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がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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 話があちこちにとんでしまうが、今日は昨年10月におこなった眼の手術についてのレポの続きを書く(手術までの経緯についてはこちらの記事を参照のこと)。

 手術を決めたのが9月14日のこと。
 まだ骨折も完全に治っていなかったし、私としては手術はできれば遅めがいいと思っていた。
 といっても、11月後半から12月にかけてはイベント続きで忙しくなるのがわかっていたため、10月後半くらいがいいかな……と漠然と希望を持っていたのだが、そんな甘いものではなかった。
 とにかく、聖路加の眼科はめちゃくちゃ混み合っているのだ。
 「10月だと15日しか空いてませんね」といきなりピンポイントで言われてびっくり。11月だと後半以降しか空いてないとのことで、もはや選択の余地はなかった。

 さらに、「術前検査は×日、結果をききにくるのは△日、麻酔科の話をききにくるのは※日で願いします」と入院にいたるまでの通院日もたたみかけるようにピンポイント指定。
 いや、正確には二択くらいの余地はあったのだが、こちらも1ヶ月の中でどの日も空けられるというわけではない。もうちょっと選べるのかと思っていたんだけど、正直ここまで詰まってるとは思っていなかった。
 特に、1万円以上する帝劇のチケットを買っていた日に麻酔科医の面談日の指定が入った時には涙目になりそうだった。
 「えー……そこはちょっと……」
 「お仕事ですか?」
 「ええと……」
 とても観劇が入ってるとは言えない空気で、手帳を隠すようにしながらウニャウニャねばったが、麻酔科の先生はそこしか空けられない、麻酔科医の面談を受けてもらわないと全身麻酔の手術は受けられない、と言い張られ、泣く泣くチケットを手放すことにした(TロT)

 その3日後、術前検査をおこなった。
 網膜の断層撮影、眼球の奥行きの計測、角膜裏の細胞検査など、眼に関する精密検査の他、血圧測定、採血、採尿、心電図、胸部レントゲンなどの全身機能のチェック。
 眼の検査そのものは苦痛をともなうものではなかったが、とにかく待たされるのと、コンタクトをいちいちはずさなければならないのが難儀で、あらためて「手術すればこの心労から解放されるんだ。あと少しなんだ」と自分に言い聞かせてふんばった。

 9月28日に結果を聞きに行く。
 手術をおこなうにあたって、特に問題はないとのこと。
 右眼については、レンズをのせる土台はしっかりしているようだが、左はやや弱めなので、もしかしたらその場の判断で「縫い付け」になるかもしれない」と説明される。
 なにぶん、23年前に吸い出した残りなので(さらに一回再発してレーザーで穴をあけたりしたので)、土台がもろいのはいたしかたない。

 水晶体は上下が固定されている袋のようなもので、最初から眼内レンズを入れるなら、袋の中身(濁った部分)だけを吸い出してレンズを挿入すればいいので、袋そのものにはほとんど傷をつけなくて済む。
 しかし、過去に私が受けた手術では、袋の前側の部分をすべて吸い出してしまっているので、残っているのは袋の後ろ側のみなのだ。
 どこまでもちこたえられるのか、こればかりは開けてみなければわからない。

 さらに、レンズの焦点をどこに合わせるのかという相談をする。
 レンズは固定焦点なので、「遠く」に合わせれば近くがぼやけるし、「近く」に合わせれば遠くがぼやけることになる。
 普通は「遠く」に合わせて、近くはメガネをかけるようにするみたいだが、私は「パソコンのモニタまでの距離に合わせてほしい」と頼んだ。

 私は現在、「近くに合わせたレンズ」と「遠くに合わせたレンズ」、2種類のコンタクトレンズを使いわけている。
 最初は「遠くに合わせたコンタクトレンズ」だけを使っていたのだが、「いちいちメガネをかけなければ手元が見えない」というのは想像以上に不便だった。目の前の料理も微妙にぼやけるのでおいしそうに見えない。
 といって、メガネをかけてしまうと、今度は向かいに座ってる人の顔すらぼやけてしまう。

 それでためしに「近くに合わせたコンタクトレンズ」を作ってみたのだが、気になるほど遠くがぼやけるわけでもなく、近くもだいたいメガネなしで見えるようになり、意外に使い勝手がよいことがわかった。
 これならば、広いスペースに出ない限りは「近く用」で充分用が足りる。
 というわけで、「遠く用コンタクトレンズ」は舞台鑑賞のときくらいしか出番がなくなっていった。

 私が一番眼を使うのは間違いなく「パソコン作業のとき」だ。
 だとしたらその距離に合わせてもらうのがもっとも合理的だろう。
 近距離というか、近〜中距離になるが、とにかくそこにピントが合うようにして、すごく遠くやすごく近くを見るときだけ、それぞれの距離に応じたメガネをかけることにした。
 一見中途半端なようだが、今までの経験上、これが一番ストレスを感じずに済むと判断したのである。

 最後は10月8日。麻酔科医のコンサルティングを受ける。
 聖路加では、担当の麻酔科医と手術室担当のナースが、入院前に必ず患者に「麻酔についての説明」を詳しくおこなうことになっている。
 手術や麻酔に対する不安や疑問をこの時点でとことん解消させるためだが、これはとてもありがたいシステムだった(私の場合、麻酔に一番のトラウマがあったし)。

 手術における麻酔科医の存在は非常に大きいが、一般的に患者はあまりその存在を意識することがない。
 意識がないときに活躍しているのだからしかたがないが…。
 麻酔科医としても、担当する患者についての病歴やアレルギーなど、どんな些細なことでも情報があると安心だと思うのだが、普通の病院では麻酔科医と患者が接点を持つ機会はほとんどない。
 まあ手術前日に挨拶くらいは来るけれど、テンパってるところにいきなり来られて「なにか質問は?」と聞かれても、患者のほうも何を聞けばいいのかわからないだろう。

 その点、このように事前にコンサルティングの機会を設けてくれれば、落ち着いた状態で概要を把握することができるし、あらためて疑問が生じたときは入院後にもう一度確認する機会が与えられるので安心できる。
 麻酔科医の労働が過酷だということは聞いているので、いちいちコンサルティングの時間をとるのは大変なことだと思うが、これは双方にとってとても有意義なシステムだと思う。
 ちなみに、このときは私のほうもかなり詳細な病歴表(今までに使った薬の名前も含めて)を作っていってナースに渡したのだが、「助かります〜」と感謝されてますます安心することができた。

 さて、これであとは入院日を待つのみとなった。
 入院3日前、目に髪の毛が入らないように、のびた前髪を美容院でカットしてもらい、入院準備を粛々と進める。

 不思議なことだが、手術を決めてから、メガネを紛失したり、破損したりすることが続いた。
 いずれも手術したらもう使えなくなるものなので新しく買うことはせずになんとかしのいだが、メガネのほうも「役割」を終えたと感じたのだろうか…。

 入院以後の話はまた次回。

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 母が亡くなってちょうどまる一年がたった。
 …というと必ず返ってくる言葉が「もうそんなにたったの?」「早いわね」というもの。
 一応「そうですね」とは答えているものの、私自身の気持ちとしては「まだ一年か……」という感じだ。

 この一年は、足に重い錘をゆわえつけた状態で階段を一段一段上っていくような気分で、ちょっとでも気を抜くと一気に足をふみはずして階段下まで転落しそうで、いっぱいいっぱいの毎日だったが、時間がたてば少しでも楽になれると信じて、まずは一年たつのを待った。

 最初の一ヶ月は環境の変化についていくのに精一杯で、なにがなにやらわけがわからない状態だった。
 それでも、その一ヶ月は非日常だったからなんとか乗り切れた。
 本当につらかったのは二ヶ月目から(つまり年明け以降)だった。
 生活が日常に戻るにつれて、現実を受け入れられない苦しみが具体的に表れてくる。
 まわりからは「そりゃあまだ一年もたってないんだから無理だよ」と言われたが、じゃあこの気持ちをいったいどうしたらいいのか、という答えはどこにもみつからなかった。
 未経験の悲しみに、ただただ溺れるしかなかった。

 一年たった今、少しずつではあるが、たしかに変化はあった。
 悲しみが薄れることはないが、悲しみから距離を置くことはできるようになった。
 悲しみに溺れ、もがいている自分を外側から眺めることもできるようになった。

 そこまできてようやく、母の存在を自分の「外」ではなく、「中」に感じることができるようになった。
 「外」から私を支えてくれた母は、今は「中」から支えてくれているのだ、と知ることができた。
 思いがけず強くなった自分を感じるたびに、「母が私の中にいる」と実感する。
 と同時に、今まで「外」にいた母に対して随分と甘えていたことに気づく。

 今までは母と並んで歩いてきたが、これから歩む道は、もしかしたら「一人」しか通れないほど狭く過酷な道なのかもしれない。
 だから母は「外」から「中」へと移って私に「道を進む力」を与えてくれたのかもしれない。

 スピリチュアル系のヒーラーに「母の言葉を聞かせてほしい」と頼んだとき、返ってきた言葉は「残せるものはすべて残してきた。道は必ずみつかる。だから心配はしていない」というものだった。
 その言葉の真偽を確かめるすべはないが、それから気持ちが楽になったのは事実だ。

 それでも現実は厳しく、体の障害は確実に進んでいる。
 日常の些細な動作もどんどんできなくなってきていて、しかも外からはわかりにくいので、なにに困っているのかなかなか理解してもらえないのがつらい。
 道は必ずあると信じなければ一歩も動けない状況だが、あてがはずれたり、逃げられたりする繰り返しの中で「道を信じ続ける」には、気が遠くなるほどのエネルギーが必要だ。
 

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 過去の入院記録がようやくスタートしたところで、またまたぶったぎりの展開になってしまって申し訳ないのだが、ちょっとばかり現在の話に戻りたい。

 じつは来月、眼の手術(眼内レンズ挿入術)をおこなうことになった。
 これについてはもうずっと前から「いつかはしなくちゃなー」と思っていながら延ばし延ばしにしていたのだが、母がいなくなってしまったことでようやくふんぎりがついた。
 身も蓋もないけど、こういうことは、面倒みてくれる身内がいるうちにやってしまったほうがいいとあらためて思ったのが動機だ。

 事の発端は23年前にまでさかのぼる。
 ホジキンリンパ腫を発病するさらに1年前のことだ。
 私は24歳で白内障になり、L病院で両眼の水晶体をとりだす手術を受けた。

 白内障といえば一種の老化現象のようなものだから、なぜその若さで?と思われるかもしれないが、中にはいるのだ。そういう人も。
 アトピー体質の人がなりやすいとも言われているが、アトピー治療に使われるステロイド剤の副作用という説もあって、原因はまだよくわかっていない。

 今では、白内障手術は「日帰りでもできる」くらい簡単だと言われているが、当時でも日帰りとは言わないまでも、それほど大変な手術ではないという認識だった。
 方法は局所麻酔で、眼球にメスを入れて白濁した水晶体を吸い出し、代わりに眼内レンズを入れる…という一連の行程で所要時間約15分程度。
 両眼おこなう場合は、状態のいいほうの眼からおこなって、1週間ほど様子を見てからもう片方をやるというのが一般的だ。

 ところが、私は年齢が若すぎて眼内レンズが適用されず(当時はまだ30年までしか耐久性が確認できなかったのだ)、水晶体を吸い出しっぱなしで閉じられてしまった。
 水晶体はピント調節をする部分なので、手術をするとピント調節機能がなくなり、焦点がどこにも合わなくなってしまう。
 眼内レンズを入れれば(固定焦点にはなるものの)裸眼でたいていのものはクリアに見えるようになるのだが、レンズを入れなければ近くも遠くもすべてがぼやけた世界のままだ。

 そこで、眼内レンズの代わりにコンタクトを使うわけだが、近視のコンタクトと違って超凸レンズになるので、ものが1.1倍くらいの大きさに見える。
 また、固定焦点だと遠距離〜中距離までしかカバーできないため、手元の文字などはさらに近距離用のメガネをかけなくてはならない。
 いってみれば、私は24歳から老眼と同じ状態だったわけだ。

 コンタクトとメガネを併用していると、あるいは若いのに近くを見るときにメガネをかけると、かなりの確率でまわりの人に「なんで?」と訝られ、そのたびに今まで説明してきたようなことをダラダラと話さなくちゃならなくて、それはそれは面倒くさかった。
 最近は老眼でもおかしくない年齢になってきたので、あまり疑問ももたれなくなってきたのだが、それはそれでちょっと癪な感じでもある。

 というわけで、手術した先生には「今はまだ眼内レンズは入れられないけど、将来また手術すればレンズだけ入れることはできますよ。その時期は自分で決めてくださいね」と言われ、「そうかー、また手術しなきゃいけないのかー」という重い気持ちを抱えたまま今日までやってきた。

 「いつ入れてもいい」とはいえ、一応手術なのであまり高齢になってからではリスクも高くなるし、身体にかかる負担も大きくなるだろう。
 コンタクトは長く使用し続けるとトラブルも多くなってくる。
 ましてや、この数年、手の麻痺がじわじわと進んできている私にとって、コンタクトレンズの扱いがかなり負担になっていることは厳然たる事実だ。
 入院して麻痺してないほうの手が点滴でふさがれたときは、本当に「手も足も出ないとはこういうことか」と途方にくれたものだ。
 客観的に考えて、今が「入れどき」であることは間違いない。

 にもかかわらず、どーーーーしても気が進まなかった理由は非常にシンプルで、「白内障の手術がトラウマになるほど痛かったから」だ。

 前にも書いたように、世間一般では「白内障の手術はとても簡単で、痛くもかゆくもない」ことになっている。
 今は点眼麻酔だけで手術ができるらしいが、23年前は、麻酔に万全を期するため、点眼麻酔+注射の麻酔(眼球のまわりに何本も注射される)がおこなわれていた。
 手術を受けることが決まったとき、眼科の先生から「この注射がねー、ちょっと痛いんですよねー。あらゆる麻酔の中で一番痛いと言われてるんですが…」と脅かされ、ものすごくブルーになった。
 たしかに痛かった。
 でもこの麻酔さえクリアすればあとはもう痛くなくなるんだから…と自分に言い聞かせ、歯を食いしばって耐えた。

 と・こ・ろ・が!
 冗談じゃねーよ。
 痛いだけでまっっったく効きやしないんだよ、この麻酔。
 いや、まっっったくは言い過ぎだけど、麻酔が効いていると言える状態ではとてもなかった。ほぼ効いてなかったと言ってもいい。
 切られたり、縫われたりする感覚も明らかにわかるし、うっすら見えるし、もう「うgy◆※□♯&×〜!!」って感じ。
 わずか10分が10時間にも感じられ、あまりの痛さに失神寸前だった。

 ネットには「麻酔をすれば痛みは感じませんが、もし痛いようならその場で言ってください。麻酔を追加します」とか書いてあるけど、本当に痛いとき、人は声すら発することができなくなるのだ。
 はっきり言って「いっそ殺してくれ」と思うくらいの痛みだった。

 手術後、先生にそう訴えたところ、「変ですね。そんな話きいたことないけど。皆さん、トロトロとまどろんでるうちにいつのまにか終わってるって言いますよ」とうさんくさそうな顔をされたが、1週間後にはまた同じ手術をしなければならないこっちとしてはそう簡単にはひきさがれない。
 「予備麻酔の鎮静剤の量が足りないんじゃないですか。次回はもっと増やしてください」と騒ぎまくり、次は鎮静剤を増やすことを約束させた。

 で、その結果はというと……やっぱり痛かった!
 てゆーか、痛みの質を知ってるせいか前よりもっと痛く感じるし!!(>_<)
 この出来事で、もう絶対に「白内障の手術は痛くもなんともない」という話は信じなくなったし、二度としたくない!NO MORE 眼の手術!という思いを胸に刻んだのでした。

 たしかに白内障の手術経験者の話を聞くと、圧倒的に「痛くない」という人が多いのだが、たまーに「死ぬかと思うくらい痛かった」という人もいる。
 これはやはり麻酔が効いてるか効いていないかの違いとしかいいようがないと思う。
 「痛い」という人は若い人が多く、「痛くない」という人はほぼ全員が年輩者だ。
 こう言ってはなんだが、「痛くない」という人は、皆さん感覚が「鈍く」なっているのではないでしょうか。

 だいたい予備麻酔されたぐらいでトロトロまどろんでんじゃねえぞ、おら!と私は言いたい。
 普通に考えて「眼の手術」というシチュエーションだけで恐怖と緊張はマックスになる。
 そのうえ、ド痛い麻酔注射を打たれようものなら、ますます危機感を感じて意識は研ぎに研ぎすまされてしまう。
 これでリラックスしろというほうが無理な話だ。

 という経験があったので、もし、またあの手術をしなくちゃならないのなら、絶対に「全身麻酔」でなきゃいやだと思っていたのだが、あらためて白内障のサイトを見たら「手術は局麻が一般的。精神に異常をきたしている方、痴呆が見られる方、極度に神経質な方、子供などの場合には全麻でおこなう場合もあります」と書かれていて、「そんなに限定されたケースでしか全麻が適用されないのか」という事実に愕然とした。

 L病院には、コンタクト科でずっと定期検診を続けているのだが、「そろそろ再手術が避けられないところまできている」と観念した私は、ある日、眼科の医師に「眼内レンズ挿入術を考えているのですが…」と相談してみた。
 争点(?)はもちろん「手術を全麻でやってくれるかどうか」。

 ところが、答えは私が考えているよりもずっと深刻だった。
 最初から「水晶体吸い出し+レンズ挿入」がセットになっていれば手術は簡単だが、水晶体を吸い出してから長くたっていると土台がもろくなっており、レンズを安定させるために「縫い付け」をしなければならない、というのだ。
 その手術はかなり大変で、局麻で1時間くらいかかるという。

 「え?ちょっと待ってください。そんな大変な手術を局麻でやるんですか?」
 「やりますよ」
 「だって1時間ですよね。1時間じっとしてろってことですか?」
 「ええ。でも全麻にするほどでもないから」
 「私、10分でも幽体離脱しそうに痛かったんですよ。1時間なんて考えられませんッ」
 「麻酔が効きにくい場合は、点眼だけじゃなくて、眼に注射の麻酔をする方法もあります。ちょっと痛いですけどそれをすれば…」

 だ・か・ら〜、それをやっても痛かったんだってば。
 悪いけど、私、あなたが医者になる前の時代から手術してんだよ。
 そう言うと「え?注射でも効かなかったんですか。うーん。それじゃあ……全麻かなぁ」と納得できないような顔でつぶやく。
 どうもよほど全麻をやりたくない様子。
 この程度の手術で、人手の足りない麻酔科医の手を煩わせたくないのだろうか。。。

 そのうちに「ま、どうしても今しなきゃいけないものじゃなし。そのまま手術しないっていう選択もありますよ」などと言い出した。
 「じゃあ、物理的にコンタクトが入れられない状況になったらどうするんですか」と聞いたら、「そのときはメガネにするしかないでしょう」と簡単に言うではないか。
 はぁ〜?!
 他人事だと思ってなに気軽に言っちゃってんだよ。

 コンタクトですら1.1倍の大きさに見えるんだから、メガネにしたらその誤差は1.3倍になる。
 当然、視野はメチャメチャ狭くなるし、足下は歩くたびにぐにゃぐにゃ歪むし、まるで望遠レンズを眼につけてるような状態でこわくてとても外になんて出られない。
 こんなメガネで日常生活が送れるわけがないだろうが。
 そう言ったらあっさり「だってしょうがないでしょう。それで生活してる人もいますし」と切り捨てられた。
 最初からL病院で手術するつもりはなかったが、このドクターの言葉でますます不快感が増幅した。

 まあ、だからといって、じゃあどこの病院で手術しようかと考えると、やはりどこもこれといった決めてに欠け、せっかく芽生えた手術意欲は再び萎えていった。

 それから何ヶ月かが経過し、私は旅行中に腕を3カ所骨折し、聖路加に入院した。
 入院は1ヶ月近くにもおよび、あまりにも暇だったので、入院中に眼科を受診してみた。
 これも運命なのだろうか。
 それから一気に話が進み、来月聖路加で手術を受けることが決まった。

 聖路加の先生は、「全麻でというご希望ならば全麻でやりますよ」とあっけなく承諾。さらに、実際に眼底検査をしてみて「これならば縫い付けではなく、レンズをのせるだけの方法でいける」と嬉しいことを言ってくれたのだ。
 しかも、「全麻でいくなら両眼いっぺんにやってもいい」という。
 正直、「片眼ずつやる」というルールははずせないと思っていたので、全麻を短期間で2回続けてやるのはちょっとリスクが高そうでこわいなーとビビってたんだけど、1回で済むなら願ったりかなったりだ。

 もちろん、不安要素もないわけではない。
 レンズをのせる土台が普通よりも弱くなっているのは事実なので、もしかしたら時間とともに中に入れたレンズがズレてきてしまう可能性もある。
 そのときは、もう一度手術になり、「縫い付け」をすることになるかもしれないという。
 再手術はいやだなーと思ったので「それならいっそのこと、最初から縫い付けるということはできないんですか?」と聞いたら「いや、『縫い付け』は最終手段です。出血のリスクも大きいし、術後の違和感もずっと大きくなりますし、できるだけやらないほうがいいです」と聖路加の先生は「縫い付け」にはあくまでも消極的。
 まあそこまで言うのなら「簡単なほう」に賭けてみよう。

 入院期間はなんとたったの2泊3日だという。
 局麻だと1泊2日でできるとはきいていたが、全麻で3日とは…!(手術前日に入院するから、事実上は手術の翌日に帰るってことだ)
 短いのは嬉しいけど、短すぎるのもなんだか不安。
 だいたい、術後は「翌日」「3日後」「1週間後」「2週間後」…と頻繁に検査がある。生活も普段通りなんでも制限なくできるわけではない。
 早く帰されても、またすぐに病院に行かなければならないのなら、ずっと入っていたほうが楽って気もする。

 入院は1ヶ月後だが、それまでにまだ3回は検査や説明のために通わなくてはいけないらしい。
 次回までに「既往歴」を書いてもってきてくださいねと看護師に言われる。
 出たよ……「既往歴」……。
 いつまでもついてまわる「既往歴」……。
 またいろいろ制限つきの治療になるんだろうなぁ。

 と考え込んでいたら、看護師さんに「小春さん、前に白内障の手術してるんですよね」と聞かれる。
 「はい。20年ちょっと前になりますけど」と言ったら「あー、子供の頃だったんですね」と真顔で言われて困ってしまった。
 「いや………子供……ではなかったですね……」

 ふん。どうせ今でも子供だよ。
 全麻しなきゃ手術できないしね。

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(この記事は、母が亡くなった時刻にアップされるように設定しました)

 母を見送ってからちょうど1ヶ月。
 最初の月命日はクリスマスだった。
 このブログの趣旨とはちょっとはずれてしまうが、母のことを知りたくてここを訪ねてくださる方もいらっしゃるので、もうしばらく母のことを書いていこうと思う。

 今年のお正月のことだから、ほぼ1年前の話だ。
 ここ数年、私はお正月気分が一段落する節分前の頃に、友人と明治神宮を参拝することにしている。
 初詣は激込みの明治神宮だが、その頃になれば人出もかなり減るし、ゆっくりと参拝ができる。
 参拝が済んだあとは、お守りを買って、おみくじをひくのが恒例だ。

 明治神宮のおみくじは、「大御心」と呼ばれる。
 吉とか凶が出る占い形式ではなく、明治天皇の作られた和歌(御製)と昭憲皇太后の作られた和歌(御歌)30種が印刷されたもので、そのときに出た和歌を自分の指針にする。「運をみる」というよりは「教訓を得る」という感じだ。
 今年、私がひいた「大御心」は次のようなものだった。

  たらちねの親につかへてまめなるが
  人のまことの始なりけり


 人の誠の基本は心をこめて父母につかえること…。
 新年早々そんな和歌が出てしまったら笑うしかない。「これは親に見せたら大変なことになるね〜」と友人と笑い合った。

 しかし、笑いながらもこの内容にはどこか心にひっかかるものがあった。
 「大御心」は、毎年手帳の一番最後のページに挟み、次の「大御心」と入れ替わるまで目に触れやすいようにしている。
 母が亡くなったあと、手帳を開いてこの和歌をみつけたとき、その「ひっかかり」がなんであるのかがわかったような気がした。

 母が亡くなったのは本当に急なことだったし、「親はいつかは死ぬ」という現実はあるにしても、母は年齢的にもまだまだ充分若かった。普通ならば死や別れを覚悟するような状態ではなかったと思う。
 しかし、私はこの数年、どこかでこの事態を常に意識していた。
 それは私の体調の悪化と密接に関係していた。

 どんなに言葉を尽くしても、徐々に悪化していく身体の苦痛、障害が進んでいく不安は他人にはわからない。
 訴訟の間、訴えても訴えても脱力するほど話が通じない相手に、その貧弱な想像力に、何度絶望的な気持ちに陥ったことか。
 そんな私の苦痛と不安、そして声がでなくなるまで叫び続けたくなるようないらだちを誰よりも深く体感してくれたのは、間違いなく母だった。
 保身と裏切りで傷つけられたときにはともに憤り、泣き、救いの手が差し伸べられたときにはともに喜び、また泣いた。
 母はいつだって全力で私とともにいてくれた。

 自分のすぐ隣で、同じように泣いたり怒ったりしてくれる存在は、私にとって大きな「救い」だった。
 だからこそ、母を失うことは「悲しみ」を通り越して「恐怖」であり、「母がいなくなっても私は生きていけるだろうか?」という問いは、自分にとってもっとも過酷な問いだったのだが、体調が悪化し、将来への不安が大きくなればなるほど、その問いは私にむかって頭をもたげてくる回数が多くなった。

 そう。
 私はこの数年、ずっと「このとき」を恐れていたのだ。
 他人に言えば「大丈夫だよ。まだまだ元気じゃない」「そんな悲しいこと考えたらだめだよ」と言われて終わりになる。
 どの人も「元気」で「明るい」面しかみようとしないし、ネガティブな感情は否定される。
 でも母は違った。
 母は私の「恐れ」を感じ取っていたのだろう。
 やはりこの数年、「小春ちゃんのために私は少しでも長く元気でいるようにするからね」と口癖のように言うようになっていた。
 身の回りのことが思うようにできなくて母に手伝ってもらうときも「今はこうやって手伝ってあげられるけど、私がいなくなったら一人でできるようになんとか考えないとね」と言うことが多くなった。
 そうやって、「いつか」はわからないけれど、「いつか」はやってくる「そのとき」に向けて、私と母のそれぞれの思いが集約されていった。

 母の病気(転移)がわかったときは、まだまだ「死」をストレートに意識したわけではなかった。
 もちろん楽観はしていなかったが、これからどう治療していくか、どう病とつきあっていくか、時間の猶予はまだあると思っていた。
 「死」があるとしても、もっともっと先のことだと思っていたし、そのときを引き延ばすための選択肢もまだまだある、それを探すことが家族の仕事だと思っていた。
 母が私の病気や障害とともに歩んでくれたように、私も母の病気とできる限りそばでかかわっていきたいと思っていた。
 だから「転移」を告げられても私は冷静だったし、母にも「病院や医師の言うなりの治療だけはしないようにしようね。そのために私たちはここまで苦しんできたんだから」とはっきり言うことができた。
 それが崩れたのは緩和ケア病棟に移ることを決めた日(=母が漢方を飲める状態ではなくなった日)だとブログには書いたが、今思うともっと前だった。

 母が最後に入院した11月12日、私は友人と旅行に出ていた。
 自分の病気や事故、母の病気…とずっと緊張状態が続いていた中、唯一の息抜きとして以前から計画していた一泊旅行だった。
 行こうかどうしようか迷ったが、母が入院することが決まって行く気になれた。

 通院治療が始まってから、母はずっとしんどそうで、何を作ってもほとんど食べてくれないし、家の中を移動するのにも息が切れて苦しそうだった。
 通院は車で送迎していたが、それでも限界だと思ったので、体力が回復するまで入院したほうがいいと勧めていたのだが、母は「病院は眠れなくなっていや。同じ不眠なら家にいるほうがいい」と言い張り、あくまでも通院を貫こうとした。

 その母が11月13日の治療の前日から入院すると言い出したので、よっぽどつらいんだなと思いつつも、入院してくれるならかえって安心だと思い、旅行には予定通り行くことにした。
 そのときは「治療さえ続けていれば、少しずつがんの勢いも弱まっていくはず」と信じていたからだ。
 だから、旅行から帰って「入院後の検査でがんは以前より憎大。治療は効いていないようなので中止した」と聞いたときには大きなショックを受けた。

 肝生検まで受けて、がんのタイプを詳細に調べて薬を選んだのに、効いてないってどういうこと?
 日頃連呼していたエビデンスはどこにいったの?
 効くという確信があったから投与したんじゃないの?
 効いてると思えばこそ副作用の高熱にも耐えたのに、じゃああれはただ身体にダメージを与えただけだったってことなの?
 納得できない気持ちでいっぱいだった。

 私が病院に顔を出したのは、11月14日だった。
 そのときだと思う。
 「母はもしかしたらこのまま回復しないかもしれない」という恐ろしい予感が初めて黒いしみのように胸に広がったのは…。
 最後に会ったのは旅行に発つ日の朝だから、会うのはわずか3日ぶりだったのだが、母は家にいるときよりも明らかに一段階衰弱していた。
 表情はうつろだったし、口調もろれつがまわらなくて声に力がなかった。
 家にいたときの母は、弱っているとはいえ「いつもの母」の延長だったが、この日の母は「いつもの母」とはもう違う人だった。
 たった1泊、旅行に行っている間に、母が一気に遠くへ行ってしまった気がして私は慄然とした。 
 「なんとかしなくちゃ」
 言いようのない焦りに襲われた。
 日頃から心のどこかでずっと抱いていた「恐怖」があらためて視界に入ってきて、この日から私の精神状態は底なし沼に落ちていくように不安定になっていった。

 「母を失うかもしれない」という恐怖を現実のものとして明確に認識したのは、11月16日に漢方医のところに行ったときだ。
 頼りにしていた漢方医に「これはちょっともう…」と消極的な態度を見せられたとき、最後の綱をブツッと切られたように感じた。
 漢方を飲み始めるタイミングとしてはもう遅いということなのか。
 漢方では対応できないほどがんの悪性度が強いということなのか。
 とにかく漢方で効果を望むのは難しいだろうということ、それ以前に口から漢方を摂取することじたいがもう無理だろうということが、そのとき私に知らされた現実だった。

 この瞬間から、実際に母を失う日までの9日間、私は幾度となく「母がいなくなる現実」を想像しては気が狂いそうな恐怖に襲われた。
 こんなことを想像してはいけない。
 何回もそう自分に言い聞かせたが、ふと気がゆるむと再び恐怖の妄想にスイッチが入り、その都度凍りついた。
 まるで、実際にこの恐怖が現実になったときに耐えられるよう、自分の身体に免疫を植え付けているかのようだった。

 そのときは自分の感情を制御するので精一杯だったが、今考えるに、いったい母はどの時点で「もうだめかもしれない」と自分で認識したんだろうか。
 17日に初めて持っていった漢方を母が1日かけてすべて飲みきったと聞いたとき、私は電話口で泣き出すほど嬉しかったが、母は自分のために、という以上に、私たちのために飲んでくれたのだなと思う。

 300ccの漢方を飲みきるのは弱った病人にとってかなり厳しいことだ。
 17日は伯母が病院に行って少しずつ飲ませたそうだが、あまりにもつらそうで、最後に残った数十ccは吸い飲みに移すのをやめようかと思ったらしい。
 しかしその夜、会社の帰りに病室に寄った弟に「あとこれだけだけど飲む?」と聞かれた母は、「じゃあ××ちゃん(弟のこと)のためにママ頑張って飲むわ」と言って一生懸命残りを飲んだのだという。
 そのとき、母は「皆がこんなに一生懸命やってくれるんだから、これからは私『もうだめだ』とか言わないことにするわね」とも言ったらしい。
 母はこの時点ですでに覚悟を決めていたのかもしれない。
 覚悟を決めつつ、家族の望みをつなぐために頑張る姿をみせてくれたのだと思う。

 翌18日、病院に行った私がスタッフの人にいろいろこまごまとしたお願いごとや指示を出していたところ、横で見ていた母がポツッと「急に大人になったね」と言い出した。
 「なに言ってんの。いったい私のこといくつだと思ってんのよ」と言うと「じゃあもう私がいなくても大丈夫ね」と言う。
 私が我慢できずに泣いてしまったのはこのタイミングだった。
 そのとき、母は泣きながら(といってももう泣く力も残っていないのだが)かぼそい声で「小春ちゃん、やっぱりママ死ねないよ…」と繰り返した。
 やっぱり死ねない…。
 ということは、やっぱり母は「自分はもうだめだ」と思っていたのだ。

 翌19日、緩和ケア病棟の先生方から「今後どうしてほしいという希望はありますか?」と聞かれた母は「私がどういう状態にあるのか、詳しいことは娘には話さないでください」と言ったらしい。
 母を失う私のダメージを、誰よりもよく知っていたのは母自身だったのだろう。

 今でも「やっぱり死ねないよ」という母の悲痛な声が耳について離れない。
 葬儀後、お手紙をくださる皆さんは、どの方も「お元気な頃のお母様の声や姿ばかりが浮かんでくる」と言うが、私は逆に弱って動けなくなっていく母の姿ばかりが思い出され、元気な姿が浮かばなくなっている。
 そのことがたまらなくつらい。

 「短い間でも介護できただけいいじゃない」
 そう言われることが多く、それは本当にそうだと思うのだが、弱っていく姿をつぶさに見なければならなかった苦しみはまたまったく別のものだ。
 どんなに「今は苦しみから解放されておだやかな幸せに包まれている」「天国で花に包まれて笑っている」と言われても、私にとって一番リアルな母の映像が「弱った姿」であることは動かせない。
 いったいいつになったら苦しむ姿が元気な姿に置き換わるのだろうか。

 家族を亡くした人の話を聞くと、一様に「ある日、自分のすぐそばにいることがたしかに実感できるようになる。そのときが本当の意味で立ち直れたとき」「時間がたてばたつほど近くにいると感じられるようになる」と言うのだが、私はその境地に達するまで何年かかるんだろうか。
 そのときは私が生きているうちにくるんだろうか…。

 家の中には、母が生きていた痕跡が無数にあって、いやでも毎日それと向き合うことになる。
 そのひとつひとつがスイッチとなって、一日に何回も私の身体から涙を絞り出す。
 先日も、母のメールボックスを整理していて、胸を突かれる文面に出会った。

 それは5年前に書かれたメールだった。
 ちょうどその頃、母は祖母を見送ったのだ。
 交通事故に遭ってから3年半の入院の末、祖母は亡くなったのだが、その直前に母は友人にこう綴っている。
 「母(祖母のこと)がまた危篤状態から持ち直してくれた。母の生命力に感動している。と同時に、母はこうやって何度も持ち直すことによって、私たちに少しずつ死を受け入れるための心の準備をする時間を与えてくれ、きたるべき悲しみをやわらげてくれているのだと思った」

 私にとっても、ずっとそばにいた祖母の死はとても悲しかったが、祖母と母はやはりまったく違う。
 当たり前のことだが、母もまた祖母の死にあたって、今の私と少なからず同じ思いを味わったのだ。
 隣で同じ死に立ち会いながら、私は「母を失う娘の痛み」を知らずにここまできた。
 母はそれを知っているからこそ、私の痛みもわかったのだと思う。
 わかっているなら、もう少し準備期間を与えてくれたっていいのに…と恨み言を言いたくなってしまうが…。

 母を失った気持ち。
 同じ経験をした人はいろいろな言葉でその気持ちを表現する。
 私にとっては「心の羅針盤を失ったような状態」だ。
 朝起きてから夜寝るまで、昨日までと同じように慣れた行動をしているはずなのに、なぜかなにをしても心もとない。
 明るい道でも足下がおぼつかない。
 平衡感覚がおかしくて、本当に正しい方向に向かって歩いているのか自信がなくなる。
 心の底から「安心」できる状態が得られない。
 セイフティネットが一瞬にして消えてしまったような感じだ。

 正直、これから先、この身体で生きていくことには大きな「不安と恐怖」がある。
 母がいたからこそ、かろうじてそれを緩和することができたのだが、今はダイレクトにそれが襲ってくるようになった。
 母が最後まで私の身体を心配していたことは痛いほどよくわかるので、「しっかり生きていかなきゃ」とは思うのだが、一方でその重荷につぶされそうになる。

 まだまだ立ち直るには時間がかかりそうだ。

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 母を見送った。
 11月27日金曜日に通夜式を、翌28日土曜日に告別式を、母が通っていた教会で行った。
 いずれも本当に大勢の方々が集まってくださって、感謝の気持ちでいっぱいだった。
 母を大切に思ってくださった方々は、私たち家族のことも大切に思ってくださる。
 その気持ちの温かさが土に水がしみわたっていくように伝わってきた。

 25日の朝に自宅に戻ってきた母は、27日に納棺されるまでの2日半の間、大好きだった家で過ごした。
 両親と私の3人でエネルギッシュに注文をたくさんつけて建て替えた新しい家には、結局2年しか住むことができなかったが、いつもは何につけても、迷ったり取り替えたり後悔したりすることが多い母が、この家に関しては「ああすればよかったと思うことはひとつもない」と言い切っていた。そのくらい満足していた自慢の家だった。

 特に、新しい家に引っ越して最初の秋は、家から見える公園の紅葉があまりにもすばらしくて、何度も「すごいわね」「きれいね」と繰り返し、周囲の人にも「遊びにくるなら紅葉の時期に来てね」と言ってまわっていた。
 くしくも今、家から見える紅葉は真っ盛りで、心が洗われるほど美しい。
 きっとこれから先、紅葉を見るたびにたまらない気持ちになりそうだ。

 母が家に戻ってきた日は、昼なのか、夜なのか、時間の感覚もよくわからなくなるほど重い疲れが吹き出てきて、ほとんどベッドから起き上がれない状態だった。
 弔問客や葬儀屋との打ち合わせは父と弟に任せ、ひたすら横になっていたが、ウトウトと眠ろうとすると悲しみが身体の底から間欠泉のようにわき上がってきて、頭が覚醒してしまう。
 その繰り返しで、どんなに疲れていても眠ることができなかった。

 ただ、親戚がずっとそばにいてくれて、食事の準備や荷物の片付けや話し相手などをつとめてくれていたので、その点はとても心強かったし、救われた。
 普段は滅多に会うことがなくても、こういうときにはやはりありがたい存在だと思う。

 その日は、とにかく通夜式と告別式の時間と場所をまわりに一刻も早く知らせなければ…という仕事が最優先で、それだけで1日が終わった。

 翌日、ようやく少し落ち着きを取り戻し、従姉妹と一緒に母のお化粧直しをした。
 特に眉のカットには気合いを入れた。
 できるだけきれいに見せたいと思い、精一杯頑張った。

 夕食後は、昔のアルバムを引っ張りだし、母の横で、弟と2人で母の若い頃の写真をセレクトし、通夜ぶるまいの席で皆さんに見ていただくための母の写真集を作った。
 散逸した写真を集めるのは予想以上に大変だったが、思い出を語り合いながら写真を選ぶ作業は楽しく、自分たちの子供の頃の写真にも心がなごんだ。
 小さい頃は(というかつい最近まで)、家族と一緒に撮る写真にそれほど意味があるとは思っていなかったが、今になってみると、どれもこれも宝石のように輝いて見える。
 一緒にいられた時間がどんなに貴重で愛しいものだったのか、あらためて思い知らされて愕然とした。
 母はどれも完璧な笑顔で写っているのに、横に並ぶ私の顔は98%くらいが残念な顔で、われながら情けなかった。

 驚くことは翌日の朝起こった。
 夕方にお化粧したときにはたしかにそんなものはなかったのだが、翌朝起きたら母の左目(目尻のあたり)から涙が出ていたのだ。
 親戚も全員それを目撃して息をのんだ。
 あとで看護師の親戚に聞いたところ、「延命治療をされて苦しんだ人には絶対に起きない現象。安らかに亡くなった人でないとそういうことは起きない。なおかつ起きる頻度は非常に少ない」と言われた。

 「たまに起こる生理的な現象」と言えばそれまでだが、それでも同じ条件の人に同じように起こる現象というわけではないのだから、遺族としてはそこに「意思」を感じずにはいられない。
 きっと母は、弟とアルバムを作ったことを喜んでくれたのだ。
 そう信じたい。

 1時になって、葬儀屋が納棺に現れた。
 家を建てるときに、母は「ここの寝室からだと棺が出入り口を通れない」ということを妙に心配していて、設計士は「そんなこといちいち心配する人はいないですよ」と笑いとばしていたのだが、その心配は2年で現実になってしまった。
 たしかに寝室から棺は出せなかった。
 棺は玄関ホールに設置され、遺体はそのまま玄関まで運ばれることになった。

 棺には、母の好きだった服とロザリオ、楽譜、眼鏡、皆さんからいただいたお手紙やカード、結婚記念日の写真と若い頃の演奏会写真、それに家の中や家から見える紅葉の写真と、新居の模型を入れた。

 この日の6時に通夜式が、その翌日の1時半に葬儀ミサと告別式が行われた。
 葬儀に対し、私たち家族が希望したことは3つある。
 一つ目は、最後に撮った結婚記念日の家族写真と、若い頃の演奏会の写真を献花台に飾ってもらうこと。
 二つ目は、献花の際に、50年前、芸大の校内演奏会で本人の歌った曲を流すこと。
 三つ目は、献花の前に、母が父と一緒に作った女声合唱団に歌ってもらうこと。

 結婚記念日の写真については、すでにこのブログでも書いたが、献花の前に行う遺族挨拶で、父がそのときのエピソードを紹介した。
 女声合唱団については、来年の4月に10周年記念リサイタルを開くことになっているのだが、そのときに披露する予定の一曲(レーガーの「マリアの子守唄」)を演奏した。
 この演奏会を見ることができなかったのは、母にとって大きな心残りのひとつだろう。

 なお、献花のときに流したシューマンの「女の愛と生涯」は、たまたま50年前の音源が残っていたため、CDにおとして持ってきたものだが(本人が一番輝いていた思い出の演奏だと思うので)、父が挨拶の中でこの詩の意味を説明した。
 「女の愛と生涯」は、全部で8曲の短い歌から成るが、最初の7曲では、「運命の男性に出会い、恋に落ち、求愛され、幸せの絶頂で子供を授かる」という喜びが綴られる。
 そして8曲目で1曲目と同じ節に戻り、「あなたは今、初めて私に苦痛を与える」という伴侶の死を嘆く悲痛な叫びが歌われるのだそうだ。
 説明しながら、「立場は逆だけど、この曲を聴くのは本当はとてもつらい」と言って父は泣いた。

 葬儀は無事に終わり、一人欠けた家族が残された。
 この5日間、周囲の人たちの配慮によって、笑うことも、幸せを感じることもできた。
 と同時に、まるでセットになっているかのように、悲しみと空虚感がジェットコースターのごとく襲ってきて、感情の起伏が常に不安定に動き続けていた。

 ただ、家族が今までにないほど素直な気持ちを表に出すことができたのは、母のお陰だと思った。
 それは常に後悔と隣り合わせだし、母が元気でいたら出せなかったものではあるが、そうやって人は必ずあとに残る人に大きな「何か」を残していくのだろう。

 叔母に「『こうすればよかった』と思ってはダメ。こじつけでもいいから『こうだったのはよかったね』と“よかったこと捜し”をしなさいね」と言われた。
 たしかに「後悔して自分を責める」ほうが、じつはずっと簡単なのかもしれない。
 “よかったこと捜し”……してみようと思う。

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 11月25日水曜日未明。
 3時20分に家の電話が鳴った。
 母の呼吸が荒くなってきたという。
 急いで支度して、親戚や神父様にも連絡して、タクシーで病院に駆けつけた。

 日曜日に記念写真を撮って以来、母は大きな仕事をやりとげたかのようにぐったりと眠り続けた。
 伯母夫婦が行った月曜日は、ほとんど反応がなかったものの、数口ゼリーや温泉卵を口に運んだという。
 父が行った火曜日は、もはや激しい寝返りも打たなくなって、何回か薄目を開けた程度で、あとはすやすやと眠り続けていたという。
 父いわく、「黄疸が出ているように感じたので、もうあまり時間は残されていないかもしれない」と思ったそうだが、それでも前のようにつらそうな様子ではなかったのでその点では安堵したとのこと。

 病院に到着したとたん、母の呼吸はほとんど途絶えた。
 「きっとご家族を待っていたんですね」と看護師さん。
 「でも心臓はまだ動いていらっしゃいます。話しかけてあげてください。耳は最後まで聴こえていらっしゃいますよ」
 緩和病棟での最後は、無理な延命治療(心臓マッサージなど)をいっさいしないことになっているので、無数のチューブやモニタで「死」を管理されることもなく、「身体ひとつ」で「死」を受け入れることになる。
 
 「死」はおだやかに、緩やかにやってきた。
 機械が判定するデジタル的な最後ではない。
 まずは呼吸がとまり、それから心臓が止まる。
 その間、今まで介護してきた家族や親しい親戚がそれを静かに見守り、手を握りながら名前を呼びかけ、「よく頑張ったね」「今はもうつらくないよね」「ありがとう」と精一杯話しかけ続ける。
 看護師も医師もそれを邪魔することはしない。
 ベッドの傍らで、母が喜んでいた、50年前に歌った曲「女の愛と生涯」を流し続けた。

 ほどなく神父様が到着して、終油の秘跡(お祈り)を行ってくださる。
 それを終えたあとに、医師が死亡確認を行った。
 午前5時25分、母は神様の元へ旅立った。
 本当に安らかな最後だった。

 じつは前日、私は鍼治療に行ったあと、知人から紹介された気功師のもとを訪ねていた。
 そこでのがん治療の基本は漢方薬だったが、母はもはや漢方を飲める状態ではない。
 その気功師は、自分の「気」を布に込めることができるので、その布(ほくろ大の小さなもの)を気が停滞している場所に貼ることで、生体エネルギーを動かすという方法を用いてたくさんの人を癒しているらしい。
 せめて布を貼るくらいならできるかもしれない。
 そう思って訪ねたのだ。

 本人が来られない場合、診断は写真からのエネルギーによってされるのだが、日曜日に撮った母の写真(記念写真ではなく、ぐったりと横たわった本来の姿)を持っていったところ、一目で「これはもう生きるエネルギーがほとんど残っていない厳しい状態だ」と宣告された。
 それは私から見ても充分わかっていたが、あらためて言われるとやはりショックだった。
 布をもらって、「今すぐに貼りなさい」と言われたけれど、そこから病院まで行く気力はもはや私にはなかった。
 気持ちは焦っている。
 海の底に沈んだ船室の中で、水が徐々に天井までのぼっていくような焦りと恐怖。
 今すぐにでも貼りにいきたい。
 でももう身体が動かなかった。
 帰りのタクシーの中で運転手から話しかけられる言葉に答える気力すらなかった。

 今日は早くに寝て、明日の朝貼りに行こう。
 そう思って床についたら、夜が明ける前に母は逝ってしまった。
 「来なくていいのよ。あなた、もう限界でしょう」と言われている気がした。

 病院にかけつけたときにはまだ暗く、しとしとと雨が降り続いていたが、母が息をひきとってしばらくすると、雨がやみ、朝日が差し込んで来た。
 病院のボランティアの人が窓辺に生けてくれた野の花が光にはえてきれいだった。

 早朝だったが、緩和病棟の担当医師や看護師、一条先生ご夫妻(仮名)が次々にお別れにきてくださった。
 私には感謝の言葉しかなかった。
 今まで病院に対しては「悔しさ」と「憤り」ばかりを感じてきたが、最後に心から感謝できる病院に出会えてよかった。
 それだけは母に対して親孝行ができたと思う。

 母は、母であるだけではなく、今まで長く苦しい「病気」や「病院」との戦いを一緒に戦い抜いて来た「同志」だった。
 壮絶な日々だっただけに、喜びも苦しみも色濃く、濃厚に分かち合ってきた。
 この年になるまで、母とこんな日々を共有できたことはとても幸せだったと思う。

 いつもこのブログにいらしてくださる皆さん、メールをくださった皆さんも、母への思いを共有してくださったことを本当に感謝します。

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 11月23日。
 昨日は父と弟と私、3人で病院へ行った。
 普段は、なるべく分散して行くようにシフトを組むので、3人揃って行けることはまずないのだが、この日だけは絶対に3人で行こうとみんなで決めていた。
 この日は両親の49回目の結婚記念日だった。
 
 来年が金婚式なので、来年は家族で海外旅行にでも行きたいねと言っていたのだが、転移がわかって無理そうだと思ったのか、せめて写真館に行って家族4人で記念写真を撮りたいと母が言うので、そのくらいはできるだろうと思っていた。
 ところが、あっという間に病状が悪化してしまい、とてもそれどころではなくなってしまったので、せめて日曜日には家族全員で集まってお祝いをしないかと弟が言ってきたのだ。

 お祝いといっても食べ物は食べられないし、匂いの気にならないお花と、昔の写真、50年ほど前に母が音大の校内演奏で歌ったドイツリート、指導している女声コーラスの演奏会の合唱などを持って行った。

 この数日、ウトウトしていたり、意識が混濁していることが多くて、3人でお祝いしていることがはたしてどのくらいはっきりわかるのかどうかが心配だったが、12時半頃訪ねたら、そのときはたまたま意識がはっきりしていて、3人の顔を見るなり「どうして来たのよ」とメソメソ泣き出した。

 そして次の瞬間、言った言葉が「写真」だった。
 もちろん、カメラは用意してきたが、人の手を借りて起き上がるのも大変な状態なので、正直写真を撮るなんて無理じゃないかと思っていた。
 しかし、母はよっぽど家族写真が撮りたかったのだろう。
 執念で起き上がり、笑顔を作った。

 4人一緒の写真は看護師さんが撮ってくれたのだが、そのあとまた寝かそうとしたら「看護師さんとも一緒に撮りたい」というので驚いた(そこまではっきりしゃべれないが、伝えようとしていることはわかる)。
 あまり長く起きていることができないため、あわてて出ていった看護師さんに再集合してもらい、もう一度記念撮影をする。

 これでもう満足だろうと思ってベッドを横にしたら、なぜか不満そうな表情でなにかを訴えている。
 どうやら、写真を撮る前に「いきますよ」という合図がなかったため、笑顔を作るタイミングが本人的に不満だったらしい。
 もう一度とせがまれたが、さすがにもう起き上がるのは無理だと思ったので、私が寝たままの状態の母の顔の隣に顔を出して、ツーショット写真をとった。

 写真撮影で力を使い果たしたのか、その後はずっとつらそうに寝ていたが、音楽を流したらわずかながら気持ちよさそうな表情になった。
 母のお気に入りは、女声合唱曲「麦藁帽子」。
 私も大好きな曲で、演奏会でも何回か演奏されている。
 過去に演奏された「麦藁帽子」を流したら、その間は目を閉じながらも曲にじっと聞き入っているように見えた。
 さらに、50年前の自分の演奏が流れてきたとたん、あきらかに反応して目を見開き「これは…」と嬉しそうな顔になり、「22歳のときのね…」とちょっと自慢げになった。

 相変わらず、病状に楽観的な兆しは見られないが、この日は3人で行けて本当によかった。
 かなり疲れさせて興奮させたかもしれないけど、喜ばせることはできたと思う。

 帰ってから写真を焼いてみたが、あれだけ憔悴し、衰弱した人とは思えない笑顔が写っていて、「人間の力って底知れないものがあるんだな」と感動した。
 どんな写真館に行ってもこれ以上の写真は撮れないだろうと思う。

 母は写真を写されるのがとにかく大好きで、というか得意で、どんなときでも芸能人のように華やいだ笑顔をぱっと作り出すことができて、「形状記憶笑顔」と言われていた。
 それに比べて、私は写真が大嫌いで、どんなときでも何度撮ってもろくな顔で撮れていなかったので、いつも母に「なんでそんなに下手なの」とダメ出しをされていた。
 でも、今度は自分でも良い顔で母の隣に並ぶことができたと思う。
 及第点がもらえたら嬉しいのだが…。

 結婚記念日のことは、金曜日に八嶋先生(仮名)と夫一条先生(仮名)にちらっと話したのだが、なぜかナースにもちゃんと伝わっていて、寄せ書きのカードが用意されていた。
 記念写真も、看護師さんのカメラでも撮ってくれて、帰る時間までにわざわざ写真屋さんで焼いてきてくれた。
 本当にここのスタッフはすごい。
 頭が下がる。

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 11月21日。
 昨日、初めて緩和ケア病棟に行った。
 鍼に行ってからだと到着は3時半にはなってしまうので、待っている母のことを思うと電車の中でも気がせいたが、この日の母はほとんどウトウトしている状態で、いろいろ話しかけてもかすかに頷いたりするだけで、会話をかわすことができなかった。
 時折、ふっと目を見開くのだが、時間や場所の感覚が混乱しているようで、わけのわからないことを口走ったりする。
 夕べの睡眠剤が残っているせいもあるかもしれないが(肝臓で解毒できないのでどうしてもたまってしまう)、肝機能障害で意識の混濁が起こっているのだろうと先生に言われた。

 ただ、看護師さんとか、家族以外の人に話しかけられたときにはわりとはっきり返事をしたりするので、他人と身内ではスイッチを切り替えている部分もあるのかもしれない。
 他の人から「こういうふうに言ってましたよ」とかいう話を聞くと、「私のときはそんな気のきいたこと言ってくれなかった」と悔しい気持ちになる。
 まあ、家族がいるときには安心しているんだと思うことにしよう。

 嚥下機能も衰えていて、水分を飲み込むのがとても大変そうなので、この日から漢方はとろみをつけてスプーンで口に入れることにした(漢方の先生に確認したらそれでもOKだというので)。
 実際、もうほとんど飲むことはできないのだが、これは本人の支えなので、希望があるときにはいつでも飲ませられるようにしておきたい(とはいっても、さすがに薬なので、担当医の許可があるとはいえ、スタッフに飲ませてもらうわけにはいかないのがつらいところ)。

 母は、身の置き所がないのか、常に身体を動かしているが、寝返りを打つ力も弱くて時々耐えられずに声をあげている。
 つらい。どうしたら楽なのかがわからなくて、つらくて自分が石になってしまいそうだ。
 でも時々はスヤスヤ寝入っている瞬間もあり、そのときだけは「今は楽なんだな」と思ってちょっとだけホッとする。

 緩和ケア病棟のスタッフはさすがにとてもよくできた方々ばかりで、雰囲気が全然違う。
 一般病棟は「治療をする場所」という緊張感が漂っているが、緩和ケア病棟はもっとのんびりした雰囲気で、スタッフの人たちに余裕が感じられる。
 それに患者にはもちろんのこと、家族にもさりげなく気を配ってくれるのが感じられて救われる(最初に緩和ケア病棟の先生に会ったとき、「あなたは眠れていますか?」と聞かれてちょっと驚いた)。
 そのときは、母がもうろうとしながら「子供の緩和ケアはないの?」と言っていて、何を言っているんだろうと思ったが、きっと私のことがずっと気になっているんだと思う。

 母とあまり話ができなかったので、この日はスタッフの人たちといろいろ話をした。
 うとうとしていても、まわりで会話している声がぼんやり聞こえてくるだけでも安心できるかなと思って。
 この日の昼の担当看護師は男性だったが、いきなり「娘さんも劇作家なんですか?」と聞かれた。
 「え? 『も』ってどういうことですか?」
 「え? だってお母さんも劇作家なんでしょ? 4月に公演があるって言ってましたよ」
 「違います。劇作家は私で、母は音楽の先生。4月にあるのは私の公演じゃなくて母が指導しているコーラスの演奏会です」
 どうも主語がはっきりしなくてとりとめなくしゃべるので、全部の情報がシャッフルされて伝わっているらしい。

 音楽療法士の方には、母がやってきた音楽活動についていろいろ話をして、CDプレーヤーを貸してもらった。
 とりあえず、教会音楽のようなものがいいかなと思って、賛美歌を小さな音量で流してみた。
 いずれ、指導しているコーラスの合唱曲なども流してあげようと思う。

 目や口の機能は使うのも疲れるだろうが、鼻と耳は比較的受け入れられるのではないかと思い、音楽を流すことと、アロマセラピーはぜひとりいれたいと思った。
 特に、アロマは医療行為に使われることもあるくらいなので、つらさを緩和できる効果もかなりあるのではないかと考えている。
 ただ、健康な人間なら「これ、いい匂い」で済むが、病人なので、やはり専門家に相談してから選んだほうがいいだろう。
 緩和ケア病棟には、アロマセラピーの専門家が毎週1回ボランティアでまわってくるというので、そのときに相談してみるつもりだ。

 あとは、キリスト教関係の話をできるチャプレン(牧師)も紹介してもらった。
 毎週日曜の朝にはお祈りをしに病室をまわってきてくれるそうだ。

 最後に、緩和ケア病棟の担当の先生にも挨拶をした。
 今晩から「意識の混濁」がとれる薬を使っていくつもりだと言われた。
 これで少しでも効果が出るといいのだが…。
 
 でも緩和ケア病棟に移れて本当によかった。
 無理にでも聖路加に連れてきてよかった。
 この日はあらためてそう思った。

 今日は会社が休みになる弟に行ってもらっているが、その間に少しでもゆっくり休もうと思い、昼間も軽く安定剤を飲んで無理やり寝た。
 食欲も全然ないが、回数分けて少しずつ口に入れるようにしている。

 まわりがバタバタ風邪で倒れていくため、面会に行くシフトがどんどんタイトになっている。
 私も風邪だけはひけないので、まず寝ること、食べられるだけ食べること、身体を冷やすものは避けること、週2の鍼だけはなにをおいても通うことは死守し、あとは十全大補湯とマヌカハネーで持ちこたえている。

 ここに記録を書くことだけは気持ちの支えになっているので続けたい。
 

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 11月20日。
 昨日の午後、母が緩和ケア病棟に移った。
 ベッドがかたいのと、布団が重いのと、タオルケットの生地が悪くて足にまとわりつくのと、枕が高すぎるのが気になったので、この日は父に家で使っているものを持っていってもらった。
 マットレスは持っていけないが、マットレスの上に敷く事で寝たきりの人が楽になるという専用の敷きパッドを持っていった。
 私も手があがらなくて寝返りがうちにくいので、このパッドにはとても助けられている。
 でもせっかく持っていったのに、今度のベッドはウォーターベッドになっていて、看護師さんには「こっちのほうが快適ですよ」と言われてしまったらしい。
 ウォーターベッドにこのパッドってわけにはいかないのかなあと思ってさっそく敷きパッドのメーカーに電話で聞いてみたが、ウォーターベッドを使うなら単独のほうがいいという。
 体圧分散効果という点では両方とも効果があるが、敷きパッドには遠赤外線効果があって冷えた身体が温まる効果もある。
 高いけど同じメーカーのブランケットだけ買ってみようかな。

 この日、私は家で一日休むことにしていたのだが、とても休める心境ではなかった。
 安定剤を飲んで寝たが、6時間で目がさめてしまい、そのあとも寝ようと思うといろいろ考えてしまうし、家の中は荒れ放題だけど何もする気がしないし、食べようと思っても胸がムカムカするし、一人でいるのがつらくて親戚に電話をかけてはまた泣き続けた。
 夕方、横浜の叔母が心配して鯵寿司を持って訪ねてきてくれたので、帰ってきた父と3人で食べた。とてもありがたかった。
 私の身体が思うように動かないため、父に負担がかかっているのが申し訳ない。

 この日の母は、とてもよく寝られたようだった。
 昼間もかなりうとうとしているようだったが、そのせいで口にものを入れることができないでいる。
 でも寝られるならいい。
 具合が悪いのに寝られないつらさは想像を絶するから、寝られるときには余計なことを気にせずに思いっきり寝てほしい。

 ただ、母は自分ではちゃんと漢方を毎日すべて飲みきっていると思ってて、眠れたのも漢方のお陰だと思い込んでいるようだった。
 緩和ケアの先生方に「西洋医学なんてだめだ。私の友達も末期から漢方で生還した。私も漢方で奇跡を起こすんだ」と話していたという。
 困った父があとから先生方のあとを追って「すいません。実際はほとんど飲めてないんで、点滴で眠れてるんだと思うんですけど、本人は漢方のお陰だと思い込んでいるようで」と弁解しに行ったら、先生は笑って「いいんですよ。いいじゃないですか。漢方のお陰と思うならそれはそれでいいんですよ」と言ってくれた。
 さすがに緩和病棟の先生は漢方にもかなり理解を示してくれている。

 今日はこれから鍼に行ってから病院に行くつもりだ。
 

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 今までずっと出来事のあった日時に設定して更新してきたが、今日は1ヶ月分をとばしてリアルタイムでアップすることにする。

 この1ヶ月。
 母のがんは信じられないほどの勢いで増殖を続けた。
 まず、初めて聖路加の担当医(腫瘍内科)の診察を家族で受けにいったのが10月19日のこと。
 このときは、母もかなりだるかったり食欲がなかったりしていたが、まだ電車で築地まで行くことはできた。

 初めて会った夫一条先生(仮名・ご夫妻になるのでこれからはこう呼ぶ)はとても真摯に対処してくださり、前日にも自宅にまでわざわざ挨拶の電話をかけてきてくれた。
 夫一条先生にはまず肝生検を勧められた。
 というのも、上昇している腫瘍マーカーをみると、乳がんではなく、大腸がんからの転移という可能性もあるというのだ。
 大腸がんなんてなった覚えはないので、寝耳に水だったのだが、大腸がんは自覚症状のないまま肝臓に転移することが珍しくないので、可能性はあるという。
 一方、乳がんがいきなり肝臓だけに転移するのはかなり珍しく、そういう意味でも疑いをもっているらしい。
 たしかに乳腺科の医者だと乳がんのことばかり考えてしまうが、腫瘍内科はすべてのがんを網羅しているので、そういうところは多角的に考えるのだろう。
 もし大腸がんだったら、まったくお門違いの薬を使ってしまう危険もある。
 肝生検をやるなら治療前しかないという。

 しかし、肝生検は決して軽い検査ではない。
 検査じたいはポピュラーではあるが、生検が及ぼす影響は小さくはない(たとえ生検じたいが簡単に終わるものであったとしても)。
 少なくとも鍼灸の四ッ谷先生は「肝生検は危険だからやめたほうがいい」という意見だったので、本当の事を言えば私はやってほしくなかった。
 8割がた乳がんなら、もう乳がんの治療でいいじゃんという気持ちだった。
 でも、先生が気になるという以上、そのときは「やる」という選択しかないため、結局やることになった。

 どうやらMRIの検査所見には「大腸がんの可能性もあり」と書かれていたらしいのだが、L病院の三井先生(仮名)はそれについてはなにも触れていなかった。
 もしかしたら所見もろくに見ないで最初から「乳がん」だと決めていたのか、あるいは見たけど「こんなのどうせ乳がんに決まってるよ」と決めつけて問題にせず、患者には話さなかったのか、それはわからない。
 しかしもしそうだとしても、「検査所見には『大腸がんの可能性も』と書かれていたけど、自分はこういう理由で乳がんだと診断した」ということを患者に説明するか、せめて聖路加への紹介状にそう書くべきではなかったのか。
 いきなり大腸がんと言われ、また悩みが増えた事で母は相当動揺していた。
 その他、検査資料も全部揃ってなくてあとからもう一度とりにいかなければならなかったりなど、相変わらずなにもかもが杜撰なL病院だった。

 肝生検は局麻でできる検査だが、検査後の安静が必要なので、入院が必要になる。
 夫一条先生は19日に即日入院を予定していたようだが、生検を行う放射線科医がその日都合が悪かったため、22日に入院して行うことになった。
 これまた、激込みのL病院は、(緊急時を除いて)前日になるまで入院できるかどうかわからないというシステムなので、前もって入院日がわかることにびっくりした(友達にきいたら「前もってわかるのが普通だよ」と逆にびっくりされたが)。

 生検は22日に無事終了した。
 翌日には帰ってもいいことになっていたが、本人が一日も早く治療を始めたいということだったので、生検の結果を待たずにハーセプチン(分子標的薬)の治療を、入院ついでに生検の翌日から始めることになった。
 見切り発車の形になるが、大方の予想は乳がんなので、始めるなら早いほうがいいという判断だった。

 ハーセプチンは、抗がん剤のように正常細胞も一緒に攻撃するものではないので、一般に副作用は軽いとされている。
 3人に1人は悪寒と発熱が出るが、それもたいがいはその日だけで、2回目以降は出ないという話だった。
 しかし、母は初回から38.5度以上の高熱を丸2日間出して、結局5日間入院することになった。
 私の周囲にもハーセプチンを打っている人はいるが、だいたいが予防的投与で、いわば元気になった状態で打つ人が多いためか、それほどひどい副作用が出るという話は聞いたことはない。
 やはり母の場合は身体が弱っているからきついのだろうか。

 退院してから4日目の10月30日。
 2回目のハーセプチン治療を受けるため、病院に行った(ハーセプチン投与は週1回)。
 このときはもう車の送迎でないと通える状態ではなかった。
 熱が下がっても具合がよくなるわけではなく、食事のとき以外はずっと横になっていた。
 その食事にしても、朝と昼に少々、夜はまったく受け付けないという感じだった。

 2回目はもう薬に慣れて副作用も出ないのでは?と期待したが、やはり38度の熱が出た。
 なんだか治療を受けるたびに弱っていくように見える。
 2回目の治療時に生検の結果が出て、やはり乳がんであることが判明。
 まれに、転移するうちに最初のがんのタイプと性質が変わってしまうことがあるらしいが、HER2は相変わらず強陽性だったので、ハーセプチンはよく効くだろうと言われた。
 できれば抗がん剤を組み合わせたほうが効きがいいとのことだったが、体力的に副作用に耐えられるかどうか微妙だったので、まずはハーセプチン単剤で様子をみることにした。

 しかし、体調はどんどん悪化。
 眠ることにかけてはまったく苦労知らずだった母がついに眠れなくてつらいと言い出した。
 安定剤を飲んでみたら?と言ってみたが、入院中に眠れなくて、お守りのように持っていた安定剤を飲もうとしたら、病棟の先生に「肝臓に負担がかかるから勝手に飲まないでください」と怒られたことがあったようで、それ以来飲むことに恐怖があるようだ。
 代わりにもらった安定剤もあまり身体に合わないようで、飲みたがらない。
 そうこうするうちに3回目の治療日(11月6日)になったが、その前日に一睡もできなかったため、とても治療どころではない状態になってしまった。

 治療は10時半からだが、病院に電話してなんとか開始時間を延ばしてもらい、治療前に先生に診察の時間をとってもらうことにした。
 夫一条先生は、思った以上に衰弱している様子に困惑し、これでは通院は無理だから入院したほうがいいのではないかと言ったが、母は「病院はもっと眠れなくなるからいやだ」と拒否。
 それよりも母はなんとか治療と併用して漢方にトライしたいという意欲をみせていた。

 もちろん、鍼も週1のペースで車で通ってはいたが、それも体力的に厳しくなってきている。
 鍼は向こうまで出向かなくてはならないが、漢方ならば自分でも煎じて飲むことができる。
 だから私もなんとか漢方で薬をもらえないかとあちこち探しまわっていたのだが、西洋医学の病院と違って、どこでも均一の治療をしてくれるわけではないので(また、誰にでも合うわけではないので)、どこかひとつを探すのはとても難しい。
 知人で「末期でなにも食べられなかったけど、漢方で奇跡的に元気になり、ずっとがんと共存している」という人は何人もいるので、そういう人にも聞いてみたのだが、だいたい東洋医学専門医なので、西洋医学の病院と連携してやっていくのは難しいように思えた。
 そこで探したのが東銀座にあるクリニック。
 ここは元外科医がやっている漢方クリニックで、がん治療を専門に行っているらしい。病理医の経験もあり、ツムラの研究所にもいたとあるから、両方に詳しいかもしれない。
 そう思って11月16日に予約を入れた。
 
 しかし、その日を待たずに母は結局再入院してしまった。
 夫一条先生は、11月10日から14日までアメリカ出張で不在になるため、4回目の治療時には立ち会えなくなる。
 だから入院しないでいることがとても心配だったようだが、私もそれは同様で、少なくとも4回目のハーセプチン治療の前日には入院したほうがいいと母を説得した。
 次回のハーセプチン投与日は、米大統領の来日とぶつかっていたので道が混むのではないかと気になっていたのだ。
 前の日に入院してもらえればこっちも安心だった。

 3回目のハーセプチン治療後は、もうメールを打つ気力もなくなっていたので、もっぱら私が代筆して送っていたのだが(一条夫妻はL病院と違って、電話にもすぐに出てきてくれるし、メールにもすぐ返信してくれるので、とても安心だった)、11月10日の夕方、状況をメールし、入院させてほしいと妻一条先生にメールで頼んだところ、即夫一条先生に連絡がいって、空港へ向かうバスの中から電話がかかってきた。
 自分はいないので、妻一条先生が持っているベッド枠を使って入院してくれとのことだった。

 11月12日、母はブレストセンターの外科病棟に入院した。
 しかし、状況は思った以上に厳しく、入院当日にとったCTでは、がん細胞はさらに増殖し、もうほとんど正常に機能している肝臓はないということだった。
 普通、乳がんは進行が遅いと言われている。
 転移してもHER2陽性ならハーセプチンでかなり進行を抑えられるともきいている。
 が、ハーセプチンはとても効いているとは思えず(効いていたとしてもおそらく進行のスピードのほうがそれを上回っていたのだろう)、どの科の先生方も「こんなに進行の早い乳がんは見たことがない」と愕然としていた。

 結局、13日に行うはずだった4回目のハーセプチン治療は中止になった。
 14日の夕方、空港からかけつけた夫一条先生は、「抗がん剤をやるなら今がギリギリ最後のチャンス」だと言ったが、母も私も、今は漢方に賭けたいという気持ちが強かった。
 漢方で一気にがんが消えるとは思っていないが、少なくとも肝臓に負担をかけずに状況を少しでも改善することが第一の選択だと思った。
 一条夫妻も、もはやその選択に反対はしなかった。

 11月16日、母の代わりに、父と一緒に漢方クリニックに行った。
 さすがにCTの所見を見て先生も「これはちょっと…せめてもう少し肝臓の機能が残っていれば選択肢もいろいろあるんですが…」とひき気味だった。
 それでも抗がん作用のある2種類の薬草をはじめ、肝臓の保護、食欲の増強、免疫強化などの成分を25種類ほどブレンドした生薬を3日分処方してくれた。
 漢方クリニックといっても、ここは完全に自由診療なので、使用する薬草に制限がないのが特徴だ。
 そこでは煎じ薬をレトルトづめしたパックも売っていたのだが、それだとある程度の量をまとめ買いすることになる。
 正直、吐き気がずっとある今の状態で口から飲むのはかなり難しいと思うので、まずは飲めるかどうかを確認してからでないとまとめ買いは無理だろう。
 まずは3日分。
 なんとか飲めるようにと祈って購入する。

 母の状態はどんどん悪くなっていく。
 もうベッドの上に起き上がることも一人ではできないし、手を動かすこともだるくてできないようだ。
 これまでは夜中に「眠れなくてつらい」と携帯から家に電話があったが、それもなくなった。
 電話をかけることも難しくなったのかもしれない。

 11月17日。
 前日煎じた漢方を病室に持っていく。
 私は病院には行けなかったが、外出している間中、涙がとまらなかった。
 友達の顔を見ては泣き、鍼灸院に行っては泣き、電車に乗っては泣き、しまいには目がパンパンになった。

 今までずっと「転移? 大丈夫だよ、転移したって。方法はいっぱいあるよ。医者の言うことなんていちいち真に受けちゃだめだよ!」などと強気で母をひっぱっていってたが、さすがにここまで進行が早いのを見るともう限界だった。
 ふっと気を抜くと悪い想像ばかりが頭に浮かんでしまい、恐怖で押しつぶされそうになる。

 周囲には「あなたは充分よくやっている。自分の身体のことを一番に考えなきゃダメだよ」と言われるが、もう自分の身体がどうなっているという意識も薄れている。
 ちょっと前まではその通りだと思ってなるべく自分の生活のペースは崩さず、体調管理にも気を配っていたのだが、それがいよいよ決壊してしまったようだ。 
 本当に漢方は飲めたのか?
 1日300ccというのはかなりつらいはずだ。
 もう一口も入らないんじゃないか。
 そう思うといてもたってもいられなかった。

 でも、その日、母は力をふりしぼり、1日かけて漢方をすべて飲みきってくれたらしい。
 その報告を電話できいたときはもう本当に嬉しくて、また泣いた。
 これで一縷の望みがつながったと思った。
 
 11月18日。
 この日は本当につらい日だった。
 母の状態は今まででもっともひどく、見ているほうも胸が引き裂かれる思いだった。
 どうやらこの2日間、どんな薬を使ってもうまく眠れていないらしい。
 健康な人間だって寝なければ消耗する。
 どんなにかつらいだろうと思うが、どうすることもできない。
 どうにかして楽にしてあげたいと、思いつく限りのいろいろな方法を考えて試みてみるがどうにもならない。

 この日は水を飲むのもつらそうで、それなのに、意識もうろうとしながらも私の持ってきた漢方だけは必死に飲もうとしていて、その姿を見たらもうたまらなくなって「もういいから。飲まなくていいよ。充分頑張ったよ。なんにも飲まなくても食べなくてもいいよ。ごめんね、ごめんね」と言いたくなった。
 人が頑張る姿を見るのがこんなにつらいことだったなんて…。

 私は自分がずっと闘病する側だったから、自分のつらさにばかり思いがいっていたが、病気で苦しむ家族を見ている側がこんなにもつらいのかと初めて知り、あらためて自分のそばにいた両親がどんな思いで病院に通っていたのかを思い、うちのめされた。

 母と家族の前では泣かないようにとずっとこらえていたが、この日はついに我慢できずに大泣きしてしまった。
 「病気とか訴訟とか後遺症とか、普通ならしなくてもいい心配ばっかりかけ通しで、気に入らないことばっかりの娘でほんとに情けないよ。これからもっと喜んでもらえることしたかったのに、安心させたかったのにごめんなさい」と。
 それに対し、母は「あなたは自慢の娘。こんなにやってもらって本当に嬉しい。結婚もさせないで、ずっとそばにいてもらってあなたには申し訳なかったけど毎日楽しかったよ」と言った。
 まだなにもやってない。
 こんなのなにもやってるうちに入らないよ。
 もっと介護させてよ。
 「ああ、お陰でちょっと楽になったみたい」っていう言葉をきかせてよ。
 そう言いたかったけど言葉にならなかった。

 この日はこちらの希望で緩和ケア病棟の先生が病室まで話しにきてくれた。
 聖路加はキリスト教系だけあって、緩和ケア治療にかなり力を入れている。
 これはどこの病院でもあるものではない。
 転移と聞いたとき、聖路加に移ろうと思ったのは、この緩和ケアがしっかりしている部分にひかれたというのもひとつの理由だ。

 緩和ケア病棟に入るのは「積極的な治療(延命措置を含めて)をしないこと」が条件になる。その代わりに患者に苦痛を与えないことを最優先させたケアを専門スタッフが行ってくれる。
 積極的な治療をしないと言うと「なんにもしないで放置するということか」「見捨てられるのか」と思われがちだが、緩和ケアも立派な「治療」である。
 母も「緩和ケア」と聞いて「もう終わりなのか」「もう出られないのか」と思って躊躇していたようだが、「それは違う。緩和ケアで体力を取り戻して、また一般病棟に戻って治療を再開する人もいる。先のことはどうなるかわからないんだから考えるのはやめよう。それよりも今のこのつらい状態をなんとか少しでも楽にすることを第一に考えよう。身体が楽になったらまた選択肢も増えてくるんだから」と話したら、承諾してくれた。

 この病棟は外科病棟なので、ナースもバタバタしている。
 緩和ケア病棟のナースは、専門の看護知識もあるだろうから、ここよりは手厚い看護が受けられるだろう。
 積極的な治療をしない以上、ここにいても意味はない。
 それに、緩和ケア病棟なら漢方も大手を振って飲み続けられるし、少しでも安楽に過ごせるような融通がもっといろいろときくと思う。
 移るなら一日でも早いほうがいいので、さっそく家族に電話して相談し、全員の了承を得た。
 病棟のナースにそう伝えたところ、明日にでも移れるようにとりはからうと言われた。
 明日から再スタートだ。
 「ああすればよかった」という後悔は、考え始めたら際限なく出てくるので考えないようにしよう。
 それよりも、今これから何ができるのかを精一杯考えよう。

 一人で電話をかけられない母のために、自宅につながる短縮番号をメモして携帯に張り付け、看護師さんに頼めば代わりにかけてもらえるようにして帰った。
 病院をあとにする瞬間はいつでも身を切られるようにつらい。
 そばについていてもつらいし、離れていてもつらい。
 よくないとわかってはいるが、この日から自分も食べ物が喉を通らなくなった。

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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。

がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。

だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。

漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。

別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
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