でお世話になった弁護士に相談してみた。
 弁護士を通して書類を書くように言ってもらえないかなと思ったのだ。

 が、今までL病院に散々非常識な態度をとられてきた弁護士は、「あの病院が書くはずない。当時のことを知ってる先生だってもういないだろうし、カルテだって保管してないだろうから、うちで保全したカルテのコピーを持っていってべつの病院の先生に書いてもらったほうがいい」と主張。
 本当にそんなことが通るのかどうか、今度は聖路加のSSD(医療社会事業課)のソーシャルワーカーに相談してみた。

 ここはさすがに専門部署だけあって一番詳しかったが、がっかりすることが立て続けに判明した。
 まず、初診証明はあくまでも「医療機関」の証明なので、現在L病院に勤めている医師でなくては出せないということ。
 もうひとつは、心配していた通り「この診断書は『血液疾患(ホジキン)』についての書類であり、現在の障害は肢体不自由なので、『肢体不自由』用の診断書を出さないと現在の状態を説明できない」ということ。

 じゃあこの診断書はいらないのかと聞いたら「両方必要」だという。

 えーーーー、だから窓口でそう聞いたのにーーーー!!!

 結局、年金事務所に電話して書類を追加郵送してもらうことにした。

 また、その場でL病院のソーシャルワーカーに電話を入れ、「20年以上前の初診証明をとりたいんだけどどこへ頼めばいいのか」と聞いてもらったところ、これまた予想通りの答えが返ってきた。
 聖路加には文書を一括して取り扱う「文書係」というセクションがあり、すべての文書依頼はそこで受け付けてくれる。その後、文書係のほうでしかるべき科の医師にまわしてくれるのだが、連携最低のL病院は、各科の事務が受け付けるシステムになっているため、どの科に持っていけばいいのかがわからないと受付場所が決まらないのだという。
 初診は第二外科(診断がつかなかった段階まで広げれば膠原病内科)だったが、すでに20年以上たっているので、科は何度も統廃合され、当時の姿は残っていない。
 もはや、当時の科が今の何科かというよりも、個人的に頼みやすい先生に直接頼んだほうが早いような感じだ。

 放射線科と内科にはもう絶対近づきたくない。
 となると外科だけど、当時の担当医で今も残ってる先生って……あ、一人だけいた!
 当時、研修医だった北原先生(仮名)が乳腺科にいる。
 今は他の病院に移ったと聞いているが、たしかまだ週1回は外来に出ているはずだ。
 そうだ。北原先生なら頼めるかもしれない。

 さっそくメールをしてみたところ、「書くのはかまわないけれど、所属が乳腺科でもいいのか。また、今はL病院では非常勤の立場になるんだけどそれでも大丈夫か」とまたややこしいことをきいてきた。

 私に聞かれても〜〜〜!!
 
 SSDに電話して聞いたら「それはわからないですねー。年金事務所に直接きいてみてください」と言われ、年金事務所に聞いたらもっと話が通じず「それは審査する機関がどう判断するかなのでこちらではわからないです。先生が書いてくれるって言ってるんでしょ?先生なんでしょ?ならいいんじゃないですか?もし通らなかったら『こういう理由で初診証明ができませんでした』っていう申立書が必要になりますけど…。まあそういうケースもあるんですよ。廃院になっちゃっててもうないとか。でもあるんでしょ?病院」…と聞けば聞くほどめんどうなことになっていくので「もういい!」と諦め、北原先生に頼むことにした。

 時間を約束して外来に行ったら、こちらが持っていったカルテコピーを元にその場で文書を作成してくれたので、思っていたよりはすんなりと書類を手に入れることができた。
 しかし…やっぱないんだな、昔のカルテ。
 マイクロフィルムには収められているらしいが、収められてるだけで、そう簡単に出してはくれないようだ。それって事実上「ない」ってことと同じじゃん。
 マイクロフィルム化できない資料については群馬の山奥の倉庫に保管されているらしい。
 ますますもって「出す気なし」って感じ。

 とにかく、これで初診証明はとれた。
 次は一条先生に書いてもらう書類2通だが、「血液疾患用」はともかく、「肢体不自由用」は計測(腕や指の可動範囲を細かく測る)項目がいっぱいあるので、整形外科にまわすか、リハビリ室の療法士にオーダーを出してもらうかしなくてはならない。
 この計測っていうのがまた時間かかるんでどこに頼んでもいやがられるんだよなー。
 
 なんかここまでハードルが多いと、いかにして諦めさせるかを狙ってるように思えてくる。
 毎日の日常をこなすだけでもギリギリなのに、なぜ肉体的にも精神的にも金銭的にも次々に負荷をかけてくるのだろうか。

 8)の居宅介護要請についてはまた次回。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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