がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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今年最初の更新になります。
すべて報告が中途半端になっていたので簡単に今の状況をお知らせします。
1)相談支援について
相談支援とは、世間一般でいういわゆる「ケアマネージャー」の仕事のこと。
介護保険ではもれなくついて、ケアマネさんがすべてマネージメントをしてくれるが、障害者にはつかない(という事実を知っている人も少ない)。
でも自分でなにもかもやるのは厳しいし、特に私は年齢的にも障害の種類的にも病気の経過的にもあてはまるカテゴリーがあまりにも乏しいので、なんとか相談支援をつけてほしいと働きかけた結果、手続き上あれこれ「むきーっ」ってことはあったけど結論としては雪村さん(仮名)がひきうけてくれることになった。
これは大きな一歩だった。
その後、いろいろ状況が変化しているが、どれもこれも「相談支援が入ってこそ」という変化で、ほんとにこのタイミングで入ってよかった。
2)訪問リハについて
これも前に書いた通り。
週一回リハのために聖路加に通ってたけど、その頻度での通院もしんどくなってきたうえ、リハを受けるためには必ず医師の診察を同じ日に受けなければならず、形式的なものであるにもかかわらず、そのために何時間も待たなくてはならなかった。
病院の固い椅子に座り続けるのは上肢障害者にとってはこのうえなく苦痛で、下手すると行きよりも帰りの方が具合が悪くなっていることもしばしば。
これでは通う意味がないので訪問リハに切り換えたいと訴えた結果、これまた手続き上あれこれ「むきーっ」ってことがあったんだけど、なんとか訪問リハビリに来てくれる療法士さんを見つけることができた。
訪問リハをやっているのは訪問看護ステーションだけど、こちらの世界はこちらの世界で福祉の世界とはまったく違う複雑怪奇なシステムがあって、その業界の人でもすべては把握できないというほど複雑だ。
受けている人はほとんどが高齢者で介護保険適用者。50歳以下で利用している人、医療保険で利用している人は著しく少数で、自分が使える地域の訪問看護ステーションの数は驚くほど少なかった。
うちはA区とB区のちょうど境目あたりなんだけど、住所のA区で探すと「遠すぎて圏外」と言われるし、B区で探すと「B区民優先なので…」と断られるしでエリア的にも微妙。
さらに訪問看護ステーションに所属する療法士さんの絶対数がどこも少ないため、来てくれるのはオーケーでも「もしかしたら看護師が訪問するかもしれないんですけど…」というケースもあった。
が、結論からいうと、ひきうけてくれた訪問看護ステーションは大当たりだった。
家まで来てくれるのが楽なのは言うまでもないが、なによりも療法士さんのやり方が全然違う!
あらためて、病院の療法士さんは「回復&期間限定を前提にやるリハビリ」なんだなということがわかった。
同じ週1でも病院の療法士さんは「前の状態からどう変化したのか」にそれほど関心がなく、機械的に一連のメニューを繰り返すのみ。
しかもほとんどの時間はホットパックで肩関節を温める時間に費やされ、リハビリの実働時間はせいぜい15分といったところ。
また、内容的にも「自分で動かす(自動)」のが基本なので、わずかに残るほっそーーーい筋肉で無理矢理動かす(もちろん補助つきだが)といった感じで超疲れる。そして疲れるわりに効果は感じられない。
対して、訪問の療法士さんは「維持目的&期間無制限が前提のリハビリ」をおこなうので、長い目でつきあうという感じ。
「元通りの状態への回復は望めないが、悪化はさせないことを目的に、様子を見ながらいろいろな方法を少しずつ試していく」というスタンスなので、毎回毎回じつに辛抱強く綿密に状態を観察してくれる。
内容は「自分で動かせない筋肉を動かす(他動)」のが基本で、両下肢+両上肢に合計90分費やしてくれる。
こちらとしては自分で動かさなくていいので全然楽ちんなのだが、もちろんやみくもに動かしてる訳ではなく、可動域が広がるように考えてストレッチをかけているので、最初はびっくりするほど変化があった。
まず、関節がすっごく柔らかくなって曲げられる範囲がぐんと広がった。
関節はもともと柔らかかったが、今まではむくみがひどくて動かせられなかったんだと思う。
一歩踏み出すたびに全体重がかかるため、これまでは怪獣のようにドスンドスンと音をたてて歩いていたんだけど、父に「二階で動いても音がしなくなった」と言われた(笑)。
療法士さんいわく、「全身が、着ぐるみのようにむくみ(水分)で覆われてる。実際はもっともっと痩せてるはず」というのだが、たしかにこの2年ほどで10キロくらい体重が増えている。
10キロ減らすのは簡単ではないと思ったが、可動域が広がってむくみの自然排出が促されるようになってからは、平均で2キロくらいは減った。
まずは足のむくみが、続いて両上肢のむくみが減っていった。
しかし、いいことばかりではない。
今まで動かなかったところが動くようになるということは、それまで無理矢理にでもなんとか保たれていたバランスがいったん崩れるということだ。
当然体に負担もかかるし、筋肉の炎症も起きる。
正直、次にどんな反応が出るのかおっかなびっくりだ。
療法士さんも「予想外のこと」がいっぱいあるみたいで、毎週驚いている。
でも同じ人が続けて腰を据えて診てくれるというのはやはり心強い。
「人間の体が一筋縄ではいかないこと」をよく知っている百戦錬磨の療法士さんならなおのことだ。
とにかく、体に触り、中で何が起こっているのかを想像すること。
体が発するシグナルにいちいち耳を傾けること。
これが今の自分には一番必要なことであり、それを一緒にしてくれる人を日々根気強く探していくしかない。
長くなったのでひとまずはここまで。
最後にお知らせをひとつ。
今まで「わたしの履歴書<病気版>」を記すつもりでこのブログを綴ってきたが、実際はご覧のように最新の情報を更新するだけで精一杯になっている。
本来の目的は「最初」から歴史をひもといていくことだったのに、なかなか過去まで手が回らない。
また、たまに過去の記録をアップしても、ブログ形式だと他の記事の中にまぎれてしまい、時系列に閲覧するのが難しくなっている。
そんなわけで、元旦を機に、新しくサイトをたちあげた。
最初から順番に読みたい方のために、そちらでは25歳の出来事から順を追って更新していこうと思う。
気が遠くなるほどの道のりだが、気分をリセットしたいので、あえてまた一から記し始めた。
25年分の出来事をはたして生きてるうちに書ききれるのかどうかわからないが、ひとつでも多く残していくつもりだ。
こちらのブログでは今まで通り、最新のことをアップしていくようにする。
サイトのタイトルは、
「闘病、いたしません。」
こちらもよろしくお願いします。
すべて報告が中途半端になっていたので簡単に今の状況をお知らせします。
1)相談支援について
相談支援とは、世間一般でいういわゆる「ケアマネージャー」の仕事のこと。
介護保険ではもれなくついて、ケアマネさんがすべてマネージメントをしてくれるが、障害者にはつかない(という事実を知っている人も少ない)。
でも自分でなにもかもやるのは厳しいし、特に私は年齢的にも障害の種類的にも病気の経過的にもあてはまるカテゴリーがあまりにも乏しいので、なんとか相談支援をつけてほしいと働きかけた結果、手続き上あれこれ「むきーっ」ってことはあったけど結論としては雪村さん(仮名)がひきうけてくれることになった。
これは大きな一歩だった。
その後、いろいろ状況が変化しているが、どれもこれも「相談支援が入ってこそ」という変化で、ほんとにこのタイミングで入ってよかった。
2)訪問リハについて
これも前に書いた通り。
週一回リハのために聖路加に通ってたけど、その頻度での通院もしんどくなってきたうえ、リハを受けるためには必ず医師の診察を同じ日に受けなければならず、形式的なものであるにもかかわらず、そのために何時間も待たなくてはならなかった。
病院の固い椅子に座り続けるのは上肢障害者にとってはこのうえなく苦痛で、下手すると行きよりも帰りの方が具合が悪くなっていることもしばしば。
これでは通う意味がないので訪問リハに切り換えたいと訴えた結果、これまた手続き上あれこれ「むきーっ」ってことがあったんだけど、なんとか訪問リハビリに来てくれる療法士さんを見つけることができた。
訪問リハをやっているのは訪問看護ステーションだけど、こちらの世界はこちらの世界で福祉の世界とはまったく違う複雑怪奇なシステムがあって、その業界の人でもすべては把握できないというほど複雑だ。
受けている人はほとんどが高齢者で介護保険適用者。50歳以下で利用している人、医療保険で利用している人は著しく少数で、自分が使える地域の訪問看護ステーションの数は驚くほど少なかった。
うちはA区とB区のちょうど境目あたりなんだけど、住所のA区で探すと「遠すぎて圏外」と言われるし、B区で探すと「B区民優先なので…」と断られるしでエリア的にも微妙。
さらに訪問看護ステーションに所属する療法士さんの絶対数がどこも少ないため、来てくれるのはオーケーでも「もしかしたら看護師が訪問するかもしれないんですけど…」というケースもあった。
が、結論からいうと、ひきうけてくれた訪問看護ステーションは大当たりだった。
家まで来てくれるのが楽なのは言うまでもないが、なによりも療法士さんのやり方が全然違う!
あらためて、病院の療法士さんは「回復&期間限定を前提にやるリハビリ」なんだなということがわかった。
同じ週1でも病院の療法士さんは「前の状態からどう変化したのか」にそれほど関心がなく、機械的に一連のメニューを繰り返すのみ。
しかもほとんどの時間はホットパックで肩関節を温める時間に費やされ、リハビリの実働時間はせいぜい15分といったところ。
また、内容的にも「自分で動かす(自動)」のが基本なので、わずかに残るほっそーーーい筋肉で無理矢理動かす(もちろん補助つきだが)といった感じで超疲れる。そして疲れるわりに効果は感じられない。
対して、訪問の療法士さんは「維持目的&期間無制限が前提のリハビリ」をおこなうので、長い目でつきあうという感じ。
「元通りの状態への回復は望めないが、悪化はさせないことを目的に、様子を見ながらいろいろな方法を少しずつ試していく」というスタンスなので、毎回毎回じつに辛抱強く綿密に状態を観察してくれる。
内容は「自分で動かせない筋肉を動かす(他動)」のが基本で、両下肢+両上肢に合計90分費やしてくれる。
こちらとしては自分で動かさなくていいので全然楽ちんなのだが、もちろんやみくもに動かしてる訳ではなく、可動域が広がるように考えてストレッチをかけているので、最初はびっくりするほど変化があった。
まず、関節がすっごく柔らかくなって曲げられる範囲がぐんと広がった。
関節はもともと柔らかかったが、今まではむくみがひどくて動かせられなかったんだと思う。
一歩踏み出すたびに全体重がかかるため、これまでは怪獣のようにドスンドスンと音をたてて歩いていたんだけど、父に「二階で動いても音がしなくなった」と言われた(笑)。
療法士さんいわく、「全身が、着ぐるみのようにむくみ(水分)で覆われてる。実際はもっともっと痩せてるはず」というのだが、たしかにこの2年ほどで10キロくらい体重が増えている。
10キロ減らすのは簡単ではないと思ったが、可動域が広がってむくみの自然排出が促されるようになってからは、平均で2キロくらいは減った。
まずは足のむくみが、続いて両上肢のむくみが減っていった。
しかし、いいことばかりではない。
今まで動かなかったところが動くようになるということは、それまで無理矢理にでもなんとか保たれていたバランスがいったん崩れるということだ。
当然体に負担もかかるし、筋肉の炎症も起きる。
正直、次にどんな反応が出るのかおっかなびっくりだ。
療法士さんも「予想外のこと」がいっぱいあるみたいで、毎週驚いている。
でも同じ人が続けて腰を据えて診てくれるというのはやはり心強い。
「人間の体が一筋縄ではいかないこと」をよく知っている百戦錬磨の療法士さんならなおのことだ。
とにかく、体に触り、中で何が起こっているのかを想像すること。
体が発するシグナルにいちいち耳を傾けること。
これが今の自分には一番必要なことであり、それを一緒にしてくれる人を日々根気強く探していくしかない。
長くなったのでひとまずはここまで。
最後にお知らせをひとつ。
今まで「わたしの履歴書<病気版>」を記すつもりでこのブログを綴ってきたが、実際はご覧のように最新の情報を更新するだけで精一杯になっている。
本来の目的は「最初」から歴史をひもといていくことだったのに、なかなか過去まで手が回らない。
また、たまに過去の記録をアップしても、ブログ形式だと他の記事の中にまぎれてしまい、時系列に閲覧するのが難しくなっている。
そんなわけで、元旦を機に、新しくサイトをたちあげた。
最初から順番に読みたい方のために、そちらでは25歳の出来事から順を追って更新していこうと思う。
気が遠くなるほどの道のりだが、気分をリセットしたいので、あえてまた一から記し始めた。
25年分の出来事をはたして生きてるうちに書ききれるのかどうかわからないが、ひとつでも多く残していくつもりだ。
こちらのブログでは今まで通り、最新のことをアップしていくようにする。
サイトのタイトルは、
「闘病、いたしません。」
こちらもよろしくお願いします。
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夏以来の更新になってしまいました。
前回の話の続きは延々とあって、むしろ途切れなくありすぎて書くタイミングを逃し続けていたんだけど、ちょっと今日久々に病院にブチきれることがあったので、怒りが新鮮なうちに(笑)こっちの話を先に記録しておきます。
少し前に、聖路加の放射線科の先生の紹介で「放射線の晩期障害による神経麻痺」なら唯一可能性のある治療があると言われ、とある大学病院の神経内科を受診した。
その治療法とは「高圧酸素療法」。
加圧した部屋に入って高濃度の酸素を体内にとりこみ、ヘモグロビンなしでダイレクトに血中に酸素が溶け込むようにするというものだ。
潜水病とか一酸化炭素中毒とかがおもな適用対象で、放射線障害に対してはまだ効果が確定するところまでいっていないが、放射線による神経麻痺の症例も最近少しずつ増えているらしいというのでとにかく話を聞きにいくことにした。
高圧酸素療法室は整形外科に付属しているが、まずは神経内科を受診してくれと言われて資料を持って神経内科へ。
ところが、聞いていた話と随分トーンが違う。
まず、「放射線障害の患者なんて来てない」って言うんだよね。
聖路加の先生が××先生からそう聞いたっておっしゃってたんですけど…と言ったら「一緒に仕事してるんだから××先生の知ってることは私も知ってる。私の知らないことは××先生も知らない」と言われておしまい。
さらに、「放射線の障害だって診断は何によってつけられたんですか?いや、べつにあなたの話を疑ってるわけじゃないですけど、検査データもないし、放射線治療をおこなった病院からの情報提供もないし」と言う。
いや、それ私に言うの?
前の病院が情報隠蔽して放り出されたから私こうして今難民になってるんですけど…。
「とにかく、治療を受けるには診断名が必要なんですよ。診断するには検査が必要。ぶっちゃけ、放射線以外の原因で神経麻痺が起こってる可能性だってないとは言えないですから。治療が適用になるかどうかはそれからの話です」
いやいや、昨日今日起こってる麻痺じゃないですから。
検査だって受けられるものはとっくに受けたよ。
それで他に異常がなかったから放射線としか考えられないってことになってるんだよ。
手帳もそれで取得したんだから診断書はすでにあちこちでもらってるんだよ。
でもL病院はうしろぐらいことがあるからはっきり認めてくれないんだってば!
検査データは、CTと筋電図は一年以内に聖路加でとったものがあるから提出したけど、MRI、それも頸部のとなると7年前までさかのぼらないとない。
それはL病院が持ってるし、5年以上たってるから処分されててもおかしくない。
そんな簡単に持ってこられないよ。
そしたらいきなり「入院してください」ですよ。
今からMRIの検査予約入れるといつになるかわからないから、入院してキャンセル待ちを狙ってくださいという。
で、キャンセル待ちの間に他の検査も入れられるだけ入れて〜、結果が揃って「あ、やっぱ放射線みたいだね」ってことになったら診断名つけますから〜、そこでさらに治療適用じゃね?ってことになったらさらに入院して治療受けてもらうということでどうでしょう。だって。
いやいや、それいったいどのくらいのスパンの話なんですか?と聞いたら「まあ検査で2週間くらい?治療計画はそのあとに決めます」という。
ちょっと待ってよ。
まずそれ以前に、放射線障害だったとして、その高圧酸素療法は効果があるという見通しはどのくらいあるの?
同じような症例でよくなった人が何人いるの?
リスクはないの?
今アクティブな「がん持ち」だけどそれには影響ないの?
何回やれば終わるの?
効果は何で測るの?
その他もろもろ聞きたいことがいっぱいあって、まずはそういうことを聞きたくてわざわざ来たんだけど、そういう話すっとばしてまず「入院」なの?
そう言ったら「それは私に聞かれても…。じゃあ高圧酸素療法室に直接行ってください」と言われて別の日に予約を入れられた。
それが今日。
この時点で違和感バリバリだったけど、まあとにかく話だけでも聞いてみようと今度は高圧酸素療法室を受診。
……いや、もうね。
すごいわ。
ザッツ大学病院的な対応とでもいいましょうか。
ここまでとは思いませんでした。
まずは一通り今までの経緯を聞いたその先生、「神経内科の先生のコメントには『通院は大変そうだから検査入院を勧めたけど同意を得られなかった』とある。なぜ入院しないんだ」ときた。
だから〜!
入院ってそんなに即決できることじゃないでしょ。
しかも本当に必要で、かつ効果的な治療なのかどうか、まだなんにも確証がないのに。
でもいくら話しても平行線。
向こうにしてみれば「治療するかどうかを決めるのは医療者側であって患者側じゃない」という考えがあるんだと思う。
つべこべいわずにまず検査受けろ。
画像見せろ。
データよこせ。
話はそれからだ。
の一点張り。
でも検査だってリスクあるし、患者には負担なんだよ。特に身障者にはね。
医者は患者を上から下までスキャナーにガーーーッと通せばたちどころに正解がモニタに表示されるとでも思ってるんだろうか。
冗談じゃない。
そんな簡単なら医者も患者も苦労しない。
私は今までずっと「検査」と言われれば従ってきたけれど、受けた検査の数に見合うほどメリットが得られたとは思えない。
それどころか、どんどん検査や治療が負担になる体になっていくばかり。
そのツケを一人で払い続けている状態なのに、このうえまだ新しい借金をしろというのか?
必要と思えばするけど、これ以上詳細な検査が必要とはどうしても思えなかった。
結局この先生も神経内科の先生と言うことは同じだった。
「放射線のせいかと思っていたけど検査してみたらすごく珍しい症例の病気がみつかるってこともあるかもしれないでしょ?もしそうだったら、この治療がそれに効果を発揮するかどうか研究することができる。それこそが大学病院の仕事ですから」
こう言い切られたときには耳を疑った。
研究材料としか見てないなんてひどい!
…とは言わない。
この先生の言う通り、大学病院とはそういうところだ。
今さら驚かない。
がしかし、この状況で患者に言うかね。
ここまで身も蓋もなく。
正直、治療内容に納得し、医師の人間性に信頼がおけるなら「研究材料」になってもかまわないと思っている。
でもこれ聞いた瞬間「あんたの研究材料にだけはならないよ」と思った。
なかなか納得しない私にイラついたのか、その先生はさらに本音をぶつけてきた。
「ここで治療受けてる人たちはね、みんなきちんとした診断名がついた上でこの治療を受ければ効果が出るだろうというエビデンスに基づいて治療を受けてるんです。なんだか原因はよくわからないけどとりあえず治療だけ受けるなんて人はいません」
え? 私、治療受けるなんてまだ一言もいってないですけど。
まずどんな治療なのか説明を聞きたいってそんなにおかしいですか?
治療内容や治療期間や副作用についてきけば「人それぞれ」とか「効果があれば続けるし、なければやめる」とかすごいアバウトなことしか言わないし、もう堂々巡り。
「だいたいこれっぽちの情報で治療しろなんて無茶です。本来、治療した前の病院から25年分のデータすべてきっちり揃えてお願いしますって持ってくるのが筋でしょう。聖路加の先生だって困ったと思いますよ」
なにそれ。
私がごり押しして迷惑かけたみたいな流れになってるんですけど。
私が悪いの?そうなの?
あと「この機械は全国に数台しかないんですよ。たとえば関西にはないから、関西の人は受けたくても受けられないんですよ」とも言われた。
最初は言ってる意味がわからなかったが、「この治療を受けられるのは選ばれた人たちなんだから希望すればひょいひょい受けられると思うな」ってこと?
その一方で「たとえ放射線障害だったとしてもそんなに時間がたってたら効果を期待するのは難しいと思いますけどね」とか言ってんだよ。
じゃあますます治療の意味ないじゃん。
だいたい麻痺の出始めならともかく、15年もたってから他の可能性にこだわる意味がわかんない。
あんまり資料資料言うんで、「それがもらえないから私も困ってるんです」と言ったら、「だから悪いのはL病院ですよ!麻痺が出始めた15年前の時点で原因を精査せずに放置したからこういうことになったんでしょう。でも今それを言ってもしょうがないからせめて今からあらたに検査し直しましょうって言ってるんですよ!」と逆切れ。
うわー、ついに同業者批判まで出たよ。
L病院の中でも同じこと言えたらたいしたもんだけど、関係ないポジだから言えるんだよなー。「医者の良心云々」言ってた某先生もそうだったよ。
私もかなりイライラしてきて「L病院とは裁判までいきましたからカルテなら保全したものがありますよ。段ボール箱一杯」と言ったら「じゃあその段ボール箱持って神経内科に入院してください。徹底的に調べますから」。
なに、このおとなげない売り言葉に買い言葉的レスポンス。。。
読むわけないじゃん。
100パーないよ。断言できる。当時の担当医ですら交代したら前のカルテ読んでないの丸わかりだったんだから。
結局、帰って家族と相談してから決めると言って帰ってきたけど、この日のやりとりだけで「治療受けたい」と思わせる要素はみじんもなかった。
もう帰ったらすぐさま診察券をシュレッダーにかけたいと思うほど腹が立っただけだった。
なんなんだろう。この空しさ。
この先生の言ってることがまったく間違ってるとは思わない。
大学病院のスタンスや、原則論もわかる。
ただ、あまりにもそれにしがみつきすぎだし、言い方も神経を逆なでしすぎ。
べつに私だって最初から喧嘩しようと思って乗り込んできてるわけじゃなし、医者の心証を害して患者が得することなんてひとつもないのに。
ただ少しでもこちらの事情によりそう態度があれば、たとえ言っている内容も結果も同じだったとしてもここまで気分悪くなることはなかったと思う。
大学病院とかかわりをもたないようにしてから2年。
離れていたからこそよけいに時代が逆戻りしたかのようなうすら寒さをおぼえた。
今も決して体調はよくはない。
最悪の覚悟も常にしている。
それでも自分が受ける治療・受けない治療は自分で決めたい。
前回の話の続きは延々とあって、むしろ途切れなくありすぎて書くタイミングを逃し続けていたんだけど、ちょっと今日久々に病院にブチきれることがあったので、怒りが新鮮なうちに(笑)こっちの話を先に記録しておきます。
少し前に、聖路加の放射線科の先生の紹介で「放射線の晩期障害による神経麻痺」なら唯一可能性のある治療があると言われ、とある大学病院の神経内科を受診した。
その治療法とは「高圧酸素療法」。
加圧した部屋に入って高濃度の酸素を体内にとりこみ、ヘモグロビンなしでダイレクトに血中に酸素が溶け込むようにするというものだ。
潜水病とか一酸化炭素中毒とかがおもな適用対象で、放射線障害に対してはまだ効果が確定するところまでいっていないが、放射線による神経麻痺の症例も最近少しずつ増えているらしいというのでとにかく話を聞きにいくことにした。
高圧酸素療法室は整形外科に付属しているが、まずは神経内科を受診してくれと言われて資料を持って神経内科へ。
ところが、聞いていた話と随分トーンが違う。
まず、「放射線障害の患者なんて来てない」って言うんだよね。
聖路加の先生が××先生からそう聞いたっておっしゃってたんですけど…と言ったら「一緒に仕事してるんだから××先生の知ってることは私も知ってる。私の知らないことは××先生も知らない」と言われておしまい。
さらに、「放射線の障害だって診断は何によってつけられたんですか?いや、べつにあなたの話を疑ってるわけじゃないですけど、検査データもないし、放射線治療をおこなった病院からの情報提供もないし」と言う。
いや、それ私に言うの?
前の病院が情報隠蔽して放り出されたから私こうして今難民になってるんですけど…。
「とにかく、治療を受けるには診断名が必要なんですよ。診断するには検査が必要。ぶっちゃけ、放射線以外の原因で神経麻痺が起こってる可能性だってないとは言えないですから。治療が適用になるかどうかはそれからの話です」
いやいや、昨日今日起こってる麻痺じゃないですから。
検査だって受けられるものはとっくに受けたよ。
それで他に異常がなかったから放射線としか考えられないってことになってるんだよ。
手帳もそれで取得したんだから診断書はすでにあちこちでもらってるんだよ。
でもL病院はうしろぐらいことがあるからはっきり認めてくれないんだってば!
検査データは、CTと筋電図は一年以内に聖路加でとったものがあるから提出したけど、MRI、それも頸部のとなると7年前までさかのぼらないとない。
それはL病院が持ってるし、5年以上たってるから処分されててもおかしくない。
そんな簡単に持ってこられないよ。
そしたらいきなり「入院してください」ですよ。
今からMRIの検査予約入れるといつになるかわからないから、入院してキャンセル待ちを狙ってくださいという。
で、キャンセル待ちの間に他の検査も入れられるだけ入れて〜、結果が揃って「あ、やっぱ放射線みたいだね」ってことになったら診断名つけますから〜、そこでさらに治療適用じゃね?ってことになったらさらに入院して治療受けてもらうということでどうでしょう。だって。
いやいや、それいったいどのくらいのスパンの話なんですか?と聞いたら「まあ検査で2週間くらい?治療計画はそのあとに決めます」という。
ちょっと待ってよ。
まずそれ以前に、放射線障害だったとして、その高圧酸素療法は効果があるという見通しはどのくらいあるの?
同じような症例でよくなった人が何人いるの?
リスクはないの?
今アクティブな「がん持ち」だけどそれには影響ないの?
何回やれば終わるの?
効果は何で測るの?
その他もろもろ聞きたいことがいっぱいあって、まずはそういうことを聞きたくてわざわざ来たんだけど、そういう話すっとばしてまず「入院」なの?
そう言ったら「それは私に聞かれても…。じゃあ高圧酸素療法室に直接行ってください」と言われて別の日に予約を入れられた。
それが今日。
この時点で違和感バリバリだったけど、まあとにかく話だけでも聞いてみようと今度は高圧酸素療法室を受診。
……いや、もうね。
すごいわ。
ザッツ大学病院的な対応とでもいいましょうか。
ここまでとは思いませんでした。
まずは一通り今までの経緯を聞いたその先生、「神経内科の先生のコメントには『通院は大変そうだから検査入院を勧めたけど同意を得られなかった』とある。なぜ入院しないんだ」ときた。
だから〜!
入院ってそんなに即決できることじゃないでしょ。
しかも本当に必要で、かつ効果的な治療なのかどうか、まだなんにも確証がないのに。
でもいくら話しても平行線。
向こうにしてみれば「治療するかどうかを決めるのは医療者側であって患者側じゃない」という考えがあるんだと思う。
つべこべいわずにまず検査受けろ。
画像見せろ。
データよこせ。
話はそれからだ。
の一点張り。
でも検査だってリスクあるし、患者には負担なんだよ。特に身障者にはね。
医者は患者を上から下までスキャナーにガーーーッと通せばたちどころに正解がモニタに表示されるとでも思ってるんだろうか。
冗談じゃない。
そんな簡単なら医者も患者も苦労しない。
私は今までずっと「検査」と言われれば従ってきたけれど、受けた検査の数に見合うほどメリットが得られたとは思えない。
それどころか、どんどん検査や治療が負担になる体になっていくばかり。
そのツケを一人で払い続けている状態なのに、このうえまだ新しい借金をしろというのか?
必要と思えばするけど、これ以上詳細な検査が必要とはどうしても思えなかった。
結局この先生も神経内科の先生と言うことは同じだった。
「放射線のせいかと思っていたけど検査してみたらすごく珍しい症例の病気がみつかるってこともあるかもしれないでしょ?もしそうだったら、この治療がそれに効果を発揮するかどうか研究することができる。それこそが大学病院の仕事ですから」
こう言い切られたときには耳を疑った。
研究材料としか見てないなんてひどい!
…とは言わない。
この先生の言う通り、大学病院とはそういうところだ。
今さら驚かない。
がしかし、この状況で患者に言うかね。
ここまで身も蓋もなく。
正直、治療内容に納得し、医師の人間性に信頼がおけるなら「研究材料」になってもかまわないと思っている。
でもこれ聞いた瞬間「あんたの研究材料にだけはならないよ」と思った。
なかなか納得しない私にイラついたのか、その先生はさらに本音をぶつけてきた。
「ここで治療受けてる人たちはね、みんなきちんとした診断名がついた上でこの治療を受ければ効果が出るだろうというエビデンスに基づいて治療を受けてるんです。なんだか原因はよくわからないけどとりあえず治療だけ受けるなんて人はいません」
え? 私、治療受けるなんてまだ一言もいってないですけど。
まずどんな治療なのか説明を聞きたいってそんなにおかしいですか?
治療内容や治療期間や副作用についてきけば「人それぞれ」とか「効果があれば続けるし、なければやめる」とかすごいアバウトなことしか言わないし、もう堂々巡り。
「だいたいこれっぽちの情報で治療しろなんて無茶です。本来、治療した前の病院から25年分のデータすべてきっちり揃えてお願いしますって持ってくるのが筋でしょう。聖路加の先生だって困ったと思いますよ」
なにそれ。
私がごり押しして迷惑かけたみたいな流れになってるんですけど。
私が悪いの?そうなの?
あと「この機械は全国に数台しかないんですよ。たとえば関西にはないから、関西の人は受けたくても受けられないんですよ」とも言われた。
最初は言ってる意味がわからなかったが、「この治療を受けられるのは選ばれた人たちなんだから希望すればひょいひょい受けられると思うな」ってこと?
その一方で「たとえ放射線障害だったとしてもそんなに時間がたってたら効果を期待するのは難しいと思いますけどね」とか言ってんだよ。
じゃあますます治療の意味ないじゃん。
だいたい麻痺の出始めならともかく、15年もたってから他の可能性にこだわる意味がわかんない。
あんまり資料資料言うんで、「それがもらえないから私も困ってるんです」と言ったら、「だから悪いのはL病院ですよ!麻痺が出始めた15年前の時点で原因を精査せずに放置したからこういうことになったんでしょう。でも今それを言ってもしょうがないからせめて今からあらたに検査し直しましょうって言ってるんですよ!」と逆切れ。
うわー、ついに同業者批判まで出たよ。
L病院の中でも同じこと言えたらたいしたもんだけど、関係ないポジだから言えるんだよなー。「医者の良心云々」言ってた某先生もそうだったよ。
私もかなりイライラしてきて「L病院とは裁判までいきましたからカルテなら保全したものがありますよ。段ボール箱一杯」と言ったら「じゃあその段ボール箱持って神経内科に入院してください。徹底的に調べますから」。
なに、このおとなげない売り言葉に買い言葉的レスポンス。。。
読むわけないじゃん。
100パーないよ。断言できる。当時の担当医ですら交代したら前のカルテ読んでないの丸わかりだったんだから。
結局、帰って家族と相談してから決めると言って帰ってきたけど、この日のやりとりだけで「治療受けたい」と思わせる要素はみじんもなかった。
もう帰ったらすぐさま診察券をシュレッダーにかけたいと思うほど腹が立っただけだった。
なんなんだろう。この空しさ。
この先生の言ってることがまったく間違ってるとは思わない。
大学病院のスタンスや、原則論もわかる。
ただ、あまりにもそれにしがみつきすぎだし、言い方も神経を逆なでしすぎ。
べつに私だって最初から喧嘩しようと思って乗り込んできてるわけじゃなし、医者の心証を害して患者が得することなんてひとつもないのに。
ただ少しでもこちらの事情によりそう態度があれば、たとえ言っている内容も結果も同じだったとしてもここまで気分悪くなることはなかったと思う。
大学病院とかかわりをもたないようにしてから2年。
離れていたからこそよけいに時代が逆戻りしたかのようなうすら寒さをおぼえた。
今も決して体調はよくはない。
最悪の覚悟も常にしている。
それでも自分が受ける治療・受けない治療は自分で決めたい。
こんな小咄があった。
老人のおしゃべりサロンと化した病院の待合室での会話…。
「あら、××さん、今日はいらしてないのね。どこか体の具合でも悪いのかしら」
ここ、笑うとこなんですが、今の私には笑えません。
今、ほんとに、ほんとに、ほんとに通院がしんどい。
病院は選ばれた元気な人が行くところだと思う。マジで。
現在、聖路加にはリハビリで週一回通っている。
その他に精神科が月一回。
呼吸器内科はL病院に2ヶ月に一回、リンパマッサージは大森に月一回通っていたが、まずはこれがしんどくなってきて、両方とも聖路加でまとめられることがわかったので乗り換えた。
いったん「つらい」ということに気づいたら、坂道をころげおちるようにすべてがつらく感じられるようになってきた。
これ以外に鍼に週2回通っているが、今のところ車で行っているのでそっちはまあなんとかなる(今の私にとってのメインはこっちだし)。
問題は電車に乗って通う病院のほうだ。
身支度して家を出て電車に乗って診察券を出して…という一連の行動がどれも難儀だということもあるが、最近は左半身の重さの影響で左腰が慢性的に痛くて座って待っているのがとにかくつらい。
聖路加は、前通っていたL病院の気違いじみた混雑ぶりに比べたらずっと待たされる時間は短いが、それでも今の私には耐えられなくなっている。
もうこの25年間で一生分の待ちエネルギーを使い果たして枯渇状態といった感じだ。
聖路加通院の主目的はリハビリを受けることだけど、前にも書いたようにそのためにはリハビリ前に必ず医師の診察を受けなければならないというくだらない決まりがある。
正直、今一番負担になっているのがそれなのだ。
診察といっても形式的なもので、内容は何もない。先生自身も「こんな診察意味ないのに」と内心は思っているはずだ。
にもかかわらず、毎度毎度延々と待たされ、「当分呼ばれないので先に別の科に行ってきてください」と出直させられたりする。
すぐに呼ばれることはまずありえないので、かんじんのリハビリの時間に大幅に遅れることもしばしばだった。
なんて本末転倒なシステム。
あまりにも毎回遅刻して療法士さんに悪いので、最近は(ほんとはいけないんだけど)リハビリ後の診察にしてもらっているのだが、それはそれでせっかくマッサージしてもらったのに待ってるうちにまたまた腰が痛くなり、化学療法室の空きシートに横にならせてもらうなんてことも増えてきた。
これまた本末転倒きわまりない。
リハビリに通うのが限定された期間ならばまだ出口が見えるので頑張れるが、私のリハビリに終わりはない。
よくなることもない。
ただただ体力とエネルギーだけが理不尽に奪われていく。
心が折れそうだった。
ストレスに耐えられず、待ってるうちに不安に襲われて過呼吸になり、ペーパーバッグを口にあててスーハーすることも何度かあった。
なんで病院に来るたびに私は心身を痛めつけてるんだろう。
なんで病院に来なくてはいけないんだろう。
頭の中ではいつもその疑問が渦巻いていた。
私はただリハビリが受けたいだけ。
動かなくて固まってしまった筋肉をマッサージしてもらい、一時的でも楽になりたいだけ。
必要な薬を待たないでもらいたいだけ。
私の病歴すべてを把握している主治医に必要なとき必要な書類を書いてもらいたいだけ。
それなのになぜ私はこんなところでスーハーしてなきゃならないんだろう。
そもそも診察なんてこんなに大勢の人がわざわざ足を運ぶ必要があるのか?
今具合が悪くて苦痛をとりのぞく処置が必要な人、病名の診断が必要な人、検査や治療を受ける人……それは来なきゃならないのはわかる。
でも病状に変化がない人、単に状態の報告にくるだけの人はわざわざ来なくてもいいじゃないか。
スカイプでいいよ。スカイプで。
どうせ今の医師はデータしか見ないんだし、触診することも滅多にない。
今具合が悪いわけじゃないのなら遠隔診断でいいじゃん。
スカイプなら他科の医師や薬剤師もまじえてのトークもできる。
患者も家(あるいは職場)にいながら受診ができるから待ってる間に用を済ませるなり、横になって休むなりが可能になる。
それなら少々待たされても負担にはならない。
本当に直接診察が必要な患者だけが病院に行けばいいし、それならばこんなに病院が混むこともなくなるだろう。
定期的な処方箋出すのなんてそれで充分だ。
処方箋は添付ファイルでメールかFAX。
これなら病院に行かないで済む人がどれだけ多くなるか。
…とそこで考えた。
こういうシステムを提案したからといって今すぐ実現することは絶対にないだろうが、それに近いシステムを自分用にカスタマイズすることはできるのではないか。
たとえば……訪問リハビリ!
そう。訪問リハビリは適用にならないだろうか。
リハビリさえしてもらえればいいんだから、通院がつらいなら訪問に切り替えればいい。
訪問ならリハビリ前診察も必要なくなり、ひとまずはこの苦痛から解放される。
さっそく聞いてみた。
が、医師はもちろんのこと、療法士、ソーシャルワーカー、ヘルパー…とどこに聞いてもスッキリとした答えが返ってこない。
医師「えー、介護保険ならすぐに通ると思うけど…。障害は…どうなんだろう。末期がんならすぐに通るけどね」
療法士「できると思うけど…でも通院と訪問を併用はできないんじゃなかったっけ」
ソーシャルワーカー「介護保険のケースしか扱ったことが…。障害でっていうのはきいたことないですね」
ヘルパー「介護保険なら…」
ああ〜!!またこれだよ!!
いつも立ちふさがるこの壁。
「介護保険ならすぐに使えるけど障害は…」
こういうとき、一番たよりになるはずなのがケアマネージャーのはずなのだが、これまた「介護保険ならもれなくつくんですけど障害は…」ということでノーケアマネ状態ですべて自分で調べなくてはならない。
でも調べれば調べるほど情報が錯綜し、どれが正確な情報なのかわからなくなる。
そうこうしているうちに年に一度の介護支援認定の更新時期がきて、福祉事務所の職員がやってきた。
「なにかお困りのことはありませんか?」
大ありだよ!ヽ(`Д´)ノ
ていうか、困ってないことのほうが少ないくらいだよ。
私は綿々と窮状を職員に訴えたが、得られた助けは「通院日の着替えの介助に30分の支援をつけましょう」というものだけ。
いや、それもありがたいけどさー、とりあえずケアマネつけてよ、ケアマネ。
もう会う人ごとに一から説明しなきゃいけないこの苦役から私を解放してください。
そしたら「この春から障害の人にもケアマネをつけていこうという取り組みが始まっていて、この3年ですべての対象者にケアマネをつけることを目標としている」というので、「その話は私もきいたが、いつになったらまわってくるのか、どういう基準でその順番が選ばれてるのかわからないんでどうしようもない」といったら、なんかくどくどと説明していたが、具体的なことはいっこうにわからなくて結局そこで更新時の面談は終了。
ところがです。
その後、たまたま事業所代表の雪村さん(仮名)と話したら、「それは順番を待つのではなく、利用者が希望した時点で契約に進むんですよ。福祉事務所からそう聞きませんでしたか?」と言われて仰天。
雪村さんと福祉事務所の間では「小春さんは自分で情報収集できるみたいだし、自立できてるということで相談支援は必要ないでしょう」という認識になっているときいてさらに仰天。
なに勝手に決めてんだよ!
能力の問題じゃないんだよ。制度もろくに整備されてないのにどうやって収集しろと?
それに外出するのも文字書くのもままならないのになんで自立できてるっていう判断になっちゃうわけ?
私がほしいのは、物理的に動けない私の代わりに事務手続きを迅速にこなしてくれる人。そして集めた断片情報をオーガナイズしてくれるプロだ。
どうしてわかってくれないの?
というわけで、またまた最初から窮状をくどくどと訴えたら、「そういうことですか。よくわかりました。たしかにそれは大変ですね。もしよければ私が相談支援をひきうけましょうか」とようやく話が通じた。
うわーーん。よかった。これで投げたロープをようやくつかんでくれる人が現れたよ〜。・゚・(ノд`)・゚・
相談支援の契約をするには福祉事務所を通さなければならないので連絡を待ってくれと言われ、それからしばらく連絡を待った。
が、次に福祉事務所からきた連絡の内容は耳を疑うものだった。
「相談支援を受けるには更新の時期のタイミングで契約しなくてはならないんです」
は????
「なので、今回はもう更新したばかりということで相談支援の契約はできません」
は………いやいやいや。私、更新の面談時にさんざん訴えたよね。相談支援受けたいって言ったよね。今契約できるなんて一言もいってなかったよね。そんな大事なこと、なんで最初にいわないの?契約させたくないの?そうでしょ。そうだよね?なるべくサービスとか提供したくないんだよね。いやもうそうとしか思えないし。
「上司に相談してみたんですがやっぱりだめだそうです」
いやーーーーーーーーー!!!!!
なにそれ。ありえない。ありえない。ありえない。
本当は罵倒したかったけど、福祉事務所を敵にまわすわけにはいかないのでぐっとこらえ、つとめて冷静に応対した。
彼女もさすがにちょっと気まずいと思ったのか「私にできることがあれば相談支援のお手伝いはします」と言ってきた。
「あんたにできることってなんだよーーーー( *`ω´) !!!」と喉まで出かかったがやっぱりこらえた。
こうなったらやってもらおうじゃないか。とことんやってもらうぜ。
私は鬼コーチの気分になった。
それからまもなく、聖路加のソーシャルワーカーから一条の光明となる知らせが届いた。
「小春さん。大丈夫です。訪問リハビリ受けられるみたいですよ。日が重ならなければ通院と訪問の併用もできるそうです」
それは意識が遠のく遭難者の耳に届いた救助犬の吠え声のようだった。
老人のおしゃべりサロンと化した病院の待合室での会話…。
「あら、××さん、今日はいらしてないのね。どこか体の具合でも悪いのかしら」
ここ、笑うとこなんですが、今の私には笑えません。
今、ほんとに、ほんとに、ほんとに通院がしんどい。
病院は選ばれた元気な人が行くところだと思う。マジで。
現在、聖路加にはリハビリで週一回通っている。
その他に精神科が月一回。
呼吸器内科はL病院に2ヶ月に一回、リンパマッサージは大森に月一回通っていたが、まずはこれがしんどくなってきて、両方とも聖路加でまとめられることがわかったので乗り換えた。
いったん「つらい」ということに気づいたら、坂道をころげおちるようにすべてがつらく感じられるようになってきた。
これ以外に鍼に週2回通っているが、今のところ車で行っているのでそっちはまあなんとかなる(今の私にとってのメインはこっちだし)。
問題は電車に乗って通う病院のほうだ。
身支度して家を出て電車に乗って診察券を出して…という一連の行動がどれも難儀だということもあるが、最近は左半身の重さの影響で左腰が慢性的に痛くて座って待っているのがとにかくつらい。
聖路加は、前通っていたL病院の気違いじみた混雑ぶりに比べたらずっと待たされる時間は短いが、それでも今の私には耐えられなくなっている。
もうこの25年間で一生分の待ちエネルギーを使い果たして枯渇状態といった感じだ。
聖路加通院の主目的はリハビリを受けることだけど、前にも書いたようにそのためにはリハビリ前に必ず医師の診察を受けなければならないというくだらない決まりがある。
正直、今一番負担になっているのがそれなのだ。
診察といっても形式的なもので、内容は何もない。先生自身も「こんな診察意味ないのに」と内心は思っているはずだ。
にもかかわらず、毎度毎度延々と待たされ、「当分呼ばれないので先に別の科に行ってきてください」と出直させられたりする。
すぐに呼ばれることはまずありえないので、かんじんのリハビリの時間に大幅に遅れることもしばしばだった。
なんて本末転倒なシステム。
あまりにも毎回遅刻して療法士さんに悪いので、最近は(ほんとはいけないんだけど)リハビリ後の診察にしてもらっているのだが、それはそれでせっかくマッサージしてもらったのに待ってるうちにまたまた腰が痛くなり、化学療法室の空きシートに横にならせてもらうなんてことも増えてきた。
これまた本末転倒きわまりない。
リハビリに通うのが限定された期間ならばまだ出口が見えるので頑張れるが、私のリハビリに終わりはない。
よくなることもない。
ただただ体力とエネルギーだけが理不尽に奪われていく。
心が折れそうだった。
ストレスに耐えられず、待ってるうちに不安に襲われて過呼吸になり、ペーパーバッグを口にあててスーハーすることも何度かあった。
なんで病院に来るたびに私は心身を痛めつけてるんだろう。
なんで病院に来なくてはいけないんだろう。
頭の中ではいつもその疑問が渦巻いていた。
私はただリハビリが受けたいだけ。
動かなくて固まってしまった筋肉をマッサージしてもらい、一時的でも楽になりたいだけ。
必要な薬を待たないでもらいたいだけ。
私の病歴すべてを把握している主治医に必要なとき必要な書類を書いてもらいたいだけ。
それなのになぜ私はこんなところでスーハーしてなきゃならないんだろう。
そもそも診察なんてこんなに大勢の人がわざわざ足を運ぶ必要があるのか?
今具合が悪くて苦痛をとりのぞく処置が必要な人、病名の診断が必要な人、検査や治療を受ける人……それは来なきゃならないのはわかる。
でも病状に変化がない人、単に状態の報告にくるだけの人はわざわざ来なくてもいいじゃないか。
スカイプでいいよ。スカイプで。
どうせ今の医師はデータしか見ないんだし、触診することも滅多にない。
今具合が悪いわけじゃないのなら遠隔診断でいいじゃん。
スカイプなら他科の医師や薬剤師もまじえてのトークもできる。
患者も家(あるいは職場)にいながら受診ができるから待ってる間に用を済ませるなり、横になって休むなりが可能になる。
それなら少々待たされても負担にはならない。
本当に直接診察が必要な患者だけが病院に行けばいいし、それならばこんなに病院が混むこともなくなるだろう。
定期的な処方箋出すのなんてそれで充分だ。
処方箋は添付ファイルでメールかFAX。
これなら病院に行かないで済む人がどれだけ多くなるか。
…とそこで考えた。
こういうシステムを提案したからといって今すぐ実現することは絶対にないだろうが、それに近いシステムを自分用にカスタマイズすることはできるのではないか。
たとえば……訪問リハビリ!
そう。訪問リハビリは適用にならないだろうか。
リハビリさえしてもらえればいいんだから、通院がつらいなら訪問に切り替えればいい。
訪問ならリハビリ前診察も必要なくなり、ひとまずはこの苦痛から解放される。
さっそく聞いてみた。
が、医師はもちろんのこと、療法士、ソーシャルワーカー、ヘルパー…とどこに聞いてもスッキリとした答えが返ってこない。
医師「えー、介護保険ならすぐに通ると思うけど…。障害は…どうなんだろう。末期がんならすぐに通るけどね」
療法士「できると思うけど…でも通院と訪問を併用はできないんじゃなかったっけ」
ソーシャルワーカー「介護保険のケースしか扱ったことが…。障害でっていうのはきいたことないですね」
ヘルパー「介護保険なら…」
ああ〜!!またこれだよ!!
いつも立ちふさがるこの壁。
「介護保険ならすぐに使えるけど障害は…」
こういうとき、一番たよりになるはずなのがケアマネージャーのはずなのだが、これまた「介護保険ならもれなくつくんですけど障害は…」ということでノーケアマネ状態ですべて自分で調べなくてはならない。
でも調べれば調べるほど情報が錯綜し、どれが正確な情報なのかわからなくなる。
そうこうしているうちに年に一度の介護支援認定の更新時期がきて、福祉事務所の職員がやってきた。
「なにかお困りのことはありませんか?」
大ありだよ!ヽ(`Д´)ノ
ていうか、困ってないことのほうが少ないくらいだよ。
私は綿々と窮状を職員に訴えたが、得られた助けは「通院日の着替えの介助に30分の支援をつけましょう」というものだけ。
いや、それもありがたいけどさー、とりあえずケアマネつけてよ、ケアマネ。
もう会う人ごとに一から説明しなきゃいけないこの苦役から私を解放してください。
そしたら「この春から障害の人にもケアマネをつけていこうという取り組みが始まっていて、この3年ですべての対象者にケアマネをつけることを目標としている」というので、「その話は私もきいたが、いつになったらまわってくるのか、どういう基準でその順番が選ばれてるのかわからないんでどうしようもない」といったら、なんかくどくどと説明していたが、具体的なことはいっこうにわからなくて結局そこで更新時の面談は終了。
ところがです。
その後、たまたま事業所代表の雪村さん(仮名)と話したら、「それは順番を待つのではなく、利用者が希望した時点で契約に進むんですよ。福祉事務所からそう聞きませんでしたか?」と言われて仰天。
雪村さんと福祉事務所の間では「小春さんは自分で情報収集できるみたいだし、自立できてるということで相談支援は必要ないでしょう」という認識になっているときいてさらに仰天。
なに勝手に決めてんだよ!
能力の問題じゃないんだよ。制度もろくに整備されてないのにどうやって収集しろと?
それに外出するのも文字書くのもままならないのになんで自立できてるっていう判断になっちゃうわけ?
私がほしいのは、物理的に動けない私の代わりに事務手続きを迅速にこなしてくれる人。そして集めた断片情報をオーガナイズしてくれるプロだ。
どうしてわかってくれないの?
というわけで、またまた最初から窮状をくどくどと訴えたら、「そういうことですか。よくわかりました。たしかにそれは大変ですね。もしよければ私が相談支援をひきうけましょうか」とようやく話が通じた。
うわーーん。よかった。これで投げたロープをようやくつかんでくれる人が現れたよ〜。・゚・(ノд`)・゚・
相談支援の契約をするには福祉事務所を通さなければならないので連絡を待ってくれと言われ、それからしばらく連絡を待った。
が、次に福祉事務所からきた連絡の内容は耳を疑うものだった。
「相談支援を受けるには更新の時期のタイミングで契約しなくてはならないんです」
は????
「なので、今回はもう更新したばかりということで相談支援の契約はできません」
は………いやいやいや。私、更新の面談時にさんざん訴えたよね。相談支援受けたいって言ったよね。今契約できるなんて一言もいってなかったよね。そんな大事なこと、なんで最初にいわないの?契約させたくないの?そうでしょ。そうだよね?なるべくサービスとか提供したくないんだよね。いやもうそうとしか思えないし。
「上司に相談してみたんですがやっぱりだめだそうです」
いやーーーーーーーーー!!!!!
なにそれ。ありえない。ありえない。ありえない。
本当は罵倒したかったけど、福祉事務所を敵にまわすわけにはいかないのでぐっとこらえ、つとめて冷静に応対した。
彼女もさすがにちょっと気まずいと思ったのか「私にできることがあれば相談支援のお手伝いはします」と言ってきた。
「あんたにできることってなんだよーーーー( *`ω´) !!!」と喉まで出かかったがやっぱりこらえた。
こうなったらやってもらおうじゃないか。とことんやってもらうぜ。
私は鬼コーチの気分になった。
それからまもなく、聖路加のソーシャルワーカーから一条の光明となる知らせが届いた。
「小春さん。大丈夫です。訪問リハビリ受けられるみたいですよ。日が重ならなければ通院と訪問の併用もできるそうです」
それは意識が遠のく遭難者の耳に届いた救助犬の吠え声のようだった。
むちゃくちゃ間があいてしまいましたm(_ _)m
前にも書いたように4月に「いやいやいや無理でしょこれ無理無理!」っていうくらい大きなイベントが重なり、それはなんとか通り抜けたんだけど、それから疲労と気候不順が重なって、絶不調の日々を過ごしておりました。
その間にもいろいろなことがありました。
とりあえず、一番動きのあったことから報告します。
障害年金の申請が通りました\(^o^)/
初めて年金申請手続きの方法について役所に相談にいったのが去年の5月31日。すべての書類が揃って申請できたのが10月28日。
それから延々と待たされ続け、今年の2月の半ばに「審査に大変時間がかかっておりますのでもう少々お待ちください」という封書が届き、さらに待ち続けて3月22日、ようやく認可がおりました。
申請に5ヶ月、申請してからまた5ヶ月。なんだかんだで1年近くかかったよ。
初診認定がいつになるかによって支給額も全然変わってしまうので、最悪年金が納められなかった空白期間に初診認定されたらゼロになっちゃうかも…とドキドキだったのだが、一番最初の、まだ会社に勤めていた時の初診日が認められたため、厚生年金が適用されることになった。
あーーーーー、た・す・か・っ・たーーー!
さっそく申請時にお世話になった一条先生(仮名)とSSD(医療社会事業課)のソーシャルワーカーさんに報告したが、一条先生は「は?まだ通ってなかったの?」と忘却モード。
一方、ソーシャルワーカーさんは「おりたんですね。よかった〜!ほんとよかった。小春さん、あんなに頑張ってたのにおりなかったら私なんて言ったらいいかってすごく悩んでたんですよ〜」と泣きださんばかりに、いやもう私以上に歓喜してくれました。
ここまで喜ばれると「ああ、この人、口には出さねど『このケースはおりないんじゃないか』って悲観的だったのね」とあらためて思ってしまった。
通るのが当然と思っているドクターとの温度差に「なるほど。これが現場の空気ってやつなんだな」と実感。
と思ってたら「一条先生が書いてくださったお陰ですね。普通、なかなか自分が最初から診てきたわけじゃない患者さんの診断書って先生は書きたがらないんですよ。一条先生でほんとによかったですね!」と言われた。
そうか。先生なら書いてくれるのが当然と思ってた自分との温度差に反省。
しかし、年金の問題はこれで終わりではなかった。
障害年金を受け取るということは、将来国民年金は受け取れなくなるということだ(どちらか額の多い方のみしか受け取れないので)。
つまり支給決定と同時に、現在払っている国民年金を払わなくてもよくなるってことなんだけど、これまた放っておけば切り替えてくれるわけではなくて、こちらから支払い停止の手続きをしなければならない。
障害年金のリーフレットのようなものには「払わなくてもよくなりますよ」的なことは書いてあるんだけど、「そのためにどこそこでこういう手続きが必要になりますよ」的なことは書かれていない。
とりあえず区役所の国民年金係に電話してどうすればいいのか聞いたら「書類を渡すから来い」と言われた。
だ・か・ら〜!ヽ(`Д´)ノ
なんでそういちいち気軽に呼びつけるわけ?
外出が大変な障害者だから障害年金申請して、障害年金がおりたから年金支払い免除の手続き申請してるんだよ。
この一年、申請手続きにどれだけエネルギー費やしたと思ってるんだよ。
郵送しろよ、郵送。
というニュアンスを込めつつ「郵送ではだめでしょうか?」と聞いてみたらあっさり「いいですよ」と言われた。
いいなら最初からそうして!!!
というわけで、年金関係は1年仕事になったが無事終了した。
…と思ったら今度は介護支援認定の更新の通知が……!
えーーー、もう一年なの?!
そういや、認可がおりたのは6月末だったな。
事業所探しに手間取って実際に利用できたのは半年だけだったけど。
あれ?……通知どこやったっけ?
なんかもう書類があとからあとからくるんで開封も追いつかない状態なんですけど。
ヘルパーさんも書類の整理までは手伝ってくれないし。
最近は右手の指にも力が入りにくくなってきて、書類探しは拷問。
…と思ったら今度はガソリン代助成の更新通知が……!
これも領収書だけがたまってまだ一回も利用してないよ(ToT)
もう……いや……ORZ
どこまで続くのこの無間地獄。。。
前にも書いたように4月に「いやいやいや無理でしょこれ無理無理!」っていうくらい大きなイベントが重なり、それはなんとか通り抜けたんだけど、それから疲労と気候不順が重なって、絶不調の日々を過ごしておりました。
その間にもいろいろなことがありました。
とりあえず、一番動きのあったことから報告します。
障害年金の申請が通りました\(^o^)/
初めて年金申請手続きの方法について役所に相談にいったのが去年の5月31日。すべての書類が揃って申請できたのが10月28日。
それから延々と待たされ続け、今年の2月の半ばに「審査に大変時間がかかっておりますのでもう少々お待ちください」という封書が届き、さらに待ち続けて3月22日、ようやく認可がおりました。
申請に5ヶ月、申請してからまた5ヶ月。なんだかんだで1年近くかかったよ。
初診認定がいつになるかによって支給額も全然変わってしまうので、最悪年金が納められなかった空白期間に初診認定されたらゼロになっちゃうかも…とドキドキだったのだが、一番最初の、まだ会社に勤めていた時の初診日が認められたため、厚生年金が適用されることになった。
あーーーーー、た・す・か・っ・たーーー!
さっそく申請時にお世話になった一条先生(仮名)とSSD(医療社会事業課)のソーシャルワーカーさんに報告したが、一条先生は「は?まだ通ってなかったの?」と忘却モード。
一方、ソーシャルワーカーさんは「おりたんですね。よかった〜!ほんとよかった。小春さん、あんなに頑張ってたのにおりなかったら私なんて言ったらいいかってすごく悩んでたんですよ〜」と泣きださんばかりに、いやもう私以上に歓喜してくれました。
ここまで喜ばれると「ああ、この人、口には出さねど『このケースはおりないんじゃないか』って悲観的だったのね」とあらためて思ってしまった。
通るのが当然と思っているドクターとの温度差に「なるほど。これが現場の空気ってやつなんだな」と実感。
と思ってたら「一条先生が書いてくださったお陰ですね。普通、なかなか自分が最初から診てきたわけじゃない患者さんの診断書って先生は書きたがらないんですよ。一条先生でほんとによかったですね!」と言われた。
そうか。先生なら書いてくれるのが当然と思ってた自分との温度差に反省。
しかし、年金の問題はこれで終わりではなかった。
障害年金を受け取るということは、将来国民年金は受け取れなくなるということだ(どちらか額の多い方のみしか受け取れないので)。
つまり支給決定と同時に、現在払っている国民年金を払わなくてもよくなるってことなんだけど、これまた放っておけば切り替えてくれるわけではなくて、こちらから支払い停止の手続きをしなければならない。
障害年金のリーフレットのようなものには「払わなくてもよくなりますよ」的なことは書いてあるんだけど、「そのためにどこそこでこういう手続きが必要になりますよ」的なことは書かれていない。
とりあえず区役所の国民年金係に電話してどうすればいいのか聞いたら「書類を渡すから来い」と言われた。
だ・か・ら〜!ヽ(`Д´)ノ
なんでそういちいち気軽に呼びつけるわけ?
外出が大変な障害者だから障害年金申請して、障害年金がおりたから年金支払い免除の手続き申請してるんだよ。
この一年、申請手続きにどれだけエネルギー費やしたと思ってるんだよ。
郵送しろよ、郵送。
というニュアンスを込めつつ「郵送ではだめでしょうか?」と聞いてみたらあっさり「いいですよ」と言われた。
いいなら最初からそうして!!!
というわけで、年金関係は1年仕事になったが無事終了した。
…と思ったら今度は介護支援認定の更新の通知が……!
えーーー、もう一年なの?!
そういや、認可がおりたのは6月末だったな。
事業所探しに手間取って実際に利用できたのは半年だけだったけど。
あれ?……通知どこやったっけ?
なんかもう書類があとからあとからくるんで開封も追いつかない状態なんですけど。
ヘルパーさんも書類の整理までは手伝ってくれないし。
最近は右手の指にも力が入りにくくなってきて、書類探しは拷問。
…と思ったら今度はガソリン代助成の更新通知が……!
これも領収書だけがたまってまだ一回も利用してないよ(ToT)
もう……いや……ORZ
どこまで続くのこの無間地獄。。。
春にまた正念場な出来事が控えているため、更新するエネルギーがなかなか確保できなかったけどここで報告。
事業所がようやく決まり、ヘルパーさんが来てくれるようになった。
そこを選んだ理由は「障害者支援を昔から多くやっている」と知り合いの療法士さんから聞いたからだ。
制度上、どこの事業所も障害者支援と介護支援、両方看板をあげているところがほとんどだが、もともとどっちから発生したかによって「慣れてる」かどうかの差はあるはずなのでこれは重要な情報だ。
そこよりも家に近い事業所はたくさんあって、福祉事務所では「より近くを選ぶのがベター」と言われたけれど、こっちが通うわけじゃないし、そこは充分圏内だと判断し、とにかく話だけでも聞ければ…と12月に入ったとあたりでダメもとで電話してみたらあっさり「いいですよ」と言われ、向こうから訪問してくれた。
代表の雪村さん(仮名)はとてもサバサバした女性。
区役所からおりた認定通知に書かれた「入浴介助30分+整頓30分×週1回」という内容を見た第一声が「せこっ!」。
笑った
いや、そうだよね。私も「週にたった1時間??」と呆然としたんだけど、そういうものなのかなと思って…。
プロの目から見てもそう思うんだ。とちょっと安心。
実際、試しに何度かやってみてくれたんだけど、どんなにてきぱきやっても入浴介助だけで1時間はかかる。
机上の空論とはまさにこのこと。
「これ、2時間×2回は必要ですよ。最低でも1.5時間×2回。それでもギリギリです」というやいなや、すぐさま福祉事務所の担当者に事情を話し、時間を増やすようかけあってくれた雪村さん。
雪村さんのアクションにより、さっそく年明け早々福祉事務所の担当者が、何にどのくらい時間がかかるのかを再確認しに来た。
……といってもその担当者が実際にやってみるわけでもやっているところを見学する訳でもない。ただ話をきくだけなんだけど。
大丈夫かなーと思いつつ待っていたら福祉事務所から電話がきた。
「会議にかけた結果、週に2回、2時間と1.5時間、合計3.5時間ということになりましたので」
これまた……せ…こ…い<(_ _)>
刻むなあ…(^_^;)
介護保険は1割負担だけど、身障者の自立支援は全額国が負担するので、削れるだけ削ろうっていう姿勢なんでしょうけど。
雪村さんが提示した具体的なケアプランとしては、まず身体介助に1時間(自分では充分洗いきれない右半身とか背中などを重点的に洗ってもらって洗髪→保湿剤を塗布してドライヤーで髪を乾燥)、家事支援に30分(洗濯物干し&裏返った衣類を直す→床や棚の清掃→トイレと洗面所の清掃)で合計1.5時間を週2回。
ただこれだと余計なことはいっさいやる余裕がないのでプラス30分ほしいという感じ(梱包を解くとか、加湿器の水の入れ替えとか滞っていることは無数にあるので)。
でもただ漠然と「あと30分プラスしていろいろ」という言い方では通らないので、私は具体的に「布団干しをしてほしい」とオーダーした。
布団干しってどのくらいの頻度でやるのか人それぞれで差があると思うけど、私は週一回、シーツとカバーを全交換している。
と言ったら「普通は日に当てるだけで週一交換までしない」と言われた。
いや、普通って何を基準に…と思ったけど、身体介助に比べると家事支援は要望がなかなか通りにくいため、「布団干し」じたいが特別な家事の範疇になってしまうらしい。
なので、「私は喘息持ちでハウスダストアレルギーなので、普通よりもホコリ除去に気を遣っているんです」と主張してみたら通った。
その分が増えた30分ということらしい。
とにかくこれでスタートすることにした。
そして2ヶ月……。
ヘルパーさんが入ったというとみんな「よかったね。助かるでしょ」と言うのだが、正直疲労はいっそう増している。
まず、これは予測していたことだけど、他人が家の中に入ってくるというのは慣れるまでは疲れる。
第二に、やってもらうといっても黙ってボーッとしてるだけですべてが終わるわけでは当然なくて、掃除にしても入浴にしても洗濯にしてもその家のやり方とか段取りとかがあるので、「置いてある位置」「使う順番」「補充の仕方」などいちいち教えたり指示したりしなくてはならない。
「これはここに」「次はこれで」「それはそっちを使って」などなど、言葉で言っても説明が大変なので結局つきっきりで一緒に動き回ることになる。
担当は4名ほどいるので、1人が慣れたと思うとまた新しい人が来てもう一度…という繰り返しで、いつまでたっても同じことを説明しなきゃいけない状況。
そして第三ですが……まあこれも当然といえば当然なんだけど、同じ事業所でもヘルパーさんによってレベルの差が……。
皆さん、人柄は良い方ばかりなのでそれは本当にありがたく思っているのですが、技量はまたべつですからねー。
しかも「ここはこういう順番に変えてもらっていいですか?」とか言うだけで改善されるような問題ならまだいいんだけど、純粋に技量の問題だとどうしようもなくて。
最初は計画をたてるためにベテランのヘルパーさんが来てくれて、それはベテランですから問題なく終わるんですが、「あ、これでいけるね」って感じで計画たてられても、あとから来るベテランじゃないヘルパーさんとでは全然時間内にできる作業の質も量も違うわけで…。
時間がかかるのはまだ我慢できるにしても、質のほうは…特に身体介助は……正直しんどい。
「ではシャンプーしまーす」
あ…もっと髪の毛濡らしてからでないと…。
「失礼しまーす」
あ…髪の上に直接…?
手にうけてからでないと…
「あれ?あんまり泡立たないですねー」
だから〜
「もうちょっと足しますね〜(ぷぎゅ)」
あー、そのシャンプー高いのに〜
「あれ?だめだ。一回流しますね」
えーーー!
「(がしがしがしがし)強さはこのくらいでいいですか〜?」
いいけど、髪が…ひっぱられて指にからまってる……い、痛いんスけど…
あと泡が…たれてくる……たれてくる…。
「流しまーす(じゃーー)」
顔が〜!…集中豪雨に〜!
「乾かしま〜す(ごーーーーっ)」
いや、手櫛で乾かさなきゃ表面しか乾かないでしょ。
「乾いてないとこありますかー?」
大ありだよ!どこもかしこも乾いてないし!
「あ、すいません。中のほうですね(ごごーーーっ)」
あ…ぢっっっ!!!
耳が……や…け…るぅ
「失礼しました〜。こーかな(ごごごーーーっ)」
乾いたけど……なんなのこの爆発したような頭は
とまあこんな感じがずっと続く。
もちろん、ちゃんとしてるヘルパーさんがほとんどなんですが……これは特にひどい例なんですが……うーん。
お陰で美容師さんの偉大さがよーくわかったよ。
もちろん、ダメだしはそれなりにしてるんだけど、ダメだしってすごい疲れるんだよ。
なんか小姑ババアになったみたいで気分悪いし。
ヘルパーさんの作業は午前中で終わるんだけど、今のところ午後は疲れて使い物にならん。
夕方になると爆睡
で、夜眠れなくなるという繰り返し。
介護はされるほうも技術がいるんだな。
そして体力も必要だと痛感。
事業所がようやく決まり、ヘルパーさんが来てくれるようになった。
そこを選んだ理由は「障害者支援を昔から多くやっている」と知り合いの療法士さんから聞いたからだ。
制度上、どこの事業所も障害者支援と介護支援、両方看板をあげているところがほとんどだが、もともとどっちから発生したかによって「慣れてる」かどうかの差はあるはずなのでこれは重要な情報だ。
そこよりも家に近い事業所はたくさんあって、福祉事務所では「より近くを選ぶのがベター」と言われたけれど、こっちが通うわけじゃないし、そこは充分圏内だと判断し、とにかく話だけでも聞ければ…と12月に入ったとあたりでダメもとで電話してみたらあっさり「いいですよ」と言われ、向こうから訪問してくれた。
代表の雪村さん(仮名)はとてもサバサバした女性。
区役所からおりた認定通知に書かれた「入浴介助30分+整頓30分×週1回」という内容を見た第一声が「せこっ!」。
笑った
いや、そうだよね。私も「週にたった1時間??」と呆然としたんだけど、そういうものなのかなと思って…。
プロの目から見てもそう思うんだ。とちょっと安心。
実際、試しに何度かやってみてくれたんだけど、どんなにてきぱきやっても入浴介助だけで1時間はかかる。
机上の空論とはまさにこのこと。
「これ、2時間×2回は必要ですよ。最低でも1.5時間×2回。それでもギリギリです」というやいなや、すぐさま福祉事務所の担当者に事情を話し、時間を増やすようかけあってくれた雪村さん。
雪村さんのアクションにより、さっそく年明け早々福祉事務所の担当者が、何にどのくらい時間がかかるのかを再確認しに来た。
……といってもその担当者が実際にやってみるわけでもやっているところを見学する訳でもない。ただ話をきくだけなんだけど。
大丈夫かなーと思いつつ待っていたら福祉事務所から電話がきた。
「会議にかけた結果、週に2回、2時間と1.5時間、合計3.5時間ということになりましたので」
これまた……せ…こ…い<(_ _)>
刻むなあ…(^_^;)
介護保険は1割負担だけど、身障者の自立支援は全額国が負担するので、削れるだけ削ろうっていう姿勢なんでしょうけど。
雪村さんが提示した具体的なケアプランとしては、まず身体介助に1時間(自分では充分洗いきれない右半身とか背中などを重点的に洗ってもらって洗髪→保湿剤を塗布してドライヤーで髪を乾燥)、家事支援に30分(洗濯物干し&裏返った衣類を直す→床や棚の清掃→トイレと洗面所の清掃)で合計1.5時間を週2回。
ただこれだと余計なことはいっさいやる余裕がないのでプラス30分ほしいという感じ(梱包を解くとか、加湿器の水の入れ替えとか滞っていることは無数にあるので)。
でもただ漠然と「あと30分プラスしていろいろ」という言い方では通らないので、私は具体的に「布団干しをしてほしい」とオーダーした。
布団干しってどのくらいの頻度でやるのか人それぞれで差があると思うけど、私は週一回、シーツとカバーを全交換している。
と言ったら「普通は日に当てるだけで週一交換までしない」と言われた。
いや、普通って何を基準に…と思ったけど、身体介助に比べると家事支援は要望がなかなか通りにくいため、「布団干し」じたいが特別な家事の範疇になってしまうらしい。
なので、「私は喘息持ちでハウスダストアレルギーなので、普通よりもホコリ除去に気を遣っているんです」と主張してみたら通った。
その分が増えた30分ということらしい。
とにかくこれでスタートすることにした。
そして2ヶ月……。
ヘルパーさんが入ったというとみんな「よかったね。助かるでしょ」と言うのだが、正直疲労はいっそう増している。
まず、これは予測していたことだけど、他人が家の中に入ってくるというのは慣れるまでは疲れる。
第二に、やってもらうといっても黙ってボーッとしてるだけですべてが終わるわけでは当然なくて、掃除にしても入浴にしても洗濯にしてもその家のやり方とか段取りとかがあるので、「置いてある位置」「使う順番」「補充の仕方」などいちいち教えたり指示したりしなくてはならない。
「これはここに」「次はこれで」「それはそっちを使って」などなど、言葉で言っても説明が大変なので結局つきっきりで一緒に動き回ることになる。
担当は4名ほどいるので、1人が慣れたと思うとまた新しい人が来てもう一度…という繰り返しで、いつまでたっても同じことを説明しなきゃいけない状況。
そして第三ですが……まあこれも当然といえば当然なんだけど、同じ事業所でもヘルパーさんによってレベルの差が……。
皆さん、人柄は良い方ばかりなのでそれは本当にありがたく思っているのですが、技量はまたべつですからねー。
しかも「ここはこういう順番に変えてもらっていいですか?」とか言うだけで改善されるような問題ならまだいいんだけど、純粋に技量の問題だとどうしようもなくて。
最初は計画をたてるためにベテランのヘルパーさんが来てくれて、それはベテランですから問題なく終わるんですが、「あ、これでいけるね」って感じで計画たてられても、あとから来るベテランじゃないヘルパーさんとでは全然時間内にできる作業の質も量も違うわけで…。
時間がかかるのはまだ我慢できるにしても、質のほうは…特に身体介助は……正直しんどい。
「ではシャンプーしまーす」
あ…もっと髪の毛濡らしてからでないと…。
「失礼しまーす」
あ…髪の上に直接…?
手にうけてからでないと…
「あれ?あんまり泡立たないですねー」
だから〜
「もうちょっと足しますね〜(ぷぎゅ)」
あー、そのシャンプー高いのに〜
「あれ?だめだ。一回流しますね」
えーーー!
「(がしがしがしがし)強さはこのくらいでいいですか〜?」
いいけど、髪が…ひっぱられて指にからまってる……い、痛いんスけど…
あと泡が…たれてくる……たれてくる…。
「流しまーす(じゃーー)」
顔が〜!…集中豪雨に〜!
「乾かしま〜す(ごーーーーっ)」
いや、手櫛で乾かさなきゃ表面しか乾かないでしょ。
「乾いてないとこありますかー?」
大ありだよ!どこもかしこも乾いてないし!
「あ、すいません。中のほうですね(ごごーーーっ)」
あ…ぢっっっ!!!
耳が……や…け…るぅ
「失礼しました〜。こーかな(ごごごーーーっ)」
乾いたけど……なんなのこの爆発したような頭は
とまあこんな感じがずっと続く。
もちろん、ちゃんとしてるヘルパーさんがほとんどなんですが……これは特にひどい例なんですが……うーん。
お陰で美容師さんの偉大さがよーくわかったよ。
もちろん、ダメだしはそれなりにしてるんだけど、ダメだしってすごい疲れるんだよ。
なんか小姑ババアになったみたいで気分悪いし。
ヘルパーさんの作業は午前中で終わるんだけど、今のところ午後は疲れて使い物にならん。
夕方になると爆睡
で、夜眠れなくなるという繰り返し。
介護はされるほうも技術がいるんだな。
そして体力も必要だと痛感。
正念場な出来事が11月に終わった。
できる限りのことはやった。
案の定、乳がんのサイズは見事にリバウンドして大きくなっていた。
あらためて、「もうストレスフルな仕事はできないな」「するなら命縮めてもいいと思えるくらいの仕事限定だな」と覚悟を決めた。
4月にもうひとつ正念場があるが、これを越えたら「休む」というよりは、生活のすべてを「縮小」していかなければならないだろう。
危険な状態を何度も繰り返しつつもなんとか風邪はひかずに持ちこたえているが、長期間にわたって続いた緊張がなかなかとれず、夏から続いていた食欲不振は12月半ばまで続いた(今は復活したが)。
むくみは思ったほど悪化してないけれど、腕の重さは前よりもひどくなり、不眠や夜外出など、ちょっとでも体に負荷がかかることがあるとすぐに体中どこもかしこもギシギシ痛くなる。
一人で身支度を整えたり電車に乗ったり食事をしたりするのに、どのくらいの時間とエネルギーが費やされ、どこでつまづくのか、自分でも予測がつかなくなってきた。
ひどいときには、着替えるだけで疲れてしばらく動けなくなることもある。
外へ出れば出たで、外見上は健常者と変わらないので、分刻みで襲ってくる障害とずっと戦い続けなければならない。
人と待ち合わせをしても時間通りに指定場所に行けないことも増えてきた。
そんなわけで、外出することへの敷居がどんどん高くなっている。
もう鍼と通院以外はほとんどひきこもりモードだ。
それでもリハビリ前には必ず一条先生(仮名)の診察を受けなければならない。
あくまでも形式的なものにすぎないのだが、そうしないとリハビリが受けられない規則になっているのでしかたがない。
しかし、今、病院が私にできることなんて何もないのだ。
毎週毎週「どうですか」と聞かれても、「どうせ何言っても答えはわかってるし」と思うと何も言えない。
なのに、先週は珍しくまともに愚痴ってしまった。
多分、大丈夫じゃないのに大丈夫な顔をし続ける温度差に耐えられなくなっていたのだと思う。
が、すぐに後悔した。
一条先生には本当に感謝している。
誰も診たがらない漂流患者である私を拾ってくれて、治療しないという意志をも尊重してくれて、主治医になってくれた。
自分が治療した患者でもないのに、面倒な書類もいやな顔ひとつせずにたくさん書いてくれた。
だから不満を言うつもりはまったくない。
…と言いつつ、こんなことをこんなところで書くと結局文句を言っていることになってしまうんだろうけど、これは本当に言わずにはいられないので言わせてもらう。
私につきささったのはこの言葉だ。
「なくなったものばかり見ててもしょうがない。残されたものに目を向けて生きていかなきゃ」
多分これ、特別なセリフではなく、多くの人がふっとなにげなく口にしちゃってる言葉だと思う。
一見、もっともらしいし、事実正論なのだろう。
でも、この言葉を言われた瞬間、私は「パンがなければお菓子を食べればいいのに」とマリー・アントワネットに言い放たれたパリの主婦と同じ気持ちになった。
「パンもお菓子も食べ放題のあんたに言われたくないよ」
という言葉が喉元まで出かかった。
と同時に、「なくなったもの=なくなったもの」「残ったもの=残ったもの」というセパレートな考え方にまたまた西洋医学的思考の匂いを感じたのだった。
「なくなったもの」と「残ったもの」は決して別々のものじゃない。
「なくなったもの」は「残ったもの」の形も変質させている。
「残ったもの」なんて言葉で簡単にひとくくりにしてほしくなかった。
でもそんなことを言えば「だって自分には障害者の気持ちなんてわかんないし」「具体的にどうすればいいのかわかんないし」「自分には何もできないし」と返されて終わりになるのは目に見えている。
というか、それに近いことをすでに口にしていたし。
それって「何も言えない」んじゃなくて「何が言えるのか」「何を言ってはいけないのか」を考えることじたいを放棄してるんじゃないの?
申し訳ないけどそうとしか思えなかった。
先生は終始「なにをどうしたいの?」と答えをこっち側に求めてくる。
それがどれだけ私にとって負担なのか、おそらく考えてもいないんだと思う。
一人で動けないということは、常に他人に「判断を求められる」ということだ。
「これ、どこに置きますか?」
「これ、どっちを先に使いますか?」
「これ、どうやって干しますか?」
「これ、開けちゃっていいですか?」
自分でできればいちいち考えなくてもいいことを、他人にやってもらうときにはすべて言葉にして伝えなくてはいけない。
まあ、適当なときに気が向いたらそのときの気分で…という選択肢がない。
それだけで日常生活クタクタなのに、そのうえまだ私に答えを出させようっていうの?
ていうか、私は「こうしたらいいよ」なんてスッキリした「答え」を求めているわけじゃないんだよ。
「答え」を出せるのは自分だけということも言われなくてもわかってますとも。
でもそんなの簡単に出せるもんじゃないでしょ。
ただ、疲れてるんだよ。
ちょっとでもいいからシェアしてほしいんだけなんだよ。
それだけのことなのになぜさらに上から新しい荷物を乗せてくるわけ?
ネガティブなものをシェアすることに対して、どうしてみんなそんなにビクビクと及び腰になるんだろうか。
「いいこともあるよ」
「前向きなこと考えようよ」
なぜ、そういうポジティブな言葉に逃げようとするのか。
なぜ、ネガティブなことは「なかったこと」「触れちゃいけないこと」「見なかったこと」にしようとするのか。
そんなことしたって人生はリセットなんてできないよ。
昼間だって月は出てるんだよ。
こういうこと書くとまた「先生はよかれと思って言ったんだろう」「悪気はない」「精一杯やっている」と擁護しようとする人が出てくるかもしれない。
でも擁護することじたい、自分や自分の家族は絶対にそっちにいくことはない、安全圏にいると思ってる証拠なんだよね。
大震災が起こってよくわかったはずでしょ?
安全圏なんてないって。
それでもやっぱりネガティブを排除する方法論しか持たない人は変わらないんですね。
もう病院にも医者にも期待できないとあれほど思い知らされたのに、まだ期待を残していた自分にもがっかりしたよ。
世の中から、「きれいごと」「言い訳」「開き直り」を除いたらいったい何が残るんだろうね。
「言い訳」「開き直り」をまったくしないというのはそれこそ「きれいごと」かもしれないが、この3つの中で一番人を傷つけるのは間違いなく「きれいごと」だと思う。
できる限りのことはやった。
案の定、乳がんのサイズは見事にリバウンドして大きくなっていた。
あらためて、「もうストレスフルな仕事はできないな」「するなら命縮めてもいいと思えるくらいの仕事限定だな」と覚悟を決めた。
4月にもうひとつ正念場があるが、これを越えたら「休む」というよりは、生活のすべてを「縮小」していかなければならないだろう。
危険な状態を何度も繰り返しつつもなんとか風邪はひかずに持ちこたえているが、長期間にわたって続いた緊張がなかなかとれず、夏から続いていた食欲不振は12月半ばまで続いた(今は復活したが)。
むくみは思ったほど悪化してないけれど、腕の重さは前よりもひどくなり、不眠や夜外出など、ちょっとでも体に負荷がかかることがあるとすぐに体中どこもかしこもギシギシ痛くなる。
一人で身支度を整えたり電車に乗ったり食事をしたりするのに、どのくらいの時間とエネルギーが費やされ、どこでつまづくのか、自分でも予測がつかなくなってきた。
ひどいときには、着替えるだけで疲れてしばらく動けなくなることもある。
外へ出れば出たで、外見上は健常者と変わらないので、分刻みで襲ってくる障害とずっと戦い続けなければならない。
人と待ち合わせをしても時間通りに指定場所に行けないことも増えてきた。
そんなわけで、外出することへの敷居がどんどん高くなっている。
もう鍼と通院以外はほとんどひきこもりモードだ。
それでもリハビリ前には必ず一条先生(仮名)の診察を受けなければならない。
あくまでも形式的なものにすぎないのだが、そうしないとリハビリが受けられない規則になっているのでしかたがない。
しかし、今、病院が私にできることなんて何もないのだ。
毎週毎週「どうですか」と聞かれても、「どうせ何言っても答えはわかってるし」と思うと何も言えない。
なのに、先週は珍しくまともに愚痴ってしまった。
多分、大丈夫じゃないのに大丈夫な顔をし続ける温度差に耐えられなくなっていたのだと思う。
が、すぐに後悔した。
一条先生には本当に感謝している。
誰も診たがらない漂流患者である私を拾ってくれて、治療しないという意志をも尊重してくれて、主治医になってくれた。
自分が治療した患者でもないのに、面倒な書類もいやな顔ひとつせずにたくさん書いてくれた。
だから不満を言うつもりはまったくない。
…と言いつつ、こんなことをこんなところで書くと結局文句を言っていることになってしまうんだろうけど、これは本当に言わずにはいられないので言わせてもらう。
私につきささったのはこの言葉だ。
「なくなったものばかり見ててもしょうがない。残されたものに目を向けて生きていかなきゃ」
多分これ、特別なセリフではなく、多くの人がふっとなにげなく口にしちゃってる言葉だと思う。
一見、もっともらしいし、事実正論なのだろう。
でも、この言葉を言われた瞬間、私は「パンがなければお菓子を食べればいいのに」とマリー・アントワネットに言い放たれたパリの主婦と同じ気持ちになった。
「パンもお菓子も食べ放題のあんたに言われたくないよ」
という言葉が喉元まで出かかった。
と同時に、「なくなったもの=なくなったもの」「残ったもの=残ったもの」というセパレートな考え方にまたまた西洋医学的思考の匂いを感じたのだった。
「なくなったもの」と「残ったもの」は決して別々のものじゃない。
「なくなったもの」は「残ったもの」の形も変質させている。
「残ったもの」なんて言葉で簡単にひとくくりにしてほしくなかった。
でもそんなことを言えば「だって自分には障害者の気持ちなんてわかんないし」「具体的にどうすればいいのかわかんないし」「自分には何もできないし」と返されて終わりになるのは目に見えている。
というか、それに近いことをすでに口にしていたし。
それって「何も言えない」んじゃなくて「何が言えるのか」「何を言ってはいけないのか」を考えることじたいを放棄してるんじゃないの?
申し訳ないけどそうとしか思えなかった。
先生は終始「なにをどうしたいの?」と答えをこっち側に求めてくる。
それがどれだけ私にとって負担なのか、おそらく考えてもいないんだと思う。
一人で動けないということは、常に他人に「判断を求められる」ということだ。
「これ、どこに置きますか?」
「これ、どっちを先に使いますか?」
「これ、どうやって干しますか?」
「これ、開けちゃっていいですか?」
自分でできればいちいち考えなくてもいいことを、他人にやってもらうときにはすべて言葉にして伝えなくてはいけない。
まあ、適当なときに気が向いたらそのときの気分で…という選択肢がない。
それだけで日常生活クタクタなのに、そのうえまだ私に答えを出させようっていうの?
ていうか、私は「こうしたらいいよ」なんてスッキリした「答え」を求めているわけじゃないんだよ。
「答え」を出せるのは自分だけということも言われなくてもわかってますとも。
でもそんなの簡単に出せるもんじゃないでしょ。
ただ、疲れてるんだよ。
ちょっとでもいいからシェアしてほしいんだけなんだよ。
それだけのことなのになぜさらに上から新しい荷物を乗せてくるわけ?
ネガティブなものをシェアすることに対して、どうしてみんなそんなにビクビクと及び腰になるんだろうか。
「いいこともあるよ」
「前向きなこと考えようよ」
なぜ、そういうポジティブな言葉に逃げようとするのか。
なぜ、ネガティブなことは「なかったこと」「触れちゃいけないこと」「見なかったこと」にしようとするのか。
そんなことしたって人生はリセットなんてできないよ。
昼間だって月は出てるんだよ。
こういうこと書くとまた「先生はよかれと思って言ったんだろう」「悪気はない」「精一杯やっている」と擁護しようとする人が出てくるかもしれない。
でも擁護することじたい、自分や自分の家族は絶対にそっちにいくことはない、安全圏にいると思ってる証拠なんだよね。
大震災が起こってよくわかったはずでしょ?
安全圏なんてないって。
それでもやっぱりネガティブを排除する方法論しか持たない人は変わらないんですね。
もう病院にも医者にも期待できないとあれほど思い知らされたのに、まだ期待を残していた自分にもがっかりしたよ。
世の中から、「きれいごと」「言い訳」「開き直り」を除いたらいったい何が残るんだろうね。
「言い訳」「開き直り」をまったくしないというのはそれこそ「きれいごと」かもしれないが、この3つの中で一番人を傷つけるのは間違いなく「きれいごと」だと思う。
胃がちぎれるように痛くなって、血尿が出た翌日。
私は一条先生(仮名)の外来に駆け込み、「入院させてくれ〜」と訴えた。
が、答えは「NO」。
理由は「結石にする治療はない。治療しないのに入院させるわけにはいかない」。
え〜〜〜!!!!
痛みをとるのだって治療じゃないの?
胃がやられて鎮痛剤飲めないんだから、点滴で入れるしかないじゃん!
と言ったら「痛くなったら来てください」と警察のようなことを言われる。
だ・か・ら〜!
えーと……ですね、近日中に起こるであろう突発的な痛みに対する恐怖っていうのがまずあるわけですよ。
それはわかりますよね。
で、それがきたとき、病院に来るだけでも大変なわけですよ。
さらに待たされるわけですよ。
先生の前にたどりつき、事情を訴えられる状況になるまで関門がいくつもあるわけですよ。
そのうえ、血管つぶれちゃってて点滴もなかなか入らないわけですよ。
薬が入る頃にはもうピークすぎてますよ。ですよね?
今ここにこうやって診察室に入らせてもらえて訴えられる状況にいるっていうのは、先生にとってはいきなり始まる状況にすぎないかもしれないけど、こっちにとっては待って待って待った末に手に入れた「チャンス」なんですよ。
なのに、そんな当たり前の結論だけ言われて終わりにされても……!
というようなことをくどくど言ったら、
「……じゃあ、ポート埋め込みする?」
えーーー、そっちーーー???
とがっっっっくり脱力_| ̄|○
ポートっていうのは、末梢の血管からラインをとるのが困難な人、あるいは抗がん剤などで血管がボロボロになってるのに頻繁に採血や点滴をおこなわなくてはならない場合に、血流の良い中心静脈(心臓ゆきの一番太い静脈)にカテーテルを埋め込んで作る点滴用ルートのこと。
カテーテルの末端にはシリコン製のリザーバーがついていて、それを鎖骨の下あたりの皮下に埋め込む。
血管を造影しながらカテーテルを進めて行くため、埋め込むためには局所麻酔の手術が必要だが、一回留置すれば血管直結状態が保持されるので、リザーバーに針を刺しさえすればアクセスし放題。点滴のラインとるのにいちいち静脈探して四苦八苦という苦痛から解放されるという次第。
私が「点滴なかなか入らないし」と言った部分だけをすくいとって返したんだと思うけどそういうことを言ってるんじゃないんだよ。
たしかに、抗がん剤みたいに定期的に点滴が必要な状況になるとか、入退院を繰り返すような状況になったら私もポート留置は考えなくもない。
でも、今回はとりあえず「今動いて出ようとしている石」がどうにかなるまでどうにかしてっていう話だから、そのためだけにポート留置の手術受けるってさすがにそこまではと思うわ。
何年も埋め込みっぱなしというのも抵抗あるし。
一条先生はすっかりその気になって模型を手にマニュアル通りの説明を始めているが、いくら聞いてもそんなに簡単に受けていい手術だとは思えなかった。
「だいたい血管造影する針って通常の点滴針より太いですよね。それ入れるのからして無理っぽくないですか?」
「……」
「まず造影剤入れるルートを確保するためのポート留置が必要ですよね」
自分でも何を言ってるのかよくわからなくなってきた。
「それに鎖骨の下を通過させるっていうけど、私の鎖骨まわり、放射線めいっぱいかけられて左右とも皮膚も動かない状態ですよ。カテーテルなんてほんとに通るんですか?」
「うーーん。たしかに難しいかもしれないけど…」
中心静脈の模型を手に握ったままかたまる先生。
難しいかもしれないけどそこは外科の仕事だから彼らがなんとかするだろうと言いたげな表情だ。
やっぱりこれだけ「治療の後遺症がいっぱいあってできないことややったら危険なことがいっぱいある」って毎回散々訴えても、何かあればまずマニュアル通りの治療をやることに頭がいっちゃうんだな。
たとえ局所麻酔の簡単な手術といっても、メスを入れることに変わりはない。
この鎖骨を実際に自分の手でしっかり触ってみれば、ここにメスを入れようなんて気はたちまち失せると思うんだけど、なんで見もしないで簡単に切れるとか思えるんだろう…。
かなり長い時間ねばったが、結局「ポート埋め込みをするならそのための入院はありだけど、しないなら帰ってね」という結論は変わらず、ブリブリ文句を言いつつ私は撤退した。
まあたしかに「治療ができない以上入院はさせられない」というのは正論かもしれないよ。それはわかるよ。
でもさ、帰すなら帰すでもう少し安心させるようなことを言ってほしいんだよね。
結局こんなに長い時間話してても不安は何一つ解消されてないじゃん。
ただでさえいろいろなもの背負ってて体調に関しては不安満載なんだから、ちょっとした異変でもこっちはドキドキなんだよ。
気休めでもいいから、なんか医者ならではの安心させる言葉がほしいんだよ。
なんかないわけ?そういうの。
……と帰りの車の中でキレ続けていたら、突然、結石経験者の父がポソッと一言。
「もしかして、もう石出てんじゃないの?」
え????
あまりにも予想外の言葉に一瞬耳を疑った。
「昨日の胃の痛み……あれが結石の発作だったんじゃないの?だって今元気だもん」
はっ………たしかに。
言われてみれば、これだけ毒づくエネルギーは昨日まではなかったよ。
気がつけば、胃の固まり感もなくなっているし、体も伸ばせるようになっている。
場所が予想と違ったから(痛むとしたら下腹だと思ってた)、直前に飲んだ鎮痛剤の副作用だとばかり思ってたけど、鎮痛剤の副作用で痛くなるにしては反射時間が早すぎるもんなー。
「腎臓の痛みは広範囲に広がるため場所がつかみにくい」そうなので、「あれがそうだ」と言われればそうかもしれない気がしてきた。
ていうか、もうそれでいいよ。
そのときは半信半疑だったが、激痛を境にすべての症状が軽くなっていったのは事実だった。
なんということだろう。
夕べの血尿は「これからスタート」のサインではなく「これで終了」のサインだったのか?!
もしこれで終わりなら……すげー嬉しいんですけど。
というか、たとえこれがかりそめの希望であったとしても、「そうかもしれない」と思えただけでなんだか一気に気が楽になった。
これだよ!
私が言ってほしかったのはこういう言葉だったんだよ!
……とまた怒りの矛先は診察に戻る。
患者がほしいのは「安心」だ。
それこそ「胃の痛みと思ってるのが結石移動の痛みっていう可能性もあるかも。それ以来全身症状が軽くなってるならその可能性もあるからもう少し様子をみたら?」とか「今度痛くなったらこうしてみてください」とか、いくらでも安心させる言い方はあるだろうに。
ただダーッと薬並べて「痛いらしいけど、結石は治療するもんじゃないからねー」だけじゃこっちだって不安でますます緊張しますよ。
正論言えばいいってもんじゃないんだよ。
診察時間が長いのは、一見良いようにみえるけど、見方を変えれば「なかなか患者を安心させられないから診察を切り上げられない」とも言えるのでは?
後日談。
それから2日後、今度は腰のあたり(前に痛んだ部分よりも明らかに下のほう)がズンズン痛くなったが、鎮痛剤を飲んでみたら普通に収まり、その後は症状が出なくなった。
石の行方はようとして知れない。。。
以上、<完結編>でした。
私は一条先生(仮名)の外来に駆け込み、「入院させてくれ〜」と訴えた。
が、答えは「NO」。
理由は「結石にする治療はない。治療しないのに入院させるわけにはいかない」。
え〜〜〜!!!!
痛みをとるのだって治療じゃないの?
胃がやられて鎮痛剤飲めないんだから、点滴で入れるしかないじゃん!
と言ったら「痛くなったら来てください」と警察のようなことを言われる。
だ・か・ら〜!
えーと……ですね、近日中に起こるであろう突発的な痛みに対する恐怖っていうのがまずあるわけですよ。
それはわかりますよね。
で、それがきたとき、病院に来るだけでも大変なわけですよ。
さらに待たされるわけですよ。
先生の前にたどりつき、事情を訴えられる状況になるまで関門がいくつもあるわけですよ。
そのうえ、血管つぶれちゃってて点滴もなかなか入らないわけですよ。
薬が入る頃にはもうピークすぎてますよ。ですよね?
今ここにこうやって診察室に入らせてもらえて訴えられる状況にいるっていうのは、先生にとってはいきなり始まる状況にすぎないかもしれないけど、こっちにとっては待って待って待った末に手に入れた「チャンス」なんですよ。
なのに、そんな当たり前の結論だけ言われて終わりにされても……!
というようなことをくどくど言ったら、
「……じゃあ、ポート埋め込みする?」
えーーー、そっちーーー???
とがっっっっくり脱力_| ̄|○
ポートっていうのは、末梢の血管からラインをとるのが困難な人、あるいは抗がん剤などで血管がボロボロになってるのに頻繁に採血や点滴をおこなわなくてはならない場合に、血流の良い中心静脈(心臓ゆきの一番太い静脈)にカテーテルを埋め込んで作る点滴用ルートのこと。
カテーテルの末端にはシリコン製のリザーバーがついていて、それを鎖骨の下あたりの皮下に埋め込む。
血管を造影しながらカテーテルを進めて行くため、埋め込むためには局所麻酔の手術が必要だが、一回留置すれば血管直結状態が保持されるので、リザーバーに針を刺しさえすればアクセスし放題。点滴のラインとるのにいちいち静脈探して四苦八苦という苦痛から解放されるという次第。
私が「点滴なかなか入らないし」と言った部分だけをすくいとって返したんだと思うけどそういうことを言ってるんじゃないんだよ。
たしかに、抗がん剤みたいに定期的に点滴が必要な状況になるとか、入退院を繰り返すような状況になったら私もポート留置は考えなくもない。
でも、今回はとりあえず「今動いて出ようとしている石」がどうにかなるまでどうにかしてっていう話だから、そのためだけにポート留置の手術受けるってさすがにそこまではと思うわ。
何年も埋め込みっぱなしというのも抵抗あるし。
一条先生はすっかりその気になって模型を手にマニュアル通りの説明を始めているが、いくら聞いてもそんなに簡単に受けていい手術だとは思えなかった。
「だいたい血管造影する針って通常の点滴針より太いですよね。それ入れるのからして無理っぽくないですか?」
「……」
「まず造影剤入れるルートを確保するためのポート留置が必要ですよね」
自分でも何を言ってるのかよくわからなくなってきた。
「それに鎖骨の下を通過させるっていうけど、私の鎖骨まわり、放射線めいっぱいかけられて左右とも皮膚も動かない状態ですよ。カテーテルなんてほんとに通るんですか?」
「うーーん。たしかに難しいかもしれないけど…」
中心静脈の模型を手に握ったままかたまる先生。
難しいかもしれないけどそこは外科の仕事だから彼らがなんとかするだろうと言いたげな表情だ。
やっぱりこれだけ「治療の後遺症がいっぱいあってできないことややったら危険なことがいっぱいある」って毎回散々訴えても、何かあればまずマニュアル通りの治療をやることに頭がいっちゃうんだな。
たとえ局所麻酔の簡単な手術といっても、メスを入れることに変わりはない。
この鎖骨を実際に自分の手でしっかり触ってみれば、ここにメスを入れようなんて気はたちまち失せると思うんだけど、なんで見もしないで簡単に切れるとか思えるんだろう…。
かなり長い時間ねばったが、結局「ポート埋め込みをするならそのための入院はありだけど、しないなら帰ってね」という結論は変わらず、ブリブリ文句を言いつつ私は撤退した。
まあたしかに「治療ができない以上入院はさせられない」というのは正論かもしれないよ。それはわかるよ。
でもさ、帰すなら帰すでもう少し安心させるようなことを言ってほしいんだよね。
結局こんなに長い時間話してても不安は何一つ解消されてないじゃん。
ただでさえいろいろなもの背負ってて体調に関しては不安満載なんだから、ちょっとした異変でもこっちはドキドキなんだよ。
気休めでもいいから、なんか医者ならではの安心させる言葉がほしいんだよ。
なんかないわけ?そういうの。
……と帰りの車の中でキレ続けていたら、突然、結石経験者の父がポソッと一言。
「もしかして、もう石出てんじゃないの?」
え????
あまりにも予想外の言葉に一瞬耳を疑った。
「昨日の胃の痛み……あれが結石の発作だったんじゃないの?だって今元気だもん」
はっ………たしかに。
言われてみれば、これだけ毒づくエネルギーは昨日まではなかったよ。
気がつけば、胃の固まり感もなくなっているし、体も伸ばせるようになっている。
場所が予想と違ったから(痛むとしたら下腹だと思ってた)、直前に飲んだ鎮痛剤の副作用だとばかり思ってたけど、鎮痛剤の副作用で痛くなるにしては反射時間が早すぎるもんなー。
「腎臓の痛みは広範囲に広がるため場所がつかみにくい」そうなので、「あれがそうだ」と言われればそうかもしれない気がしてきた。
ていうか、もうそれでいいよ。
そのときは半信半疑だったが、激痛を境にすべての症状が軽くなっていったのは事実だった。
なんということだろう。
夕べの血尿は「これからスタート」のサインではなく「これで終了」のサインだったのか?!
もしこれで終わりなら……すげー嬉しいんですけど。
というか、たとえこれがかりそめの希望であったとしても、「そうかもしれない」と思えただけでなんだか一気に気が楽になった。
これだよ!
私が言ってほしかったのはこういう言葉だったんだよ!
……とまた怒りの矛先は診察に戻る。
患者がほしいのは「安心」だ。
それこそ「胃の痛みと思ってるのが結石移動の痛みっていう可能性もあるかも。それ以来全身症状が軽くなってるならその可能性もあるからもう少し様子をみたら?」とか「今度痛くなったらこうしてみてください」とか、いくらでも安心させる言い方はあるだろうに。
ただダーッと薬並べて「痛いらしいけど、結石は治療するもんじゃないからねー」だけじゃこっちだって不安でますます緊張しますよ。
正論言えばいいってもんじゃないんだよ。
診察時間が長いのは、一見良いようにみえるけど、見方を変えれば「なかなか患者を安心させられないから診察を切り上げられない」とも言えるのでは?
後日談。
それから2日後、今度は腰のあたり(前に痛んだ部分よりも明らかに下のほう)がズンズン痛くなったが、鎮痛剤を飲んでみたら普通に収まり、その後は症状が出なくなった。
石の行方はようとして知れない。。。
以上、<完結編>でした。
ああ、腎臓結石の話を書きかけのまま、年を越してしまった(>_<)
途中というのも気持ちが悪いので、その後の経過をサクッと報告します。
10月12日(水)
前夜、救急外来で「腎臓結石」という診断を受けて深夜に帰宅。
この日はとりあえず家でおとなしくしていることに。
鈍痛は少々残っているものの、鎮痛剤を飲むほどではないのでもらった薬は飲まなかった。
さっそくネットで体験者談を拾いまくってみたが、「石が降りてくるときの痛みは壮絶の一言」「息もできず、ただのたうちまわるのみ」「お産より痛い」「いっそ殺してくれと思った。ていうかマジでこのまま死ぬと思った」などなど、痛いという情報だけでおなかがいっぱいになりそうで、「出るのにどのくらいかかるのか」とか、そういう知りたい情報に関しては「人による」という一言に集約されちゃってほとんど役に立たない。
よく「出産」にたとえられる「結石」だが、だったら「予定日」くらいの目処はたててほしい。
しかも対処法が「水飲むだけ」ってなんか頼りな〜い。
そうこうしているうちに、症状がだんだん変化してきた。
もともとどこが痛いのかわかりにくい状態だったのだが、今は「痛い」というよりは「つる」ような感じが強い。
場所は右の肋骨あたり。
背筋を伸ばすとそのつった部分が痛むので、常に前屈みの姿勢に。
さらにつらかったのは「張り」だった。
胃から腸にかけてが石みたいで、苦しくて食べるのがしんどい。
食べ物も無理なんだから、水をたくさん飲むなんて絶対無理。
体を縦にしていると「つり」と「張り」が厳しいので、ひたすら横になってばかりいた。
10月13日(木)
この日はリハビリ通院予定だったので、聖路加へ。
リハビリのあとは眼科の予約も入っていたし、SSDで障害年金の書類の問い合わせもしなければいけない。
いつ地獄のような痛みが襲ってくるかわからないと思うと外出も気が重かったが、まあ病院内でウロウロしていれば何かあってもなんとかしてもらえるだろう…とひらきなおって外出した。
まずは病院の近くでランチ。
相変わらず胃も腸もガチガチに固まってる感じだったがなんとか食べた。
その後、リハビリ前診察で一条先生(仮名)の外来に移動したら、ちょっと歩いただけなのにものすごく呼吸が苦しくなった。
体全体が硬直していて、息を吸おうとすると押し戻されるような圧痛が襲ってくる。
血圧も脈拍も急上昇。
再び救急で入れられたペンタジンを点滴(といっても、相変わらず血管出ないんで実際に薬が入るまでかなり時間がかかったけど)。
でもこの症状、本当に結石のせいで起きてるんだろうか。
自覚症状としては「痛い」というよりは「あちこち苦しい」って感じなんだけど。
そう言ったら、「結石が腎臓から外へ出ようとするときに圧がかかって内臓のあちこちで筋肉が緊張して痙攣を起こすので、つったり張ったりする感じになるのも不思議ではない」と言われた。
さらに、5月に撮ったCT画像と比較してみたところ、なんとその時点から結石が写ってるということが判明(大きさも位置もほぼ変わらず)。
レポートで特に触れられていなかったのは、触れるほどではない大きさだったのでスルーされたのか。
通常、この程度の大きさで腎臓内に留まっている分には無症状なので、私自身もずっと気づかないできたんだけど、大きなストレスを受けたことで活火山のマグマように石が活動を始めたのかもしれない。
と言ったら、ナースに「そんな…オカルトじゃないんだから。ない、ない」と一蹴された。
点滴が終わる頃には苦しくて歩けないという状態からは脱したが、一応リハビリと眼科はキャンセル。障害年金の問い合わせについてはSSDのソーシャルワーカーさんが診察室まで出向いて処理してくれた。
10月14日(金)
午前中、ちょっと家の中で動いて家事をしたらまたまた呼吸困難状態に。
動かなければなんとか起きていられるんだけど。
胃のまわりのガチガチ感がとにかく半端ない。まったく動いてる感じがしなくて、食べたものがすぐに胃酸とともにこみあげてくる。
体中、痛くて、重くて、張ってて、つっぱってて、苦くて、苦しい。
夕方、鍼に行って「はっきりわかるストレスを感じた翌日に石が動いた。病院では関係ないって言われたけど」と言ったら、「大きなストレスがかかれば内臓のすべてに反応が出る。石くらい動いても当たり前」とさらっと言われる。
夜はもう全然食欲がなくておかゆをちょっとだけ食べたら熱が出てきた。
腎臓やられてるときに熱とかマジやベー。勘弁。とビビリつつ、入院患者並の時間に早々と就寝。
その後、熱は38度台まで上昇。
10月15日(土)
熱は一晩で下がり、胃のこわばりもちょっとゆるんで食事も少しずつできるようになるが、今度は背中から腰にかけての鈍痛が再燃。
鎮痛剤を飲もうかどうか迷うが、水を飲むのも苦痛なほど胃が張っているのでできれば薬はこれ以上飲みたくない。
夕方になって収まってきたので飲まずに我慢。
ただ、我慢できる程度とはいえ、さすがにこれだけ痛みが長期化すると疲労がたまってくる。
10月16日(日)
起きたら再び背中の痛みが増してきた。
背中の延長で肩まで痛い。
そして尿も出にくくなってきた。
明らかに今までで一番痛かったので、もらった鎮痛剤(カロナール)を服用。
その直後のことだ。
突如、全然違う場所に「なにこれ」というような痛みがやってきた。
胃をひきちぎられるような痛み!
冷汗が滝のように流れ、家族を呼ぼうにも大きな声を出せなくて、ベッドの上で海老のように丸まって一人もがいていた。
そんな状態が30分くらい続いただろうか。
ようやく痛みがやわらいで動けるようになってきたが、ムカムカして水も食べ物も受け付けない。
というか、これじゃもうこわくて鎮痛剤飲めないよ。
次に痛みが襲ってくるときのことを思うと、「入院&点滴常時接続」にしてもらいたいと思ったが、こういうときに限って日曜日なんだよなー。
救急に電話してみたが、今行っても3時間待ちだと言われる。
3…じ…かん……。
病院まで行ってさらに3時間待つことを考えたら家で寝ていたほうがましのように思えたので、翌日まで待つことにした。
その夜、初めて血尿が出る。
紅茶みたいな色。
これって……これって……「今からいくぜ!」っていう宣戦布告?
いや〜〜〜〜〜!!!
パート3(完結編)につ・づ・く。
途中というのも気持ちが悪いので、その後の経過をサクッと報告します。
10月12日(水)
前夜、救急外来で「腎臓結石」という診断を受けて深夜に帰宅。
この日はとりあえず家でおとなしくしていることに。
鈍痛は少々残っているものの、鎮痛剤を飲むほどではないのでもらった薬は飲まなかった。
さっそくネットで体験者談を拾いまくってみたが、「石が降りてくるときの痛みは壮絶の一言」「息もできず、ただのたうちまわるのみ」「お産より痛い」「いっそ殺してくれと思った。ていうかマジでこのまま死ぬと思った」などなど、痛いという情報だけでおなかがいっぱいになりそうで、「出るのにどのくらいかかるのか」とか、そういう知りたい情報に関しては「人による」という一言に集約されちゃってほとんど役に立たない。
よく「出産」にたとえられる「結石」だが、だったら「予定日」くらいの目処はたててほしい。
しかも対処法が「水飲むだけ」ってなんか頼りな〜い。
そうこうしているうちに、症状がだんだん変化してきた。
もともとどこが痛いのかわかりにくい状態だったのだが、今は「痛い」というよりは「つる」ような感じが強い。
場所は右の肋骨あたり。
背筋を伸ばすとそのつった部分が痛むので、常に前屈みの姿勢に。
さらにつらかったのは「張り」だった。
胃から腸にかけてが石みたいで、苦しくて食べるのがしんどい。
食べ物も無理なんだから、水をたくさん飲むなんて絶対無理。
体を縦にしていると「つり」と「張り」が厳しいので、ひたすら横になってばかりいた。
10月13日(木)
この日はリハビリ通院予定だったので、聖路加へ。
リハビリのあとは眼科の予約も入っていたし、SSDで障害年金の書類の問い合わせもしなければいけない。
いつ地獄のような痛みが襲ってくるかわからないと思うと外出も気が重かったが、まあ病院内でウロウロしていれば何かあってもなんとかしてもらえるだろう…とひらきなおって外出した。
まずは病院の近くでランチ。
相変わらず胃も腸もガチガチに固まってる感じだったがなんとか食べた。
その後、リハビリ前診察で一条先生(仮名)の外来に移動したら、ちょっと歩いただけなのにものすごく呼吸が苦しくなった。
体全体が硬直していて、息を吸おうとすると押し戻されるような圧痛が襲ってくる。
血圧も脈拍も急上昇。
再び救急で入れられたペンタジンを点滴(といっても、相変わらず血管出ないんで実際に薬が入るまでかなり時間がかかったけど)。
でもこの症状、本当に結石のせいで起きてるんだろうか。
自覚症状としては「痛い」というよりは「あちこち苦しい」って感じなんだけど。
そう言ったら、「結石が腎臓から外へ出ようとするときに圧がかかって内臓のあちこちで筋肉が緊張して痙攣を起こすので、つったり張ったりする感じになるのも不思議ではない」と言われた。
さらに、5月に撮ったCT画像と比較してみたところ、なんとその時点から結石が写ってるということが判明(大きさも位置もほぼ変わらず)。
レポートで特に触れられていなかったのは、触れるほどではない大きさだったのでスルーされたのか。
通常、この程度の大きさで腎臓内に留まっている分には無症状なので、私自身もずっと気づかないできたんだけど、大きなストレスを受けたことで活火山のマグマように石が活動を始めたのかもしれない。
と言ったら、ナースに「そんな…オカルトじゃないんだから。ない、ない」と一蹴された。
点滴が終わる頃には苦しくて歩けないという状態からは脱したが、一応リハビリと眼科はキャンセル。障害年金の問い合わせについてはSSDのソーシャルワーカーさんが診察室まで出向いて処理してくれた。
10月14日(金)
午前中、ちょっと家の中で動いて家事をしたらまたまた呼吸困難状態に。
動かなければなんとか起きていられるんだけど。
胃のまわりのガチガチ感がとにかく半端ない。まったく動いてる感じがしなくて、食べたものがすぐに胃酸とともにこみあげてくる。
体中、痛くて、重くて、張ってて、つっぱってて、苦くて、苦しい。
夕方、鍼に行って「はっきりわかるストレスを感じた翌日に石が動いた。病院では関係ないって言われたけど」と言ったら、「大きなストレスがかかれば内臓のすべてに反応が出る。石くらい動いても当たり前」とさらっと言われる。
夜はもう全然食欲がなくておかゆをちょっとだけ食べたら熱が出てきた。
腎臓やられてるときに熱とかマジやベー。勘弁。とビビリつつ、入院患者並の時間に早々と就寝。
その後、熱は38度台まで上昇。
10月15日(土)
熱は一晩で下がり、胃のこわばりもちょっとゆるんで食事も少しずつできるようになるが、今度は背中から腰にかけての鈍痛が再燃。
鎮痛剤を飲もうかどうか迷うが、水を飲むのも苦痛なほど胃が張っているのでできれば薬はこれ以上飲みたくない。
夕方になって収まってきたので飲まずに我慢。
ただ、我慢できる程度とはいえ、さすがにこれだけ痛みが長期化すると疲労がたまってくる。
10月16日(日)
起きたら再び背中の痛みが増してきた。
背中の延長で肩まで痛い。
そして尿も出にくくなってきた。
明らかに今までで一番痛かったので、もらった鎮痛剤(カロナール)を服用。
その直後のことだ。
突如、全然違う場所に「なにこれ」というような痛みがやってきた。
胃をひきちぎられるような痛み!
冷汗が滝のように流れ、家族を呼ぼうにも大きな声を出せなくて、ベッドの上で海老のように丸まって一人もがいていた。
そんな状態が30分くらい続いただろうか。
ようやく痛みがやわらいで動けるようになってきたが、ムカムカして水も食べ物も受け付けない。
というか、これじゃもうこわくて鎮痛剤飲めないよ。
次に痛みが襲ってくるときのことを思うと、「入院&点滴常時接続」にしてもらいたいと思ったが、こういうときに限って日曜日なんだよなー。
救急に電話してみたが、今行っても3時間待ちだと言われる。
3…じ…かん……。
病院まで行ってさらに3時間待つことを考えたら家で寝ていたほうがましのように思えたので、翌日まで待つことにした。
その夜、初めて血尿が出る。
紅茶みたいな色。
これって……これって……「今からいくぜ!」っていう宣戦布告?
いや〜〜〜〜〜!!!
パート3(完結編)につ・づ・く。
華麗なる病歴の中にまたひとつ新顔が加わった。
それは、正念場な出来事が一段落した翌日(10月11日)のことだった。
ストレスには、「これはストレスだなー」とわかっていながら身をさらさざるをえない「自動的なストレス」と、まわりからいきなり加えられる予測不能の「他動的なストレス」がある。
このときはそれがダブルできている状況だった。
夜8時過ぎ頃、パソコンに向かっていたら右の背中と脇腹と胃と肋骨あたりに鈍痛を感じた。
もともと左麻痺のために常に身体のバランスが崩れているので、身体のどこかが痛むことは珍しくなかった。
だからこのときも最初はそれほど気にしていなかったのだが、痛みは確実に増していった。
筋肉がぎゅ〜っと固まっていくような痛さだ。
ベッドに横になってみたが、いっこうに楽にならない。
我慢できないほどの痛みではなかったが、身におぼえがありすぎる私は、とっさに数々の原因を頭の中でシミュレーションした。
「胃が重い感じがするけど心臓ってことはないか?よく胃と心臓って痛みがごっちゃになるっていうし」
「そうだ。私乳がんだし。骨転移ってのもありじゃね?」
とりあえず血圧を測ってみたら「185-115」という数字が出て、こりゃやばいと思い始めた。
10時過ぎ。痛みはますます大きくなっていく。
一条先生(仮名)に連絡し、とにかく車で聖路加の救急外来に向かった。
ところが、車に乗っているうちに徐々に痛みが軽くなってきたような…。
救急外来に着いたのは11時近かったが、その頃にはピーク時の50%くらいの痛みに。
が、ここまできたら「おそろしい原因ではない」ということだけでも証明して帰らなければこわくて一晩越せない。
とにかく検査はしてもらおうと中へ入った。
それからはドラマの「ER」状態……と言いたいところだけど、容態が落ちついてしまっているせいか、妙にまったりしたテンポで検査が進められた。
場所はオペ室だけど、ついているのは若い当直医1名+ナース1名のみ。
問診して、血圧測って、採血して、点滴ラインとって、輸液入れて、心電図モニタにつないで、心臓エコーに内臓エコー、X線写真……と一通りの検査&チェックがおこなわれたが、異常はどこにもなさそうだった。
唐突に「今晩、何食べましたか?」と質問するドクター。
「煮豚」と答えたら「何それ」という顔をされたので、面倒くさいから「焼豚」と答え直した。
さらに「他には?何か生もの食べませんでしたか?」と聞かれたので「食べてない」と答えたが、どうも食中毒方向に誘導したいみたいで10分置きくらいに同じ質問をされた。
そうこうしているうちに痛みは2割くらいに減少。
あちこち押されて「どこが痛いですか?」と聞かれるんだけど、聞かれるたびに位置がズレていく気がする。
「えーと。今は背中です」「あと肋骨。いや、脇腹かな?」
答えたそばから、そこじゃない気がしてくる…。
とりあえず、異常がないならもういいよ……とだんだん帰りたい気分になってきたが、ドクターはどうしても原因をみつけたいようで「最後にCT撮らせてくれませんか?」と言ってきた。
CTかー。このあいだ撮ったばっかりだからなー。
迷ったが、最後まで検査したほうがスッキリすると思い、承諾した。
CT撮影後、処置室のベッドに移動して検査結果を待っていたら、いきなりドクターがどや顔で入ってきた。
「わかりましたよ、小春さんッ!腎臓に石がありました。腎臓結石です!」
腎…臓…結…石……?!……w(°0°)w
思いもよらない病名に戸惑いを隠せなかった。
腎臓結石なんて暴飲暴食のおっさんがなるものと思っていたので、ちょっとショック。
でもドクターは「あー、よかったよ。結石で〜」という色がありありで、すっかりリラックスしている。
「ここでしょ?痛いのってここでしょ?」とエコーでぐいぐい背中を押され、「そうです。そこです」と答えたら、さらに自信を深めた表情で「間違いありませんね。痛みの原因は腎臓結石です」と言い切られた。
結石の大きさは1ミリ以内の小さなもので、右の腎盂部分にあるとのこと。
普通、腎臓内にあるときは無症状で、尿管におりてくるときに激痛がくる。自分で気づくのはその段階であることがほとんどらしい。
今回の場合、小さいために腎盂内で石が動き、痛みを生じたのだろう。
ということだった。
「とりあえず、点滴で鎮痛剤入れておきますから。経口の鎮痛剤も出しておくので、家で痛くなったらこれ飲んでください」
「点滴終わったら帰っていいんですか?」
「いいですよ」
「石ってどのくらいで出るんですか?」
「まあ、それは人それぞれなので。ずっと動かないまま腎臓に留まり続ける石もあるし」
「えー、そんな長いこと留めておいたら大きく育っちゃいませんか?出すとき難産になりませんか?」
「まあ、そうですね。小さいうちに出したほうがいいですけど」
「それって早く出す方法ないんですか?」
「うーん。まあ水をたくさん飲むくらいしか。うんと大きいと衝撃波で砕いて砂状にして出すとかできるけど、こんな小さいんじゃ命中させるのは難しいし」
「あー、なんか頭がグルグルまわってるんですけど」
「点滴で入れてるお薬の副作用だと思います。これ、けっこう強い薬なんで」
「強いっていうと麻薬系の?」
「そうですね。手術後とかによく使う薬です。少し休んでれば収まると思うので、立って歩いても大丈夫になったら帰っていいですよ」
というわけで、グルグルが収まってから帰宅したら午前3時になった。
想像していたようなシリアスな病変ではなかったことには安心したが、「石がいつ出るのかわからない」「痛みがいつくるのかわからない」という不安は消えないままだったので、今後どのくらいこんな状態が続くのかと思うとどっと気が重くなった。
それにしても意外だったのは「腎臓」の位置だ。
私は今までずっと腰に近い部分にあるのだと思っていたのだが、こんなに上にあったとは……してやられたよ。
今日はここまで。
パート2に続く。
それは、正念場な出来事が一段落した翌日(10月11日)のことだった。
ストレスには、「これはストレスだなー」とわかっていながら身をさらさざるをえない「自動的なストレス」と、まわりからいきなり加えられる予測不能の「他動的なストレス」がある。
このときはそれがダブルできている状況だった。
夜8時過ぎ頃、パソコンに向かっていたら右の背中と脇腹と胃と肋骨あたりに鈍痛を感じた。
もともと左麻痺のために常に身体のバランスが崩れているので、身体のどこかが痛むことは珍しくなかった。
だからこのときも最初はそれほど気にしていなかったのだが、痛みは確実に増していった。
筋肉がぎゅ〜っと固まっていくような痛さだ。
ベッドに横になってみたが、いっこうに楽にならない。
我慢できないほどの痛みではなかったが、身におぼえがありすぎる私は、とっさに数々の原因を頭の中でシミュレーションした。
「胃が重い感じがするけど心臓ってことはないか?よく胃と心臓って痛みがごっちゃになるっていうし」
「そうだ。私乳がんだし。骨転移ってのもありじゃね?」
とりあえず血圧を測ってみたら「185-115」という数字が出て、こりゃやばいと思い始めた。
10時過ぎ。痛みはますます大きくなっていく。
一条先生(仮名)に連絡し、とにかく車で聖路加の救急外来に向かった。
ところが、車に乗っているうちに徐々に痛みが軽くなってきたような…。
救急外来に着いたのは11時近かったが、その頃にはピーク時の50%くらいの痛みに。
が、ここまできたら「おそろしい原因ではない」ということだけでも証明して帰らなければこわくて一晩越せない。
とにかく検査はしてもらおうと中へ入った。
それからはドラマの「ER」状態……と言いたいところだけど、容態が落ちついてしまっているせいか、妙にまったりしたテンポで検査が進められた。
場所はオペ室だけど、ついているのは若い当直医1名+ナース1名のみ。
問診して、血圧測って、採血して、点滴ラインとって、輸液入れて、心電図モニタにつないで、心臓エコーに内臓エコー、X線写真……と一通りの検査&チェックがおこなわれたが、異常はどこにもなさそうだった。
唐突に「今晩、何食べましたか?」と質問するドクター。
「煮豚」と答えたら「何それ」という顔をされたので、面倒くさいから「焼豚」と答え直した。
さらに「他には?何か生もの食べませんでしたか?」と聞かれたので「食べてない」と答えたが、どうも食中毒方向に誘導したいみたいで10分置きくらいに同じ質問をされた。
そうこうしているうちに痛みは2割くらいに減少。
あちこち押されて「どこが痛いですか?」と聞かれるんだけど、聞かれるたびに位置がズレていく気がする。
「えーと。今は背中です」「あと肋骨。いや、脇腹かな?」
答えたそばから、そこじゃない気がしてくる…。
とりあえず、異常がないならもういいよ……とだんだん帰りたい気分になってきたが、ドクターはどうしても原因をみつけたいようで「最後にCT撮らせてくれませんか?」と言ってきた。
CTかー。このあいだ撮ったばっかりだからなー。
迷ったが、最後まで検査したほうがスッキリすると思い、承諾した。
CT撮影後、処置室のベッドに移動して検査結果を待っていたら、いきなりドクターがどや顔で入ってきた。
「わかりましたよ、小春さんッ!腎臓に石がありました。腎臓結石です!」
腎…臓…結…石……?!……w(°0°)w
思いもよらない病名に戸惑いを隠せなかった。
腎臓結石なんて暴飲暴食のおっさんがなるものと思っていたので、ちょっとショック。
でもドクターは「あー、よかったよ。結石で〜」という色がありありで、すっかりリラックスしている。
「ここでしょ?痛いのってここでしょ?」とエコーでぐいぐい背中を押され、「そうです。そこです」と答えたら、さらに自信を深めた表情で「間違いありませんね。痛みの原因は腎臓結石です」と言い切られた。
結石の大きさは1ミリ以内の小さなもので、右の腎盂部分にあるとのこと。
普通、腎臓内にあるときは無症状で、尿管におりてくるときに激痛がくる。自分で気づくのはその段階であることがほとんどらしい。
今回の場合、小さいために腎盂内で石が動き、痛みを生じたのだろう。
ということだった。
「とりあえず、点滴で鎮痛剤入れておきますから。経口の鎮痛剤も出しておくので、家で痛くなったらこれ飲んでください」
「点滴終わったら帰っていいんですか?」
「いいですよ」
「石ってどのくらいで出るんですか?」
「まあ、それは人それぞれなので。ずっと動かないまま腎臓に留まり続ける石もあるし」
「えー、そんな長いこと留めておいたら大きく育っちゃいませんか?出すとき難産になりませんか?」
「まあ、そうですね。小さいうちに出したほうがいいですけど」
「それって早く出す方法ないんですか?」
「うーん。まあ水をたくさん飲むくらいしか。うんと大きいと衝撃波で砕いて砂状にして出すとかできるけど、こんな小さいんじゃ命中させるのは難しいし」
「あー、なんか頭がグルグルまわってるんですけど」
「点滴で入れてるお薬の副作用だと思います。これ、けっこう強い薬なんで」
「強いっていうと麻薬系の?」
「そうですね。手術後とかによく使う薬です。少し休んでれば収まると思うので、立って歩いても大丈夫になったら帰っていいですよ」
というわけで、グルグルが収まってから帰宅したら午前3時になった。
想像していたようなシリアスな病変ではなかったことには安心したが、「石がいつ出るのかわからない」「痛みがいつくるのかわからない」という不安は消えないままだったので、今後どのくらいこんな状態が続くのかと思うとどっと気が重くなった。
それにしても意外だったのは「腎臓」の位置だ。
私は今までずっと腰に近い部分にあるのだと思っていたのだが、こんなに上にあったとは……してやられたよ。
今日はここまで。
パート2に続く。
正念場な出来事にエネルギーを吸い取られているうちにもう秋になってしまった…。
前回の記事を書いたあと、区の重度障害者通所施設の作業療法士さん(時々相談に通っている)から「自立支援センターというのがあるから、障害者の生活に関する相談はそこに行くといい」と教えられ、もろもろの事情で延び延びになってしまったが、今日ようやく訪ねてきた。
相談内容は「事業所ってどうやって探したらいいの?」←マダココ
相談担当の雨宮さん(仮名)は車椅子利用の現役障害者。
ご自身も実際にヘルパーさんを利用しているだけあって、今までとは桁違いに話の密度が濃い。
「上肢不自由」と「下肢不自由」という違いはあれど、「そうそう、そうなのよ」「それよ、それそれ」と激しく共感できる言葉をいくつもいただき、少しだけ力がわいてきた。
特に「足とか手とかそれ単独が不自由なわけじゃない。体は常にバランスをとって動いているのだから、麻痺している部位以外の場所も正常ではなくなる。そのことを一番わかっていないのは医療関係者」というコメント(まあちょっと意訳気味ですが)はもう全国の医療関係者にコピペして一斉送信したいくらいだった。
私も前から思ってたんだよ。
診断書っていうと必ず出て来る「右」「左」にわかれて機能評価するやつ。
あれどうにかならないのかね。
さまざまな日常の基本動作(「顔を洗う」とか「ボタンをかける」とか)について「できる」「できない」の評価をしていくんだけど、それを右左それぞれで評価していくんだよね。
たとえば、普通なら両手を使って一瞬でできるようなことを、右だけ使って不十分であってもなんとかできる…ということになると、それは「自力でおこなうことが可能」とみなされるわけ。
そういう評価をされると、ほとんどが「なんとかできるよね」になってしまい、自分で感じてる慢性的な肉体的精神的負担感がさっぱり書類に反映されていないように思えてしまう。
雨宮さんいわく、「結果的にかろうじて自分でできたとしても、それを『できる』とみなすのはおかしい。そのときだけでなく、継続的にこなせて初めて『できる』と言える。たとえば靴下ひとつ履くのに1時間かかったとして、その人が日常生活を送るだけでほぼすべてのエネルギーを使い果たしてしまったら『仕事』をして『自立』することはできない。そういった日常生活の作業部分をヘルパーさんに負担してもらって、その分のエネルギーを『仕事』にむけられるようにしようというのが自立支援法の目的」とのこと。
なるほどー。
たしかに靴下を履くことだけで人生が終わっていいわけないよな。
でも今までまわったところはどこも「あなたはまだいいほう」とか「これはできるじゃない」とか「できないなら我慢しろ」とか「このレベルまでいかなきゃ無理だね」とか、とにかくこちらのやる気を萎えさせよう萎えさせようとしているふうにしか思えなかった。たとえその人にそういう意図がなかったとしても。
一般人が「わからない」「理解できない」「想像できない」と思うのはまだしかたがないと思うが、そういう仕事ををしている人が相手を萎えさせてどうするんだよ。といつも思う。「自立支援」というより「泣き寝入り推奨」って感じ。
実際、機能評価はデジタル評価だし、本当に評価してほしい部分は項目がなかったり、どうでもいいよと思う項目はいっぱいあったりするわけで。
そう言ったら雨宮さんに「そういうときは、<その他特記事項>という欄にいっぱい書いてもらう。言わなきゃわかんないんだからこっちから『あれも書いて』『これも書いて』と医者にどんどん要求しなきゃダメ。自由記述部分が勝負どころ」と言われた。
ああ、この人も私と同じように今まで戦ってきたんだなーとしみじみ思った。
事業所選びについては、やはり「近くから電話してみるのがお勧め」と言われた。
最初は何十もあって「これ全部かけるの?」っていう気分になるだろうけど、意外に条件の合わないところが多く、心配せずとも選択肢は一気に絞られるとのこと。
どこも介護保険(つまり高齢者対象)には慣れているところが多いけど、障害者の居宅介護に慣れているところはあまりないかもしれないとも言われた。まあ絶対数が少ないからなー。
なんでも介護保険と居宅介護とでは、家事の範囲も厳密に決められているらしいのだが、その区別もよくわかっていない事業所も多いので、おかしいと思ったらすぐに問いただしたほうがいいという。
そんなこと言われてもこっちも初心者だし、助けてもらいたいのはこっちなのになんでヘルパーさんの支援までしなきゃいけないのー?
はー。支援受けるのって大変なのね。
でも最後に「最初の一歩を踏み出すときは不安だと思う。その気持ちはよくわかるし、慣れるまではかえって疲れるかもしれないけど、私は今ヘルパーさんに来てもらってすごく楽になってる。ぜひ上手に使ってほしい」とエールを送っていただき、心強く感じた。
すごく有意義な面談だったけど、同時に「なぜ最初からここにつないでくれないんだよ」とあらためて行政のバラバラさ加減に腹が立った。
障害年金についてはまだ書類が全部揃わない。
傷病がいくつかにまたがっているので、書類の書き方で疑問点がいくつも出てきて、今日は聖路加のSSD(医療社会事業課)にも相談に行った。
そこでもわからなくて電話で問い合わせてもらったが、「書類の書き方についてはここに聞いて」「ただしこの部分についてはこっちに聞いて」とベテランのソーシャルワーカーさんも容赦なくぐるぐるたらいまわしにされていた。
病歴部分は「できるだけ大変そうに書いて」と窓口のおじさんにリクエストされたけど、私は上肢不自由者なんだから手書きでそんないっぱい書けねえっつの。
しかたがないので、昔のカルテとか裁判資料とか見返しながら片手でとりあえずタイピング。
あらためて家族に清書してもらうことにした。
こりゃ一種のプレゼンだな。。。
前回の記事を書いたあと、区の重度障害者通所施設の作業療法士さん(時々相談に通っている)から「自立支援センターというのがあるから、障害者の生活に関する相談はそこに行くといい」と教えられ、もろもろの事情で延び延びになってしまったが、今日ようやく訪ねてきた。
相談内容は「事業所ってどうやって探したらいいの?」←マダココ
相談担当の雨宮さん(仮名)は車椅子利用の現役障害者。
ご自身も実際にヘルパーさんを利用しているだけあって、今までとは桁違いに話の密度が濃い。
「上肢不自由」と「下肢不自由」という違いはあれど、「そうそう、そうなのよ」「それよ、それそれ」と激しく共感できる言葉をいくつもいただき、少しだけ力がわいてきた。
特に「足とか手とかそれ単独が不自由なわけじゃない。体は常にバランスをとって動いているのだから、麻痺している部位以外の場所も正常ではなくなる。そのことを一番わかっていないのは医療関係者」というコメント(まあちょっと意訳気味ですが)はもう全国の医療関係者にコピペして一斉送信したいくらいだった。
私も前から思ってたんだよ。
診断書っていうと必ず出て来る「右」「左」にわかれて機能評価するやつ。
あれどうにかならないのかね。
さまざまな日常の基本動作(「顔を洗う」とか「ボタンをかける」とか)について「できる」「できない」の評価をしていくんだけど、それを右左それぞれで評価していくんだよね。
たとえば、普通なら両手を使って一瞬でできるようなことを、右だけ使って不十分であってもなんとかできる…ということになると、それは「自力でおこなうことが可能」とみなされるわけ。
そういう評価をされると、ほとんどが「なんとかできるよね」になってしまい、自分で感じてる慢性的な肉体的精神的負担感がさっぱり書類に反映されていないように思えてしまう。
雨宮さんいわく、「結果的にかろうじて自分でできたとしても、それを『できる』とみなすのはおかしい。そのときだけでなく、継続的にこなせて初めて『できる』と言える。たとえば靴下ひとつ履くのに1時間かかったとして、その人が日常生活を送るだけでほぼすべてのエネルギーを使い果たしてしまったら『仕事』をして『自立』することはできない。そういった日常生活の作業部分をヘルパーさんに負担してもらって、その分のエネルギーを『仕事』にむけられるようにしようというのが自立支援法の目的」とのこと。
なるほどー。
たしかに靴下を履くことだけで人生が終わっていいわけないよな。
でも今までまわったところはどこも「あなたはまだいいほう」とか「これはできるじゃない」とか「できないなら我慢しろ」とか「このレベルまでいかなきゃ無理だね」とか、とにかくこちらのやる気を萎えさせよう萎えさせようとしているふうにしか思えなかった。たとえその人にそういう意図がなかったとしても。
一般人が「わからない」「理解できない」「想像できない」と思うのはまだしかたがないと思うが、そういう仕事ををしている人が相手を萎えさせてどうするんだよ。といつも思う。「自立支援」というより「泣き寝入り推奨」って感じ。
実際、機能評価はデジタル評価だし、本当に評価してほしい部分は項目がなかったり、どうでもいいよと思う項目はいっぱいあったりするわけで。
そう言ったら雨宮さんに「そういうときは、<その他特記事項>という欄にいっぱい書いてもらう。言わなきゃわかんないんだからこっちから『あれも書いて』『これも書いて』と医者にどんどん要求しなきゃダメ。自由記述部分が勝負どころ」と言われた。
ああ、この人も私と同じように今まで戦ってきたんだなーとしみじみ思った。
事業所選びについては、やはり「近くから電話してみるのがお勧め」と言われた。
最初は何十もあって「これ全部かけるの?」っていう気分になるだろうけど、意外に条件の合わないところが多く、心配せずとも選択肢は一気に絞られるとのこと。
どこも介護保険(つまり高齢者対象)には慣れているところが多いけど、障害者の居宅介護に慣れているところはあまりないかもしれないとも言われた。まあ絶対数が少ないからなー。
なんでも介護保険と居宅介護とでは、家事の範囲も厳密に決められているらしいのだが、その区別もよくわかっていない事業所も多いので、おかしいと思ったらすぐに問いただしたほうがいいという。
そんなこと言われてもこっちも初心者だし、助けてもらいたいのはこっちなのになんでヘルパーさんの支援までしなきゃいけないのー?
はー。支援受けるのって大変なのね。
でも最後に「最初の一歩を踏み出すときは不安だと思う。その気持ちはよくわかるし、慣れるまではかえって疲れるかもしれないけど、私は今ヘルパーさんに来てもらってすごく楽になってる。ぜひ上手に使ってほしい」とエールを送っていただき、心強く感じた。
すごく有意義な面談だったけど、同時に「なぜ最初からここにつないでくれないんだよ」とあらためて行政のバラバラさ加減に腹が立った。
障害年金についてはまだ書類が全部揃わない。
傷病がいくつかにまたがっているので、書類の書き方で疑問点がいくつも出てきて、今日は聖路加のSSD(医療社会事業課)にも相談に行った。
そこでもわからなくて電話で問い合わせてもらったが、「書類の書き方についてはここに聞いて」「ただしこの部分についてはこっちに聞いて」とベテランのソーシャルワーカーさんも容赦なくぐるぐるたらいまわしにされていた。
病歴部分は「できるだけ大変そうに書いて」と窓口のおじさんにリクエストされたけど、私は上肢不自由者なんだから手書きでそんないっぱい書けねえっつの。
しかたがないので、昔のカルテとか裁判資料とか見返しながら片手でとりあえずタイピング。
あらためて家族に清書してもらうことにした。
こりゃ一種のプレゼンだな。。。
カウンター
お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
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プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
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