がん治療に取り組む医療関係医者の皆様へ。その治療の先にあるものはなんですか?がん治療に前向きに取り組む患者の皆様へ。その治療が終われば苦しみからは解放されますか?サバイバーが増えれば増えるほど、多彩になっていく不安と苦しみ。がん患者の旅に終わりはなく、それに最後までつきあってくれる人は……いったいどれだけいるのでしょうか?<ワケあり患者・小春>
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最後に残った「介護支援」。
これが一番大きな山だった。
福祉事務所に言われた通り、認定のための手続きを済ませ、訪問調査に来た区の職員と面談をおこない、100以上の質問に答え、検討会議にかけられ、ようやく認定通知が郵送されてきたのが1ヶ月前のこと。
週に1回1時間というささやかな支援ではあったが、とにかくこれだけは認められた。
同居家族がいると認められないケースも多いらしいので、ありがたいと思わなければならないだろう。
ところがこの決定通知、どこをどう読んでも「次の段階」についての記述が見あたらないのだ。
担当者の名前が書かれているわけでもないし、いつまでにどこでどういう手続きをしろといったことも書かれていない。
ただ、「この権利は無期限ではなく、有効期間は1年間である」ということだけは書かれていて、それが切れるときの更新の手続きについてはいろいろ述べられてるんだけど、今どうすればいいのかについては何も記されていない。
これって次の連絡を待てっていう意味?
まあ、訪問調査も来る来ると言いつつ何週間もなしのつぶてだったしな。
お役所だからなんでもやることが遅いんだろう。
……と理解しておとなしく次のアプローチを待っていた。
しかし1ヶ月すぎても何の音沙汰もない。
さすがにおかしいと思い、封筒に書かれていた代表者番号に電話をかけ、該当する部署の人を呼び出してもらった。
電話に出た職員は、「何が送られてきたか」「そこには何が書いてあるか」「受給者番号は何番か」など質問ばかり重ねていっこうにこちらの疑問に答えてくれない。
受話器を持ちながらしゃべっていると、利き手がふさがって身動きがとれず、スピーカーフォンにしないでかけたことを後悔した。
しばらく話しているうちになんとなく薄ぼんやりとした違和感が広がり、やがてひとつの形となって頭の中に現れた。
まさか……まさか……。
「あの…すみません。もしかしてヘルパーさんを派遣してくれる事業所って……自分で勝手に探せってことですか?」
私の疑念に相手はあっさり「はい。そうです」と答えた。
はぁ〜???………「そうです」って……。
だったらなんでそういう説明を最初からしてくれないんだよ!
今までの無駄に長い質問タイムはいったいなんだったんだ!
というか、そういうことなら通知と一緒に「この先は自分で探してください。相談はここで受けます。資料はここで得られます」くらいの情報を添付するのが当然だろうに。
つっこみたいところは多々あったが、とりあえず一番大事なところだけ聞いた。
「事業所ってどうやって探すんですか?」
答えはなんとも間の抜けたものだった。
「はあ。まあ、ネットとか……」
ネットとかネットとかネットとか…ってアバウトすぎだろ!!
「事業所の一覧がほしければ郵送しますけど」
あるなら最初から同封しとけ!
あまりにも他人事のような物言いなんで(まあ他人事なんだけどね)、思わず最後に言ってしまった。
「これ6月からサービスが使えるって書いてありますけど、もう1ヶ月たっちゃってるんですよ。その1ヶ月分の権利は消滅ってことですか?」
そしたらまたもやあっさり「そうですね」という答え。
はぁ〜???………そうなんだ。
そのあともいろいろ聞いたけど、結局どうやって探せばいいのかはわからなかった。
どうも、区役所の仕事というのは認定通知を出すまでで、そこから先は面倒みねーよってことになってるらしい。ちょっと前までは区のほうで事業所を決めていたが、今は自分で探してもらうようにしているという一点張りだった。
途方に暮れて、今度は聖路加通院時にSSD(医療社会事業課)まで話を聞きに行ったが、「自治体によって随分違うみたいなんですよねー。私がこの前聞いた区では、認定通知と同時に担当者が直接家に訪ねてきて事業所選びの相談にのってくれたって話でしたけど、通知だけで放り出すなんて区もあるんですねー」とソーシャルワーカーさんも驚いていた。
念のため、その人からも電話できいてもらったけど、福祉事務所で相談にのってくれるんではないかとのことだったので、事業所リストをもらいにあらためて福祉事務所を訪ねることにした。
が、そこでの対応も似たりよったりだった。
リストはくれたけど、事業所の所在地と連絡先がダーーッと書いてあるだけで、「まあ一番近くの事業所からあたってみたらいかがでしょう」の一言で終わり。
結局、特定の事業所を勧めるというのは行政の立場上できないということなんだろう。
それはわかるけど、事業所といっても玉石混淆のはず。
「結局はヘルパーさんとの相性。まずはどこでもいいからあたってみなさい。気に入らなかったらチェンジすればいいんだから」という意見も聞くが、断るのって口で言うほど簡単じゃない。そんなエネルギーがあるくらいなら支援なんて頼まないよ。
そんなバクチみたいなこと、今の状態でやりたくない。
これ、80件以上あるし。
HP持ってる事業所もごくわずかだし。
せめて特徴というか、「うちは障害者支援ひとすじ××年です」とか「上肢障害支援を得意としています」とか「上肢支援コンテストで金賞を受賞した伝説のヘルパーがいます」とか、なんでもいいから他とはひと味違う的な選ぶ基準みたいなものがほしい。
一応事業所PR欄もあるんだけど「心あたたまるケアを目指しています」とか抽象的なこと書かれてても話になんないわ。
そうこうしているうちに周囲からも情報が集まってきたが、ほとんどが介護保険でのヘルパー支援のケース。
介護保険は65歳以上でないと使えないということも意外にみんな知らないようだ。
ケアマネージャーがケアプランをたててくれるからまずケアマネを探すべしとか、いやケアマネがつくのは高齢者(介護保険利用者)のみで障害者にはつかないよとか、ただ漠然と「家事支援」とかじゃなくて「入浴介助」とか切実で具体的な問題をアピールしなきゃダメとか、いや入浴介助は介護保険でしょとか、なんか聞くたびに情報が錯綜し、翻弄され、数日で早くも頭がぐるぐるしてきた
問い合わせしてくれたり、知り合いに話をきいてくれたり、いろいろやってくださった方たちには本当に感謝なんだけど、ちょっともう限界
裁判のときもそうだったけど、未知の領域に踏み込むときにはそれなりのエネルギーと余力が必要。
なにが起こるかわからないからね。
この先1ヶ月は個人的に正念場的な出来事があるので、なんか同時進行するとどっちもダメになりそうな悪寒が…。
というわけで、正念場のほうが山を越えて、どこかの総理ではないけど「一定の目処がついたら」あらためて事業所探しに取り組もうと思う。
ただ、たとえヘルパーさんに来てもらえるようになったところで、週1時間程度では今の苦境はどうにもならないだろう。
今後はもう少しシステマチックに、定期的に、誰にこれだけの頻度で何をやってもらうという決めごとをきっちりしておく必要がありそうだ。
「何か手伝うことない?」とたまに来て言われても、説明するほうがよっぽど大変。
すごくいっぱい説明したわりには、やってもらうことは一瞬で終わったりするので、やってくれる人には悪いんだけど「労多くして益少なし」という気分。というか、思うように説明できないもどかしさでかえってストレスがたまってしまう。
もちろん、自分の手でやるようにやってもらうことが不可能だということはわかっているが、「説明しなくてもある程度事情をのみこんで自主的にやってくれる」という部分を少しずつでも増やしていかないと多分私はこの先生きていけないだろう。
あー、事業所ミシュランがほしいわ〜。
「ここがいいですよ」と推薦するのは難しくても、質を保つための第三者によるチェック機関は必要なんじゃないだろうか。
でないと、ずっと玉石混淆のままじゃないか。
元気だったら覆面調査員やってミシュランガイド作るのになー。
あ、元気だったらヘルパーさん使わないか。。。。
これが一番大きな山だった。
福祉事務所に言われた通り、認定のための手続きを済ませ、訪問調査に来た区の職員と面談をおこない、100以上の質問に答え、検討会議にかけられ、ようやく認定通知が郵送されてきたのが1ヶ月前のこと。
週に1回1時間というささやかな支援ではあったが、とにかくこれだけは認められた。
同居家族がいると認められないケースも多いらしいので、ありがたいと思わなければならないだろう。
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担当者の名前が書かれているわけでもないし、いつまでにどこでどういう手続きをしろといったことも書かれていない。
ただ、「この権利は無期限ではなく、有効期間は1年間である」ということだけは書かれていて、それが切れるときの更新の手続きについてはいろいろ述べられてるんだけど、今どうすればいいのかについては何も記されていない。
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まあ、訪問調査も来る来ると言いつつ何週間もなしのつぶてだったしな。
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まさか……まさか……。
「あの…すみません。もしかしてヘルパーさんを派遣してくれる事業所って……自分で勝手に探せってことですか?」
私の疑念に相手はあっさり「はい。そうです」と答えた。
はぁ〜???………「そうです」って……。
だったらなんでそういう説明を最初からしてくれないんだよ!
今までの無駄に長い質問タイムはいったいなんだったんだ!
というか、そういうことなら通知と一緒に「この先は自分で探してください。相談はここで受けます。資料はここで得られます」くらいの情報を添付するのが当然だろうに。
つっこみたいところは多々あったが、とりあえず一番大事なところだけ聞いた。
「事業所ってどうやって探すんですか?」
答えはなんとも間の抜けたものだった。
「はあ。まあ、ネットとか……」
ネットとかネットとかネットとか…ってアバウトすぎだろ!!
「事業所の一覧がほしければ郵送しますけど」
あるなら最初から同封しとけ!
あまりにも他人事のような物言いなんで(まあ他人事なんだけどね)、思わず最後に言ってしまった。
「これ6月からサービスが使えるって書いてありますけど、もう1ヶ月たっちゃってるんですよ。その1ヶ月分の権利は消滅ってことですか?」
そしたらまたもやあっさり「そうですね」という答え。
はぁ〜???………そうなんだ。
そのあともいろいろ聞いたけど、結局どうやって探せばいいのかはわからなかった。
どうも、区役所の仕事というのは認定通知を出すまでで、そこから先は面倒みねーよってことになってるらしい。ちょっと前までは区のほうで事業所を決めていたが、今は自分で探してもらうようにしているという一点張りだった。
途方に暮れて、今度は聖路加通院時にSSD(医療社会事業課)まで話を聞きに行ったが、「自治体によって随分違うみたいなんですよねー。私がこの前聞いた区では、認定通知と同時に担当者が直接家に訪ねてきて事業所選びの相談にのってくれたって話でしたけど、通知だけで放り出すなんて区もあるんですねー」とソーシャルワーカーさんも驚いていた。
念のため、その人からも電話できいてもらったけど、福祉事務所で相談にのってくれるんではないかとのことだったので、事業所リストをもらいにあらためて福祉事務所を訪ねることにした。
が、そこでの対応も似たりよったりだった。
リストはくれたけど、事業所の所在地と連絡先がダーーッと書いてあるだけで、「まあ一番近くの事業所からあたってみたらいかがでしょう」の一言で終わり。
結局、特定の事業所を勧めるというのは行政の立場上できないということなんだろう。
それはわかるけど、事業所といっても玉石混淆のはず。
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一応事業所PR欄もあるんだけど「心あたたまるケアを目指しています」とか抽象的なこと書かれてても話になんないわ。
そうこうしているうちに周囲からも情報が集まってきたが、ほとんどが介護保険でのヘルパー支援のケース。
介護保険は65歳以上でないと使えないということも意外にみんな知らないようだ。
ケアマネージャーがケアプランをたててくれるからまずケアマネを探すべしとか、いやケアマネがつくのは高齢者(介護保険利用者)のみで障害者にはつかないよとか、ただ漠然と「家事支援」とかじゃなくて「入浴介助」とか切実で具体的な問題をアピールしなきゃダメとか、いや入浴介助は介護保険でしょとか、なんか聞くたびに情報が錯綜し、翻弄され、数日で早くも頭がぐるぐるしてきた
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というわけで、正念場のほうが山を越えて、どこかの総理ではないけど「一定の目処がついたら」あらためて事業所探しに取り組もうと思う。
ただ、たとえヘルパーさんに来てもらえるようになったところで、週1時間程度では今の苦境はどうにもならないだろう。
今後はもう少しシステマチックに、定期的に、誰にこれだけの頻度で何をやってもらうという決めごとをきっちりしておく必要がありそうだ。
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もちろん、自分の手でやるようにやってもらうことが不可能だということはわかっているが、「説明しなくてもある程度事情をのみこんで自主的にやってくれる」という部分を少しずつでも増やしていかないと多分私はこの先生きていけないだろう。
あー、事業所ミシュランがほしいわ〜。
「ここがいいですよ」と推薦するのは難しくても、質を保つための第三者によるチェック機関は必要なんじゃないだろうか。
でないと、ずっと玉石混淆のままじゃないか。
元気だったら覆面調査員やってミシュランガイド作るのになー。
あ、元気だったらヘルパーさん使わないか。。。。
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「全摘とは言わないけど、局所くりぬきでも手術する気はない?」
一条先生(仮名)がまた蒸し返してきた。
検査結果を検討した結果、どうやら転移はしていなさそうだということがわかると、それはそれでまた「せっかく転移してないんだから今のうちに治療しようよ」という気になってきたらしい。
医者にしてみれば、目の前にあるものをそのままにしておくというのはなんとも居心地が悪いものなんだろう。
「前にも言った通り、治療はしません。目の前に見えてるものをとり除いたからといって、それで治ったとも思わないし、安心もできません。見えないところで起こっていることが大部分なんですから。手術なんかしたって外科的処置でまた体に影響が出るという不安が増えるだけです」
今まで何度も繰り返して来た返答をもう一度繰り返すと、一条先生は「やっぱり…」という表情をしつつ、また予想通りの言葉を返してきた。
「じゃあホルモン療法は?ホルモンだけでもやってみない?」
だ・か・ら〜!!
それもやらないって何度も言ってるじゃんよー。
「なんでホルモン療法いやなの?」
「なんで勧めるんですか」
「ホルモン陽性だし、効く可能性高いと思うんだけど」
「信用できない。そんなに効くんだったら陽性の人はみんな術前でホルモン療法やればいいじゃないですか。術前化学療法はやっても術前ホルモン療法はほとんどやらないってことはそれほど効くとは思ってないからでしょ」
「まあたしかにそれはそうなんだけど」
「ホルモンと関係があることがわかったからといって、ホルモン抑えればがんも治るなんてそんな単純な話じゃないと思う」
いい加減ウンザリしてきて、こっちもかなりケンカ腰になってきた。
でもここまで言わなきゃわからないのだから、自分が感じている正直な気持ちははっきりと言うしかない。今まで言えなかった分よけいに…。
「たしかにそう単純じゃないというのはその通りなんだけど、『副作用も軽くて、効果もある』という人も一定数いることもたしかで…」
「その集計データはどういう条件で集めてるんですか。過去に私と同じ治療を受けたことがある人たちですか?治療歴なにもない人と比較しても意味ないんじゃないですか?」
「まあそう言われればそうなんだけど…。でも『副作用が重く出て、効果もない』って最初からネガティブに考えすぎじゃないかな。可能性としては『副作用が重い・軽い』『効果がある・ない』の組合わせで4通りあるわけだから…」
「理論としてはそうでも、前提条件が違う以上、同じ可能性ではないでしょう。今でも過去の治療のせいでホルモンバランスめちゃくちゃになってんのに、これ以上ホルモンいじって体調がよくなるって考えるほうが不自然でしょう」
どこまでいっても平行線。。。
向こうが考えてることは手に取るようにわかる。
放置しておいてよくなるものじゃない以上、まずは試してみるべき。
やってみて副作用がつらかったら途中でやめればいい。
意外に副作用が軽くてしかも効いたらラッキーと思えばいい。
そんな感じだと思う。
一見もっともらしい理屈だが、副作用というのはそのときだけのものじゃない。
目に見えないところで、治療を受けるたびに自己治癒力は確実にダメージを受けている。
それが積もり積もって今の状態があるのだから、「つらかったらやめれば」という感覚じたいすごくお気楽に見える。
今まで充分治療する機会は与えたつもりだ。
それでもこんな状態なんだから、「もう一度やらせて」と言われても「まだやる気?」としか思えない。
そう言うと今度は「でも治療したからホジキンは治ったじゃないか。治療してなければ今頃命落としてたよ」と問題をすりかえてくる。
べつにホジキンの治療について否定はしていない。
ただ「ここまでやる必要があったのか?」という点についてはいまだに疑問をもっている。
やりすぎによって、次のがんを引き起こしたり、重篤な障害を残したりすれば、「治った」とは言えないだろう。「ホジキン」が治ればあとはどうなってもいいというわけじゃない。
私は過去の治療が「誰に見せても恥ずかしくないほどの正当な治療」だったとは思っていない。
だから訴訟も起こした。
でも、百歩譲って、「今の医学で精一杯の治療をしたし、恥ずべきことややましいことはいっさいない」のだとしても、今の状態を作ったことは事実。
つまり今の状態とひきかえでなければ治療はできなかった。後遺症は防ぎようがなかった。それが西洋医学の限界だった。ということだ。
だとしたら、その「限界」を認めてほしい。
なんでもかんでも自分たちが正しいと思わないでほしい。
治療を受けるのが当たり前だと思わないでほしい。
それだけだ。
前にも書いたけど、「セカンドキャンサー外来」があったらいいのにな。
初めてがんになった人は、まだ体力もあっていろいろ調べにまわったりできるし、治療に耐えられる体も持っている。
でも一度がんになった人は人生観も身体観もすべて変わってしまうし、治療の選択肢も限られてしまう。
両方の患者に対して柔軟に対応できる医者はいったいどのくらいいるんだろうか。
多分「乳がん」は「乳がん」としか思っていない医者がほとんどなのではないだろうか。
ホルモンレセプターが陽性か陰性かの区別には注目しても、どんな生活を送り、どんな体質を持っている人なのかについては通り一遍のチェックしかしない。
どこまでがんが浸潤しているかは懸命に調べるが、その人が医療や病気に対してどういう価値観を持っているのか、どのくらい精神力が強いのか、などということには興味がない。
というか、治療には関係ないと思っている。
そんな体質が10年や20年で変わるとは思えないので、多分日本の医療はずっとこのままだろう。
少なくとも、患者が意識を変えない限り、病院も医師もずっとこのままだと思う。
一条先生(仮名)がまた蒸し返してきた。
検査結果を検討した結果、どうやら転移はしていなさそうだということがわかると、それはそれでまた「せっかく転移してないんだから今のうちに治療しようよ」という気になってきたらしい。
医者にしてみれば、目の前にあるものをそのままにしておくというのはなんとも居心地が悪いものなんだろう。
「前にも言った通り、治療はしません。目の前に見えてるものをとり除いたからといって、それで治ったとも思わないし、安心もできません。見えないところで起こっていることが大部分なんですから。手術なんかしたって外科的処置でまた体に影響が出るという不安が増えるだけです」
今まで何度も繰り返して来た返答をもう一度繰り返すと、一条先生は「やっぱり…」という表情をしつつ、また予想通りの言葉を返してきた。
「じゃあホルモン療法は?ホルモンだけでもやってみない?」
だ・か・ら〜!!
それもやらないって何度も言ってるじゃんよー。
「なんでホルモン療法いやなの?」
「なんで勧めるんですか」
「ホルモン陽性だし、効く可能性高いと思うんだけど」
「信用できない。そんなに効くんだったら陽性の人はみんな術前でホルモン療法やればいいじゃないですか。術前化学療法はやっても術前ホルモン療法はほとんどやらないってことはそれほど効くとは思ってないからでしょ」
「まあたしかにそれはそうなんだけど」
「ホルモンと関係があることがわかったからといって、ホルモン抑えればがんも治るなんてそんな単純な話じゃないと思う」
いい加減ウンザリしてきて、こっちもかなりケンカ腰になってきた。
でもここまで言わなきゃわからないのだから、自分が感じている正直な気持ちははっきりと言うしかない。今まで言えなかった分よけいに…。
「たしかにそう単純じゃないというのはその通りなんだけど、『副作用も軽くて、効果もある』という人も一定数いることもたしかで…」
「その集計データはどういう条件で集めてるんですか。過去に私と同じ治療を受けたことがある人たちですか?治療歴なにもない人と比較しても意味ないんじゃないですか?」
「まあそう言われればそうなんだけど…。でも『副作用が重く出て、効果もない』って最初からネガティブに考えすぎじゃないかな。可能性としては『副作用が重い・軽い』『効果がある・ない』の組合わせで4通りあるわけだから…」
「理論としてはそうでも、前提条件が違う以上、同じ可能性ではないでしょう。今でも過去の治療のせいでホルモンバランスめちゃくちゃになってんのに、これ以上ホルモンいじって体調がよくなるって考えるほうが不自然でしょう」
どこまでいっても平行線。。。
向こうが考えてることは手に取るようにわかる。
放置しておいてよくなるものじゃない以上、まずは試してみるべき。
やってみて副作用がつらかったら途中でやめればいい。
意外に副作用が軽くてしかも効いたらラッキーと思えばいい。
そんな感じだと思う。
一見もっともらしい理屈だが、副作用というのはそのときだけのものじゃない。
目に見えないところで、治療を受けるたびに自己治癒力は確実にダメージを受けている。
それが積もり積もって今の状態があるのだから、「つらかったらやめれば」という感覚じたいすごくお気楽に見える。
今まで充分治療する機会は与えたつもりだ。
それでもこんな状態なんだから、「もう一度やらせて」と言われても「まだやる気?」としか思えない。
そう言うと今度は「でも治療したからホジキンは治ったじゃないか。治療してなければ今頃命落としてたよ」と問題をすりかえてくる。
べつにホジキンの治療について否定はしていない。
ただ「ここまでやる必要があったのか?」という点についてはいまだに疑問をもっている。
やりすぎによって、次のがんを引き起こしたり、重篤な障害を残したりすれば、「治った」とは言えないだろう。「ホジキン」が治ればあとはどうなってもいいというわけじゃない。
私は過去の治療が「誰に見せても恥ずかしくないほどの正当な治療」だったとは思っていない。
だから訴訟も起こした。
でも、百歩譲って、「今の医学で精一杯の治療をしたし、恥ずべきことややましいことはいっさいない」のだとしても、今の状態を作ったことは事実。
つまり今の状態とひきかえでなければ治療はできなかった。後遺症は防ぎようがなかった。それが西洋医学の限界だった。ということだ。
だとしたら、その「限界」を認めてほしい。
なんでもかんでも自分たちが正しいと思わないでほしい。
治療を受けるのが当たり前だと思わないでほしい。
それだけだ。
前にも書いたけど、「セカンドキャンサー外来」があったらいいのにな。
初めてがんになった人は、まだ体力もあっていろいろ調べにまわったりできるし、治療に耐えられる体も持っている。
でも一度がんになった人は人生観も身体観もすべて変わってしまうし、治療の選択肢も限られてしまう。
両方の患者に対して柔軟に対応できる医者はいったいどのくらいいるんだろうか。
多分「乳がん」は「乳がん」としか思っていない医者がほとんどなのではないだろうか。
ホルモンレセプターが陽性か陰性かの区別には注目しても、どんな生活を送り、どんな体質を持っている人なのかについては通り一遍のチェックしかしない。
どこまでがんが浸潤しているかは懸命に調べるが、その人が医療や病気に対してどういう価値観を持っているのか、どのくらい精神力が強いのか、などということには興味がない。
というか、治療には関係ないと思っている。
そんな体質が10年や20年で変わるとは思えないので、多分日本の医療はずっとこのままだろう。
少なくとも、患者が意識を変えない限り、病院も医師もずっとこのままだと思う。
手が不自由になって、自分で料理が作れなくなった。
自分の食べたいものを自分で好きなように作れるのはなんて幸せなことなんだろう。
料理が好きだっただけに、自分で作ることができないのはストレスだ(作ってくれる人には申し訳ないけど)。
料理に限らず、人にしてもらうよりは自分でしたいよね。誰だって。
介助があれば、まだ自分の作りたい物を作ることはできるけど、常に手伝ってくれる人がいるわけではないので、そういうときは外食なり、買ってきたものを食べるなり…ということになる。
しかし、これはこれでまたストレスなのだ。
開封したり、茶碗を持ったり…といった細かいさまざまなところでつまづくので、やっぱり一人ではできないことがたくさん出てくる。
特に外食は、一人だといちいちお店の人に頼まなければならず、気が重い。
セルフサービスの店などもいろいろ考えると入りにくくなる。
今日は久しぶりに一人でモスバーガーに入ったのだが、トレーを受け取るときにバランスを崩してコーヒーをソーサーにこぼしてしまった。
一瞬「あっ」と思ったが、このときの店員さん(女性)がよくできた人で、すぐに私の手が不自由だと認識し、「運びますからどうぞ」と席に案内してくれて、コーヒーもとりかえてくれて、ドレッシングの小袋もクリームのポーションも開けてくれた(ドレッシングも全部かけるのではなく、あとから好みで足せるようにと七分目くらいまでで止めてくれた)。
当たり前のように思うかもしれないけど、なかなかここまで自然に、気持ちよく、しかも自主的にやってくれる人はいない。
サービス料をとるようなレストランでもまったく気が利かないところもあるし、同じ店でも人によって対応が違ったりする。
聖路加通院時にいつも行く店は、週に1回以上は必ず通っているのでもう顔を憶えられてしまい、黙ってても肉や魚やパンまでカットしたものを出してくれるし、荷物を置く椅子は右側に持ってきてくれる。
こうなると、初めて入るお店はますます敷居が高くなり、同じ店ばかりに足が向くようになってしまうのだが、それだけに「一を見て十を判断する」みたいな店員さんにあたるとすごく嬉しくなる。
その一方で、障害者を相手に仕事をしているところなのになんで?という対応をされて愕然とすることもある。
今年になってから障害が進み、福祉事務所に相談に行ったら「障害認定の取り直し(3級から2級へ)」と「ヘルパー支援の要請」をおこなうようにアドバイスされた…という話はすでに書いたが、それからはや2ヶ月。手続きするたびに壁にぶちあたり、いまだに現在進行形だ。
上肢障害に関して私がおこなっている(あるいはおこなった)手続きは以下の通り。
1)骨折による治療費および保険金請求(保険会社)
2)骨折による後遺障害保険金請求(保険会社)
3)障害者手帳の認定取り直し(福祉事務所)
4)自動車税の減免手続き(都税事務所)
5)ガソリン代の助成(福祉事務所)
6)医療費の助成(福祉事務所)
7)障害厚生年金の受給手続き(年金事務所)
8)居宅介護の要請(区役所障害者施策課)
この半年でどのくらい診断書をとったことか。
1通とるのに9000円近くかかるので、費用もバカにならない。
あとから還付されるものに関しては領収書をまとめておかなければならないし、「審査に通れば還付。通らなければ診断書の文書料のみ返金」など、結果次第で変わってくるケースもあったりして、これだけ同時進行していると、なんの書類を受け取っているのか、依頼しているのか、わけがわからなくなってきて、書類が郵送されてくるたびに、また仕分けしなければ…とプレッシャーにつぶされそうになる。
一条先生(仮名)に「部屋が散らかって片付かない」と愚痴ったら「みんな捨てちゃえばいいじゃん」と簡単に言われたが、散らかっている原因の大部分はこうした医療福祉関係の書類なのだ。
昔の診療記録や検査データは病院にも残っていないから、古いものでもうっかり処分はできない。
人に頼もうにも複雑すぎて頼めないし、いちいち内容を確認しようとするたびに手が思うように動かなくて涙目。
電話しながら冊子をめくったりメモをとったりもできないので、簡単に電話連絡されても困るし。
手書きも厳しいので、記入量が多いときは「お願いだから電子化してよ〜」と叫びたくなる。
今日もガソリン代の助成申請のために福祉事務所に行ってきたが、記入に何十分もかかり、なおかつ「準備してくるもの」のリストに書いてなかったものもあとから次々に要求され、「自動車税減免とセットなんだから通知と一緒に申請用紙送付してよ〜。そしたら事前に記入してこられるのに〜」とその要領の悪さにイライラ。
また、対応する職員がおじさんだと、往々にして仕事が遅くて、不手際も多い。今日も年輩の女性職員に1カ所、若手女性職員に1カ所不手際を指摘されてオロオロしていた。
それでもまあ1)〜6)まではなんとかなった。
障害の等級も3級から2級にあがった。
が、ここから先が険しかった。
問題は7)と8)だ。
障害年金の存在は福祉事務所で教えてもらったのだが、管轄は区役所の国保年金課か年金事務所かどちらかになると言われた。
どういう意味かというと、「初診日=障害が生じる原因となった病気のことで初めて病院にかかった日」に国民年金を払っていた場合は前者、厚生年金を払っていた場合は後者の管轄になるというのだ。
私の場合、障害が起こった原因は治療なので、治療日までさかのぼるのか、それともホジキン発症までさかのぼるかで支払っている年金も違ってきてしまう。
わからないのでとりあえず国保年金課に行ってみた。
ひととおり事情を話したら「とにかく初診です。最初に不調を感じて病院に行った日です。そのときに見当違いの診断をされてそのあとに本当の病名がわかった…というケースであっても、最初の診察が基準になります」と言われたので、じゃあ頸部が初めて腫れた昭和62年までさかのぼることになるので会社員時代かな…と思い、今度は年金事務所を訪ねた。
「障害年金の申請をしたいんですけど」というと、窓口のおじさんはまず「病名は?」ときいてきた。
「ホジキンです」と答えたところ、おじさんは「ほいきた」と言わんばかりの手慣れた様子で書棚からシュパシュパと用紙を抜き取り、目の前にダーーーッと並べた。
必要な書類は大きく分けて4種類あり、うち2種類は自分で書くものだったが、残りの2種類は病院が書くものだった。
ひとつは「現在の状況について報告する証明書」。
これは現在の主治医である一条先生に書いてもらえばいい。
問題はもうひとつのほう。これが「初診証明」だ。
当然、L病院に書いてもらうしかない。
とたんに気が重くなった。
誰に頼んだらいいんだこれ……。
おじさんは「記入するのに楽なように」…と、あらかじめ鉛筆で丸をつけながら説明を続けた。
「『傷病は治っていますか?』……これは『いいえ』に◯…と」
……え??
いや、ホジキンだったら治ってるから『はい』なんだけど。
でも『はい』だと「じゃあ障害ないじゃん」ってことになっちゃうのか。
ぷぎゃーー。どうすんだ、これ(>_<)
「あのー、病名はホジキンなんですけど、障害の原因はホジキンの治療であってホジキンそのものじゃないんです。そういう場合はどうしたら…」
そう質問したら、水をさされたおじさんは「そんな難しいこと言われてもわかんないよ」と不機嫌になってしまった。
「とにかく、申請しても審査に通らなければ受給できないから、あんまり期待しないでね」
えーー、ここまでめんどくさいことやらせられたらそりゃ期待するよ。なに言ってんだよ。
とりあえず、まず厄介なのは初診証明をどうやってとるかだ。
因果関係をいまだに認めようとしないL病院がはたしてこの書類を書いてくれるのだろうか。
正面きって頼めばまたいやがらせでなかなか書いてくれないということも充分ありうる。
ということで、最初は裁判でお世話になった弁護士に相談してみた。
弁護士を通して書類を書くように言ってもらえないかなと思ったのだ。
が、今までL病院に散々非常識な態度をとられてきた弁護士は、「あの病院が書くはずない。当時のことを知ってる先生だってもういないだろうし、カルテだって保管してないだろうから、うちで保全したカルテのコピーを持っていってべつの病院の先生に書いてもらったほうがいい」と主張。
本当にそんなことが通るのかどうか、今度は聖路加のSSD(医療社会事業課)のソーシャルワーカーに相談してみた。
ここはさすがに専門部署だけあって一番詳しかったが、がっかりすることが立て続けに判明した。
まず、初診証明はあくまでも「医療機関」の証明なので、現在L病院に勤めている医師でなくては出せないということ。
もうひとつは、心配していた通り「この診断書は『血液疾患(ホジキン)』についての書類であり、現在の障害は肢体不自由なので、『肢体不自由』用の診断書を出さないと現在の状態を説明できない」ということ。
じゃあこの診断書はいらないのかと聞いたら「両方必要」だという。
えーーーー、だから窓口でそう聞いたのにーーーー!!!
結局、年金事務所に電話して書類を追加郵送してもらうことにした。
また、その場でL病院のソーシャルワーカーに電話を入れ、「20年以上前の初診証明をとりたいんだけどどこへ頼めばいいのか」と聞いてもらったところ、これまた予想通りの答えが返ってきた。
聖路加には文書を一括して取り扱う「文書係」というセクションがあり、すべての文書依頼はそこで受け付けてくれる。その後、文書係のほうでしかるべき科の医師にまわしてくれるのだが、連携最低のL病院は、各科の事務が受け付けるシステムになっているため、どの科に持っていけばいいのかがわからないと受付場所が決まらないのだという。
初診は第二外科(診断がつかなかった段階まで広げれば膠原病内科)だったが、すでに20年以上たっているので、科は何度も統廃合され、当時の姿は残っていない。
もはや、当時の科が今の何科かというよりも、個人的に頼みやすい先生に直接頼んだほうが早いような感じだ。
放射線科と内科にはもう絶対近づきたくない。
となると外科だけど、当時の担当医で今も残ってる先生って……あ、一人だけいた!
当時、研修医だった北原先生(仮名)が乳腺科にいる。
今は他の病院に移ったと聞いているが、たしかまだ週1回は外来に出ているはずだ。
そうだ。北原先生なら頼めるかもしれない。
さっそくメールをしてみたところ、「書くのはかまわないけれど、所属が乳腺科でもいいのか。また、今はL病院では非常勤の立場になるんだけどそれでも大丈夫か」とまたややこしいことをきいてきた。
私に聞かれても〜〜〜!!
SSDに電話して聞いたら「それはわからないですねー。年金事務所に直接きいてみてください」と言われ、年金事務所に聞いたらもっと話が通じず「それは審査する機関がどう判断するかなのでこちらではわからないです。先生が書いてくれるって言ってるんでしょ?先生なんでしょ?ならいいんじゃないですか?もし通らなかったら『こういう理由で初診証明ができませんでした』っていう申立書が必要になりますけど…。まあそういうケースもあるんですよ。廃院になっちゃっててもうないとか。でもあるんでしょ?病院」…と聞けば聞くほどめんどうなことになっていくので「もういい!」と諦め、北原先生に頼むことにした。
時間を約束して外来に行ったら、こちらが持っていったカルテコピーを元にその場で文書を作成してくれたので、思っていたよりはすんなりと書類を手に入れることができた。
しかし…やっぱないんだな、昔のカルテ。
マイクロフィルムには収められているらしいが、収められてるだけで、そう簡単に出してはくれないようだ。それって事実上「ない」ってことと同じじゃん。
マイクロフィルム化できない資料については群馬の山奥の倉庫に保管されているらしい。
ますますもって「出す気なし」って感じ。
とにかく、これで初診証明はとれた。
次は一条先生に書いてもらう書類2通だが、「血液疾患用」はともかく、「肢体不自由用」は計測(腕や指の可動範囲を細かく測る)項目がいっぱいあるので、整形外科にまわすか、リハビリ室の療法士にオーダーを出してもらうかしなくてはならない。
この計測っていうのがまた時間かかるんでどこに頼んでもいやがられるんだよなー。
なんかここまでハードルが多いと、いかにして諦めさせるかを狙ってるように思えてくる。
毎日の日常をこなすだけでもギリギリなのに、なぜ肉体的にも精神的にも金銭的にも次々に負荷をかけてくるのだろうか。
8)の居宅介護要請についてはまた次回。
自分の食べたいものを自分で好きなように作れるのはなんて幸せなことなんだろう。
料理が好きだっただけに、自分で作ることができないのはストレスだ(作ってくれる人には申し訳ないけど)。
料理に限らず、人にしてもらうよりは自分でしたいよね。誰だって。
介助があれば、まだ自分の作りたい物を作ることはできるけど、常に手伝ってくれる人がいるわけではないので、そういうときは外食なり、買ってきたものを食べるなり…ということになる。
しかし、これはこれでまたストレスなのだ。
開封したり、茶碗を持ったり…といった細かいさまざまなところでつまづくので、やっぱり一人ではできないことがたくさん出てくる。
特に外食は、一人だといちいちお店の人に頼まなければならず、気が重い。
セルフサービスの店などもいろいろ考えると入りにくくなる。
今日は久しぶりに一人でモスバーガーに入ったのだが、トレーを受け取るときにバランスを崩してコーヒーをソーサーにこぼしてしまった。
一瞬「あっ」と思ったが、このときの店員さん(女性)がよくできた人で、すぐに私の手が不自由だと認識し、「運びますからどうぞ」と席に案内してくれて、コーヒーもとりかえてくれて、ドレッシングの小袋もクリームのポーションも開けてくれた(ドレッシングも全部かけるのではなく、あとから好みで足せるようにと七分目くらいまでで止めてくれた)。
当たり前のように思うかもしれないけど、なかなかここまで自然に、気持ちよく、しかも自主的にやってくれる人はいない。
サービス料をとるようなレストランでもまったく気が利かないところもあるし、同じ店でも人によって対応が違ったりする。
聖路加通院時にいつも行く店は、週に1回以上は必ず通っているのでもう顔を憶えられてしまい、黙ってても肉や魚やパンまでカットしたものを出してくれるし、荷物を置く椅子は右側に持ってきてくれる。
こうなると、初めて入るお店はますます敷居が高くなり、同じ店ばかりに足が向くようになってしまうのだが、それだけに「一を見て十を判断する」みたいな店員さんにあたるとすごく嬉しくなる。
その一方で、障害者を相手に仕事をしているところなのになんで?という対応をされて愕然とすることもある。
今年になってから障害が進み、福祉事務所に相談に行ったら「障害認定の取り直し(3級から2級へ)」と「ヘルパー支援の要請」をおこなうようにアドバイスされた…という話はすでに書いたが、それからはや2ヶ月。手続きするたびに壁にぶちあたり、いまだに現在進行形だ。
上肢障害に関して私がおこなっている(あるいはおこなった)手続きは以下の通り。
1)骨折による治療費および保険金請求(保険会社)
2)骨折による後遺障害保険金請求(保険会社)
3)障害者手帳の認定取り直し(福祉事務所)
4)自動車税の減免手続き(都税事務所)
5)ガソリン代の助成(福祉事務所)
6)医療費の助成(福祉事務所)
7)障害厚生年金の受給手続き(年金事務所)
8)居宅介護の要請(区役所障害者施策課)
この半年でどのくらい診断書をとったことか。
1通とるのに9000円近くかかるので、費用もバカにならない。
あとから還付されるものに関しては領収書をまとめておかなければならないし、「審査に通れば還付。通らなければ診断書の文書料のみ返金」など、結果次第で変わってくるケースもあったりして、これだけ同時進行していると、なんの書類を受け取っているのか、依頼しているのか、わけがわからなくなってきて、書類が郵送されてくるたびに、また仕分けしなければ…とプレッシャーにつぶされそうになる。
一条先生(仮名)に「部屋が散らかって片付かない」と愚痴ったら「みんな捨てちゃえばいいじゃん」と簡単に言われたが、散らかっている原因の大部分はこうした医療福祉関係の書類なのだ。
昔の診療記録や検査データは病院にも残っていないから、古いものでもうっかり処分はできない。
人に頼もうにも複雑すぎて頼めないし、いちいち内容を確認しようとするたびに手が思うように動かなくて涙目。
電話しながら冊子をめくったりメモをとったりもできないので、簡単に電話連絡されても困るし。
手書きも厳しいので、記入量が多いときは「お願いだから電子化してよ〜」と叫びたくなる。
今日もガソリン代の助成申請のために福祉事務所に行ってきたが、記入に何十分もかかり、なおかつ「準備してくるもの」のリストに書いてなかったものもあとから次々に要求され、「自動車税減免とセットなんだから通知と一緒に申請用紙送付してよ〜。そしたら事前に記入してこられるのに〜」とその要領の悪さにイライラ。
また、対応する職員がおじさんだと、往々にして仕事が遅くて、不手際も多い。今日も年輩の女性職員に1カ所、若手女性職員に1カ所不手際を指摘されてオロオロしていた。
それでもまあ1)〜6)まではなんとかなった。
障害の等級も3級から2級にあがった。
が、ここから先が険しかった。
問題は7)と8)だ。
障害年金の存在は福祉事務所で教えてもらったのだが、管轄は区役所の国保年金課か年金事務所かどちらかになると言われた。
どういう意味かというと、「初診日=障害が生じる原因となった病気のことで初めて病院にかかった日」に国民年金を払っていた場合は前者、厚生年金を払っていた場合は後者の管轄になるというのだ。
私の場合、障害が起こった原因は治療なので、治療日までさかのぼるのか、それともホジキン発症までさかのぼるかで支払っている年金も違ってきてしまう。
わからないのでとりあえず国保年金課に行ってみた。
ひととおり事情を話したら「とにかく初診です。最初に不調を感じて病院に行った日です。そのときに見当違いの診断をされてそのあとに本当の病名がわかった…というケースであっても、最初の診察が基準になります」と言われたので、じゃあ頸部が初めて腫れた昭和62年までさかのぼることになるので会社員時代かな…と思い、今度は年金事務所を訪ねた。
「障害年金の申請をしたいんですけど」というと、窓口のおじさんはまず「病名は?」ときいてきた。
「ホジキンです」と答えたところ、おじさんは「ほいきた」と言わんばかりの手慣れた様子で書棚からシュパシュパと用紙を抜き取り、目の前にダーーーッと並べた。
必要な書類は大きく分けて4種類あり、うち2種類は自分で書くものだったが、残りの2種類は病院が書くものだった。
ひとつは「現在の状況について報告する証明書」。
これは現在の主治医である一条先生に書いてもらえばいい。
問題はもうひとつのほう。これが「初診証明」だ。
当然、L病院に書いてもらうしかない。
とたんに気が重くなった。
誰に頼んだらいいんだこれ……。
おじさんは「記入するのに楽なように」…と、あらかじめ鉛筆で丸をつけながら説明を続けた。
「『傷病は治っていますか?』……これは『いいえ』に◯…と」
……え??
いや、ホジキンだったら治ってるから『はい』なんだけど。
でも『はい』だと「じゃあ障害ないじゃん」ってことになっちゃうのか。
ぷぎゃーー。どうすんだ、これ(>_<)
「あのー、病名はホジキンなんですけど、障害の原因はホジキンの治療であってホジキンそのものじゃないんです。そういう場合はどうしたら…」
そう質問したら、水をさされたおじさんは「そんな難しいこと言われてもわかんないよ」と不機嫌になってしまった。
「とにかく、申請しても審査に通らなければ受給できないから、あんまり期待しないでね」
えーー、ここまでめんどくさいことやらせられたらそりゃ期待するよ。なに言ってんだよ。
とりあえず、まず厄介なのは初診証明をどうやってとるかだ。
因果関係をいまだに認めようとしないL病院がはたしてこの書類を書いてくれるのだろうか。
正面きって頼めばまたいやがらせでなかなか書いてくれないということも充分ありうる。
ということで、最初は裁判でお世話になった弁護士に相談してみた。
弁護士を通して書類を書くように言ってもらえないかなと思ったのだ。
が、今までL病院に散々非常識な態度をとられてきた弁護士は、「あの病院が書くはずない。当時のことを知ってる先生だってもういないだろうし、カルテだって保管してないだろうから、うちで保全したカルテのコピーを持っていってべつの病院の先生に書いてもらったほうがいい」と主張。
本当にそんなことが通るのかどうか、今度は聖路加のSSD(医療社会事業課)のソーシャルワーカーに相談してみた。
ここはさすがに専門部署だけあって一番詳しかったが、がっかりすることが立て続けに判明した。
まず、初診証明はあくまでも「医療機関」の証明なので、現在L病院に勤めている医師でなくては出せないということ。
もうひとつは、心配していた通り「この診断書は『血液疾患(ホジキン)』についての書類であり、現在の障害は肢体不自由なので、『肢体不自由』用の診断書を出さないと現在の状態を説明できない」ということ。
じゃあこの診断書はいらないのかと聞いたら「両方必要」だという。
えーーーー、だから窓口でそう聞いたのにーーーー!!!
結局、年金事務所に電話して書類を追加郵送してもらうことにした。
また、その場でL病院のソーシャルワーカーに電話を入れ、「20年以上前の初診証明をとりたいんだけどどこへ頼めばいいのか」と聞いてもらったところ、これまた予想通りの答えが返ってきた。
聖路加には文書を一括して取り扱う「文書係」というセクションがあり、すべての文書依頼はそこで受け付けてくれる。その後、文書係のほうでしかるべき科の医師にまわしてくれるのだが、連携最低のL病院は、各科の事務が受け付けるシステムになっているため、どの科に持っていけばいいのかがわからないと受付場所が決まらないのだという。
初診は第二外科(診断がつかなかった段階まで広げれば膠原病内科)だったが、すでに20年以上たっているので、科は何度も統廃合され、当時の姿は残っていない。
もはや、当時の科が今の何科かというよりも、個人的に頼みやすい先生に直接頼んだほうが早いような感じだ。
放射線科と内科にはもう絶対近づきたくない。
となると外科だけど、当時の担当医で今も残ってる先生って……あ、一人だけいた!
当時、研修医だった北原先生(仮名)が乳腺科にいる。
今は他の病院に移ったと聞いているが、たしかまだ週1回は外来に出ているはずだ。
そうだ。北原先生なら頼めるかもしれない。
さっそくメールをしてみたところ、「書くのはかまわないけれど、所属が乳腺科でもいいのか。また、今はL病院では非常勤の立場になるんだけどそれでも大丈夫か」とまたややこしいことをきいてきた。
私に聞かれても〜〜〜!!
SSDに電話して聞いたら「それはわからないですねー。年金事務所に直接きいてみてください」と言われ、年金事務所に聞いたらもっと話が通じず「それは審査する機関がどう判断するかなのでこちらではわからないです。先生が書いてくれるって言ってるんでしょ?先生なんでしょ?ならいいんじゃないですか?もし通らなかったら『こういう理由で初診証明ができませんでした』っていう申立書が必要になりますけど…。まあそういうケースもあるんですよ。廃院になっちゃっててもうないとか。でもあるんでしょ?病院」…と聞けば聞くほどめんどうなことになっていくので「もういい!」と諦め、北原先生に頼むことにした。
時間を約束して外来に行ったら、こちらが持っていったカルテコピーを元にその場で文書を作成してくれたので、思っていたよりはすんなりと書類を手に入れることができた。
しかし…やっぱないんだな、昔のカルテ。
マイクロフィルムには収められているらしいが、収められてるだけで、そう簡単に出してはくれないようだ。それって事実上「ない」ってことと同じじゃん。
マイクロフィルム化できない資料については群馬の山奥の倉庫に保管されているらしい。
ますますもって「出す気なし」って感じ。
とにかく、これで初診証明はとれた。
次は一条先生に書いてもらう書類2通だが、「血液疾患用」はともかく、「肢体不自由用」は計測(腕や指の可動範囲を細かく測る)項目がいっぱいあるので、整形外科にまわすか、リハビリ室の療法士にオーダーを出してもらうかしなくてはならない。
この計測っていうのがまた時間かかるんでどこに頼んでもいやがられるんだよなー。
なんかここまでハードルが多いと、いかにして諦めさせるかを狙ってるように思えてくる。
毎日の日常をこなすだけでもギリギリなのに、なぜ肉体的にも精神的にも金銭的にも次々に負荷をかけてくるのだろうか。
8)の居宅介護要請についてはまた次回。
結婚式に出席してから3日後、聖路加に行った。
腫瘍内科(主治医)→リハビリ(診断書作成のための計測)→眼科(定期検診・眼底検査)→文書係(診断書2通依頼)→ソーシャルワーカーに自立支援の事業所探しについて相談……とかなりハードなスケジュールだった。
しかし、メンタルはまだ回復せず、往きの電車の中からすでにボロ泣き。
これはいかんと途中でティッシュを買いたしたが、病院に着いて順番待ってるときも涙ボロボロ鼻水ダーーッ。
鞄の中にどんどんたまっていく使用済みティッシュ。
一条先生(仮名)に呼ばれてからもまたさらに大泣き。
どんだけ泣いてるんだ>私。
当然、先生は「どうしたのか」「何があったのか」と聞いてくるが、そんな問いに一言で答えられるくらいならこんなに泣いてない。
今まで何十年もずーーーーっと病院に通い続けてきたが、診察室で泣いたのはこれが初めてかもしれない(母が亡くなった直後は誰の前でも泣いていたが、それはべつとして)。
なんて答えたらいいのかなかなか思いつかなかったが、最初に出た言葉は
「なんで治療なんてしたの?」
「治療なんてしないで放っておいてくれればよかったのに」
だった。
もちろん、治療したのは一条先生ではない。
それどころか、一条先生は無治療を支持してくれた希少な先生だ。
こんな後遺症を残すほどの治療をしてくれた医者はべつにいて、その人たちは今でもそのことを絶対に認めようとしないし、責任逃れや隠蔽工作をすることしか考えていない。
私の問いに対し、一条先生は前と同じことを言った。
「過去のことを言ってもどうにもならないからね」
じゃあ何を言えばいいというのか?
現在の状態を誰もどうにもしてくれなくて、未来も考えられなかったら、原因のある過去へ感情が向かうのは当然じゃないのか?
まわりの人に「理解できない」と言われ、目の前の医者に「どうしたらいいんだろうね」と頭を抱えられ、過去にもぶつけられないというのなら、この重苦しい気持ちはいったいどこへぶつければいいのか?
国?……厚生省?……神様?
そうやっていつも同じところで堂々巡りになる。
ぐるぐるまわって、まわって、結局最後は自分のところに戻ってくる。
一条先生はかなり困って考え込んでいたが、一応私の大泣きが収まるまで待っていてくれた。
けっこうな時間、泣き続けていたが、ようやく沈静化してきたところでふと我に返った。
「そういえば、がん転移ってどうなってましたっけ?」
この前のCTで、頸部に転移を疑われる所見があったため、1週間前に頸部エコー検査を入れてもらったんだった。
今日はその結果を聞きにきたんだよ。そうだよ。
私の言葉で一条先生も我に返り、あわててデータをチェックする。
結果は、「たしかに右鎖骨上部、両顎下に5ミリ程度のリンパ節が見られるが、過去に治療をおこなった部分でもあり、その影響でリンパ節が変形しているのかも。この程度の大きさならば経過観察で充分対応可能。生検までは必要ないのでは?また、甲状腺の左側にも腫瘤が認められるが、良性だと思われる」といった内容だった。
これでとりあえず、頸部のほうも「シロ」寄りになった。
血液検査の結果も変わりなし。
腫瘍マーカーもじわじわ下がっているものもあり、上がっているものもありで、これだけではなんともいえない感じ。
「まあ、がんのほうはたいしたことないから気にしないでいいよ。とにかく支援が受けられることを最重要課題でやっていこう」という一条先生。
たいしたことないって……言い切られちゃうと…(^_^;)
でもたしかに今は支援を受けられるかどうかが一番死活問題。
まず第一に、リハビリを継続的に受けられるようにすること。
今の制度では、リハビリを受ける人をなるべく減らそうという方向に向かっているので、ボヤボヤしているとあっという間に打ち切られてしまう。
今までは昨年の骨折のためのリハビリの延長という形で受けられていたが、骨折じたいはもう治ってしまったので、このまま受け続けるのも苦しくなってきた。
「動かしていればそのうちに回復する」という機能障害ならば、ある程度動くようになったところで自主トレに切り替えろというのはわかる。
でも私は脳血管性の麻痺とは違うので、いくらリハビリをしても動くようにはならないし、自分で訓練することもできない。
そういう意味ではリハビリは「意味なし」なのだが、ただ自分では動かせなくても、人に動かしてもらうことで関節がかたまらないようにすることはできるし、今残っている神経を訓練することもできる(進行を遅らせることはできないけど)。
だから、リハビリは続けたほうがいいのだが、これ以上続けるにはドクターのあらたな依頼書が必要になる。
整形外科は「骨折までしか診ない」という態度だったのでもう頼めそうにない。
頼めるとしたら一条先生しかいないが、整形外科以外の科から依頼書を出す場合は、毎回リハビリを受ける前にその科を受診しなければならないというルールがあるらしい。
今は週1でリハビリに通っているので、そうなると今後は腫瘍内科の予約も毎週入れなくてはならない。
なんかこのルールっていうのがどこに行っても立ちふさがっていて、手続きを進めようとするたびに障害になる。
今、どういう手続きをおこなっているのかについてはまた次回まとめて書くことにする。
ちなみに、この日は泣いた分診察時間が長引き、お昼を食べそこなった。
自業自得だけど、あとでお腹が空きすぎてめまいがしてきたので、眼科で瞳孔開く目薬が効くのを待ってるあいだに食べに行った。
悲しくても、へこたれてても、おなかは空くんだな。
腫瘍内科(主治医)→リハビリ(診断書作成のための計測)→眼科(定期検診・眼底検査)→文書係(診断書2通依頼)→ソーシャルワーカーに自立支援の事業所探しについて相談……とかなりハードなスケジュールだった。
しかし、メンタルはまだ回復せず、往きの電車の中からすでにボロ泣き。
これはいかんと途中でティッシュを買いたしたが、病院に着いて順番待ってるときも涙ボロボロ鼻水ダーーッ。
鞄の中にどんどんたまっていく使用済みティッシュ。
一条先生(仮名)に呼ばれてからもまたさらに大泣き。
どんだけ泣いてるんだ>私。
当然、先生は「どうしたのか」「何があったのか」と聞いてくるが、そんな問いに一言で答えられるくらいならこんなに泣いてない。
今まで何十年もずーーーーっと病院に通い続けてきたが、診察室で泣いたのはこれが初めてかもしれない(母が亡くなった直後は誰の前でも泣いていたが、それはべつとして)。
なんて答えたらいいのかなかなか思いつかなかったが、最初に出た言葉は
「なんで治療なんてしたの?」
「治療なんてしないで放っておいてくれればよかったのに」
だった。
もちろん、治療したのは一条先生ではない。
それどころか、一条先生は無治療を支持してくれた希少な先生だ。
こんな後遺症を残すほどの治療をしてくれた医者はべつにいて、その人たちは今でもそのことを絶対に認めようとしないし、責任逃れや隠蔽工作をすることしか考えていない。
私の問いに対し、一条先生は前と同じことを言った。
「過去のことを言ってもどうにもならないからね」
じゃあ何を言えばいいというのか?
現在の状態を誰もどうにもしてくれなくて、未来も考えられなかったら、原因のある過去へ感情が向かうのは当然じゃないのか?
まわりの人に「理解できない」と言われ、目の前の医者に「どうしたらいいんだろうね」と頭を抱えられ、過去にもぶつけられないというのなら、この重苦しい気持ちはいったいどこへぶつければいいのか?
国?……厚生省?……神様?
そうやっていつも同じところで堂々巡りになる。
ぐるぐるまわって、まわって、結局最後は自分のところに戻ってくる。
一条先生はかなり困って考え込んでいたが、一応私の大泣きが収まるまで待っていてくれた。
けっこうな時間、泣き続けていたが、ようやく沈静化してきたところでふと我に返った。
「そういえば、がん転移ってどうなってましたっけ?」
この前のCTで、頸部に転移を疑われる所見があったため、1週間前に頸部エコー検査を入れてもらったんだった。
今日はその結果を聞きにきたんだよ。そうだよ。
私の言葉で一条先生も我に返り、あわててデータをチェックする。
結果は、「たしかに右鎖骨上部、両顎下に5ミリ程度のリンパ節が見られるが、過去に治療をおこなった部分でもあり、その影響でリンパ節が変形しているのかも。この程度の大きさならば経過観察で充分対応可能。生検までは必要ないのでは?また、甲状腺の左側にも腫瘤が認められるが、良性だと思われる」といった内容だった。
これでとりあえず、頸部のほうも「シロ」寄りになった。
血液検査の結果も変わりなし。
腫瘍マーカーもじわじわ下がっているものもあり、上がっているものもありで、これだけではなんともいえない感じ。
「まあ、がんのほうはたいしたことないから気にしないでいいよ。とにかく支援が受けられることを最重要課題でやっていこう」という一条先生。
たいしたことないって……言い切られちゃうと…(^_^;)
でもたしかに今は支援を受けられるかどうかが一番死活問題。
まず第一に、リハビリを継続的に受けられるようにすること。
今の制度では、リハビリを受ける人をなるべく減らそうという方向に向かっているので、ボヤボヤしているとあっという間に打ち切られてしまう。
今までは昨年の骨折のためのリハビリの延長という形で受けられていたが、骨折じたいはもう治ってしまったので、このまま受け続けるのも苦しくなってきた。
「動かしていればそのうちに回復する」という機能障害ならば、ある程度動くようになったところで自主トレに切り替えろというのはわかる。
でも私は脳血管性の麻痺とは違うので、いくらリハビリをしても動くようにはならないし、自分で訓練することもできない。
そういう意味ではリハビリは「意味なし」なのだが、ただ自分では動かせなくても、人に動かしてもらうことで関節がかたまらないようにすることはできるし、今残っている神経を訓練することもできる(進行を遅らせることはできないけど)。
だから、リハビリは続けたほうがいいのだが、これ以上続けるにはドクターのあらたな依頼書が必要になる。
整形外科は「骨折までしか診ない」という態度だったのでもう頼めそうにない。
頼めるとしたら一条先生しかいないが、整形外科以外の科から依頼書を出す場合は、毎回リハビリを受ける前にその科を受診しなければならないというルールがあるらしい。
今は週1でリハビリに通っているので、そうなると今後は腫瘍内科の予約も毎週入れなくてはならない。
なんかこのルールっていうのがどこに行っても立ちふさがっていて、手続きを進めようとするたびに障害になる。
今、どういう手続きをおこなっているのかについてはまた次回まとめて書くことにする。
ちなみに、この日は泣いた分診察時間が長引き、お昼を食べそこなった。
自業自得だけど、あとでお腹が空きすぎてめまいがしてきたので、眼科で瞳孔開く目薬が効くのを待ってるあいだに食べに行った。
悲しくても、へこたれてても、おなかは空くんだな。
今日はちょっと愚痴らせてもらうから。
…って、え?今までのは愚痴じゃなかったの?と言われそうだが、今日は「がん患者」としてではなく「障害者」としての愚痴だ。
言ってもしょうがないし、読んだ人もどんよりするだけだと思うので、今まで書くのを控えてきたが、自分の中で何かが壊れたという実感があったので、とりあえず吐き出すことにした。
ていうか、吐き出さないと危険かもしれないこれ。と思ったので。
一昨日、弟の結婚式に出席した。
結婚式に出席することじたいすごく久しぶりだし、もちろん嬉しいし、楽しみだった。
でも気の滅入ることがひとつ……それは「服装」だった。
私はもう久しくスカートをはいていない。
同時に、ストッキングもはいていない。
というか、ストッキングをはきたくないからスカートもはかなかったという部分がある。
肢体不自由者にとって、「おしゃれを楽しむ」なんてことはもっともプライオリティーの低いことだ。
特に上肢不自由者にとっては。
ただ「服を着る(脱ぐ)」というだけのことが、どれだけのエネルギーを奪っていくことか…。
楽なほうへ、楽なほうへと流れていくのはそれしか選択肢がないからだ。
私の場合、少しずつゆるやかに自由がきかなくなっていく障害なので、現在どの程度不自由になっているのか、自分でも判断しづらいことが多々ある。
ちょっと前までは普通にできていたことが、しばらくぶりにやってみたらまったくできなくなってた……ということもしばしばだ。
ただでさえ、真夏の結婚式は体力を消耗する。
なるべく無難に、なるべく楽できる服装を選ぶべきだったのかもしれない。
が、同時に、「おしゃれというものを楽しめる場に出られる機会はこれが最後かもしれない」という思いもあり、私はいつもなら絶対に着ないような膝丈のワンピースを選んだ。
ヘアメイクも会場のそばのサロンでやってもらうことにして、朝早いので前日はホテルに泊まった。
……と書くと簡単そうだが、一人で行動するのは無理なので、つねに同伴者が必要だった。
さて。問題はストッキングだ。
前にはいたのはいつだろう。
もう思いだせないくらい昔だということはたしかだ。
今回はワンピースが膝丈なので、ストッキングはフルの長さが必要だ。
なおかつ、私は大きいサイズでないと無理。
とりあえず通販カタログで探してみたが、サイズはいろいろあるものの普段づかいのものばかり。
せっかくなのでもう少しおしゃれっぽい生地のものがほしい。
で、買いに行こうと思ったが、ほとんど毎日通院や鍼通いに追われて買いに行く余裕がない。
時間がないのではなく、買い物のためだけに違う場所に立ち寄る体力がないのだ。
しかたなく通りがかりの駅ビル内の店などで2種類ほどフォーマルっぽいストッキングを買ったのだが、サイズはワンサイズしかない(S〜Lというもの)。
前から思ってたけど、SサイズとLサイズの人が同じものを兼用できるという発想はどこからくるんだろうか?
迷ったけど、ないよりはましだろうと思って買った。
さらに、随分昔に通販で買ったらしき未開封のフォーマルっぽいストッキング(LLサイズ)が箪笥の奥から出てきたので、「まあこの中のどれかは入るだろう」と思い、3足を荷物の中に入れた。
そして式前日。
ホテルにチェックインし、なんだかんだバタバタしたあと、お風呂に入ってさあ寝ようというときに、試しにストッキングをはいてみた。
ここで「え?なんでもっと前にはいてみなかったのよ〜!」というつっこみが入るかもしれない。
それについてはもうまったくその通りとしか言いようがない。
そしてその先の展開はご想像の通り。
は……け……な……い……(゚д゚)
すんなりはけるとは思ってなかったけど、まさかここまで絶望的にはけないなんて…。
この「はけない」という言葉は「サイズとして」という意味と「着脱能力」という意味の2つを兼ねる。
サイズが小さいということもさることながら、右手だけではストッキングははけないのだ。
頑張ってひっぱっても膝くらいまでしかのびない。しかも片足のみ。
生地がやわらかいのでこれ以上ひっぱったら破れそうでこわい。
あせってLLサイズをとりだしてみたが、なんと古すぎて開封しただけでゴム部分がボロボロに崩壊。
それにこちらもサイズは前に試したものとたいして違わない。
あせりを通り越して私はパニックになった。
翌朝一緒にサロンに行く従姉妹に連絡したが、時刻はもう12時近い。
サロンに行く時間は8時20分。
親族集合は10時45分。
どう考えても買いに行く時間はない。
そこでまた言われたこのセリフ。
「どうしてもっと早くはいてみなかったの!」
言われたときは本当にそうだ、私が悪い、と思ったのだが、だんだん違う感情がわいてきた。
なぜもっと早くはいてみなかったのか。
それは自分の中で「ストッキングを開封してはいてみる」というハードルがとても高かったからだ。
まず、はく以前に袋から出す作業を考えるだけでも気が重い。
そのうえ「はく」となると、正直もう考えたくないくらい荷が重い。
想像することすらきつい。
どうせ最終的には誰かにはかせてもらうことになるのだから。
そう。私は試着することから「逃げていた」。
結局、従姉妹が家にある在庫の中からLLサイズを持ってきてくれて、はかせてもらったら入ったので事なきを得たのだが、「なんでもっと早くに試着しなかったの?」という一言は予想以上に私にダメージを与え、2日たった今でもまだ立ち直れないでいる。
現実的に事前に試着しようと思ったら私はどうすればよかったのだろう。
サイズが何サイズであれ、自分でストッキングがはけないということは今回はっきりわかった。
手伝ってもらうとしたら父しかいない。
てことは、父にはかせてもらわなきゃいけないの?
股下までひっぱってもらわなきゃいけないの?
そう考えたら、なんか一気にいろいろなことが真っ暗になった。
前は、不自由ながらも自分でストッキングをはくことはできた。
でも今はできない。
こうやって「できないこと」が確実にひとつずつ増えていく。
ケガなどの一時的な不調ならば一定期間をしのげばいいが、じわじわと下降していく機能には何の希望もない。
頭ではわかっているけれど、そんなことリアルに実感しながら毎日生きていくのは耐えられない。
がんが転移するより耐えられない。
だから無理なドレスを着たり、ストッキングをはいたりして「現実」からなるべく目を背けようとしていたのだ。
私がなんとか無理を通して「平気」という顔をすれば、まわりにも絶望的な障害について考えさせずに済む。
考えさせたら最後、まわりとはつきあえなくなる。
私のほうが健常者に合わせなければ、私はいろいろなものをあきらめなければならない。
もちろん、今だって充分いろいろなものをあきらめているし、まわりも気づける範囲でサポートはしてくれている。
それでも「なんで試着しなかったの?」という一言に対して「悪かった」と思ってしまう自分に、「健常者の感覚に無意識に頑張って合わせようとしている不自然さ」を感じてしまったのは事実だ。
ひらたく言えば、私は自分で思っている以上に無理をしていたんだと思う。
「無理しないで」という言葉は、「頑張って」という言葉と同じくらい頻繁に使われる。
その言葉じたいにたいした意味はないし、いずれも社交辞令のようなもの。健康な人には「頑張って」と言い、病弱な人には「無理しないで」と言うくらいの使い分けでしかないだろう。
でも、本当にハンデのある人間は、「無理」しなかったらQOLダダ下がりになってしまう。
無理をして無理をして、それでようやく健常者が無意識にやっているレベルかそれ以下に到達できる。
健常者の「無理をする」とは次元は違うのだ。
同様に、「頑張ってるね」と言われるのも違和感を感じる。
だって「頑張らない」という選択肢はないから。
気持ちの上では無理してないし、頑張ってないつもりでも、心と体は常にロッククライマーが岩にしがみつくようにフル回転で稼働している。
それがまわりにわからないことはしょうがないと思う。
でも自分も気づかないでいたことがショックだった。
式の間は気が張っていたのでまだそこまで明確に意識していなかったが、家に帰ったら緊張の糸が一気にきれた。
本当はまわりの人の一挙手一投足にいちいち「私はあれもできないんだ」「これもできないんだ」と無意識にカウントして絶望が深くなっていたこと。できないのに、なるべくそれを悟らせないように必死に頑張ってふんばってあの場にいたこと。
そのことに気づいたら体中に「もう無理」「もう無理」「もう無理」という言葉が充満し、涙がとまらなくなった。
泣いたからって何が変わるわけでもない。
どんなに説明しても話が通じず、私が「一人暮らし」もできるくらいに思っている人もいる。
そういう人はこのブログを読むこともないだろう。
でも、状況はいろいろでも、同じような閉塞感を抱えている人は世の中にたくさんいるはず。
だから書いてみた。
これを読んで少しでも苦しみが実感できる人がいることを期待して。
最近は、右手も力が入りにくくなってきているので、タイピングもいつまでできるかわからない。
昔はどんなに長文でも平気だったが、今は片手になった分、思うように打てないし、疲労感も増している。
書けるうちに書いておきたい。発信したい。
今起こっていること、そしてまだまだ書けないでいる「私がなぜこうなったか」という過去の経緯を…。
…って、え?今までのは愚痴じゃなかったの?と言われそうだが、今日は「がん患者」としてではなく「障害者」としての愚痴だ。
言ってもしょうがないし、読んだ人もどんよりするだけだと思うので、今まで書くのを控えてきたが、自分の中で何かが壊れたという実感があったので、とりあえず吐き出すことにした。
ていうか、吐き出さないと危険かもしれないこれ。と思ったので。
一昨日、弟の結婚式に出席した。
結婚式に出席することじたいすごく久しぶりだし、もちろん嬉しいし、楽しみだった。
でも気の滅入ることがひとつ……それは「服装」だった。
私はもう久しくスカートをはいていない。
同時に、ストッキングもはいていない。
というか、ストッキングをはきたくないからスカートもはかなかったという部分がある。
肢体不自由者にとって、「おしゃれを楽しむ」なんてことはもっともプライオリティーの低いことだ。
特に上肢不自由者にとっては。
ただ「服を着る(脱ぐ)」というだけのことが、どれだけのエネルギーを奪っていくことか…。
楽なほうへ、楽なほうへと流れていくのはそれしか選択肢がないからだ。
私の場合、少しずつゆるやかに自由がきかなくなっていく障害なので、現在どの程度不自由になっているのか、自分でも判断しづらいことが多々ある。
ちょっと前までは普通にできていたことが、しばらくぶりにやってみたらまったくできなくなってた……ということもしばしばだ。
ただでさえ、真夏の結婚式は体力を消耗する。
なるべく無難に、なるべく楽できる服装を選ぶべきだったのかもしれない。
が、同時に、「おしゃれというものを楽しめる場に出られる機会はこれが最後かもしれない」という思いもあり、私はいつもなら絶対に着ないような膝丈のワンピースを選んだ。
ヘアメイクも会場のそばのサロンでやってもらうことにして、朝早いので前日はホテルに泊まった。
……と書くと簡単そうだが、一人で行動するのは無理なので、つねに同伴者が必要だった。
さて。問題はストッキングだ。
前にはいたのはいつだろう。
もう思いだせないくらい昔だということはたしかだ。
今回はワンピースが膝丈なので、ストッキングはフルの長さが必要だ。
なおかつ、私は大きいサイズでないと無理。
とりあえず通販カタログで探してみたが、サイズはいろいろあるものの普段づかいのものばかり。
せっかくなのでもう少しおしゃれっぽい生地のものがほしい。
で、買いに行こうと思ったが、ほとんど毎日通院や鍼通いに追われて買いに行く余裕がない。
時間がないのではなく、買い物のためだけに違う場所に立ち寄る体力がないのだ。
しかたなく通りがかりの駅ビル内の店などで2種類ほどフォーマルっぽいストッキングを買ったのだが、サイズはワンサイズしかない(S〜Lというもの)。
前から思ってたけど、SサイズとLサイズの人が同じものを兼用できるという発想はどこからくるんだろうか?
迷ったけど、ないよりはましだろうと思って買った。
さらに、随分昔に通販で買ったらしき未開封のフォーマルっぽいストッキング(LLサイズ)が箪笥の奥から出てきたので、「まあこの中のどれかは入るだろう」と思い、3足を荷物の中に入れた。
そして式前日。
ホテルにチェックインし、なんだかんだバタバタしたあと、お風呂に入ってさあ寝ようというときに、試しにストッキングをはいてみた。
ここで「え?なんでもっと前にはいてみなかったのよ〜!」というつっこみが入るかもしれない。
それについてはもうまったくその通りとしか言いようがない。
そしてその先の展開はご想像の通り。
は……け……な……い……(゚д゚)
すんなりはけるとは思ってなかったけど、まさかここまで絶望的にはけないなんて…。
この「はけない」という言葉は「サイズとして」という意味と「着脱能力」という意味の2つを兼ねる。
サイズが小さいということもさることながら、右手だけではストッキングははけないのだ。
頑張ってひっぱっても膝くらいまでしかのびない。しかも片足のみ。
生地がやわらかいのでこれ以上ひっぱったら破れそうでこわい。
あせってLLサイズをとりだしてみたが、なんと古すぎて開封しただけでゴム部分がボロボロに崩壊。
それにこちらもサイズは前に試したものとたいして違わない。
あせりを通り越して私はパニックになった。
翌朝一緒にサロンに行く従姉妹に連絡したが、時刻はもう12時近い。
サロンに行く時間は8時20分。
親族集合は10時45分。
どう考えても買いに行く時間はない。
そこでまた言われたこのセリフ。
「どうしてもっと早くはいてみなかったの!」
言われたときは本当にそうだ、私が悪い、と思ったのだが、だんだん違う感情がわいてきた。
なぜもっと早くはいてみなかったのか。
それは自分の中で「ストッキングを開封してはいてみる」というハードルがとても高かったからだ。
まず、はく以前に袋から出す作業を考えるだけでも気が重い。
そのうえ「はく」となると、正直もう考えたくないくらい荷が重い。
想像することすらきつい。
どうせ最終的には誰かにはかせてもらうことになるのだから。
そう。私は試着することから「逃げていた」。
結局、従姉妹が家にある在庫の中からLLサイズを持ってきてくれて、はかせてもらったら入ったので事なきを得たのだが、「なんでもっと早くに試着しなかったの?」という一言は予想以上に私にダメージを与え、2日たった今でもまだ立ち直れないでいる。
現実的に事前に試着しようと思ったら私はどうすればよかったのだろう。
サイズが何サイズであれ、自分でストッキングがはけないということは今回はっきりわかった。
手伝ってもらうとしたら父しかいない。
てことは、父にはかせてもらわなきゃいけないの?
股下までひっぱってもらわなきゃいけないの?
そう考えたら、なんか一気にいろいろなことが真っ暗になった。
前は、不自由ながらも自分でストッキングをはくことはできた。
でも今はできない。
こうやって「できないこと」が確実にひとつずつ増えていく。
ケガなどの一時的な不調ならば一定期間をしのげばいいが、じわじわと下降していく機能には何の希望もない。
頭ではわかっているけれど、そんなことリアルに実感しながら毎日生きていくのは耐えられない。
がんが転移するより耐えられない。
だから無理なドレスを着たり、ストッキングをはいたりして「現実」からなるべく目を背けようとしていたのだ。
私がなんとか無理を通して「平気」という顔をすれば、まわりにも絶望的な障害について考えさせずに済む。
考えさせたら最後、まわりとはつきあえなくなる。
私のほうが健常者に合わせなければ、私はいろいろなものをあきらめなければならない。
もちろん、今だって充分いろいろなものをあきらめているし、まわりも気づける範囲でサポートはしてくれている。
それでも「なんで試着しなかったの?」という一言に対して「悪かった」と思ってしまう自分に、「健常者の感覚に無意識に頑張って合わせようとしている不自然さ」を感じてしまったのは事実だ。
ひらたく言えば、私は自分で思っている以上に無理をしていたんだと思う。
「無理しないで」という言葉は、「頑張って」という言葉と同じくらい頻繁に使われる。
その言葉じたいにたいした意味はないし、いずれも社交辞令のようなもの。健康な人には「頑張って」と言い、病弱な人には「無理しないで」と言うくらいの使い分けでしかないだろう。
でも、本当にハンデのある人間は、「無理」しなかったらQOLダダ下がりになってしまう。
無理をして無理をして、それでようやく健常者が無意識にやっているレベルかそれ以下に到達できる。
健常者の「無理をする」とは次元は違うのだ。
同様に、「頑張ってるね」と言われるのも違和感を感じる。
だって「頑張らない」という選択肢はないから。
気持ちの上では無理してないし、頑張ってないつもりでも、心と体は常にロッククライマーが岩にしがみつくようにフル回転で稼働している。
それがまわりにわからないことはしょうがないと思う。
でも自分も気づかないでいたことがショックだった。
式の間は気が張っていたのでまだそこまで明確に意識していなかったが、家に帰ったら緊張の糸が一気にきれた。
本当はまわりの人の一挙手一投足にいちいち「私はあれもできないんだ」「これもできないんだ」と無意識にカウントして絶望が深くなっていたこと。できないのに、なるべくそれを悟らせないように必死に頑張ってふんばってあの場にいたこと。
そのことに気づいたら体中に「もう無理」「もう無理」「もう無理」という言葉が充満し、涙がとまらなくなった。
泣いたからって何が変わるわけでもない。
どんなに説明しても話が通じず、私が「一人暮らし」もできるくらいに思っている人もいる。
そういう人はこのブログを読むこともないだろう。
でも、状況はいろいろでも、同じような閉塞感を抱えている人は世の中にたくさんいるはず。
だから書いてみた。
これを読んで少しでも苦しみが実感できる人がいることを期待して。
最近は、右手も力が入りにくくなってきているので、タイピングもいつまでできるかわからない。
昔はどんなに長文でも平気だったが、今は片手になった分、思うように打てないし、疲労感も増している。
書けるうちに書いておきたい。発信したい。
今起こっていること、そしてまだまだ書けないでいる「私がなぜこうなったか」という過去の経緯を…。
だるい……。
おそろしくだるい。
いつも梅雨どきは体調がすぐれないので覚悟はしていたが、この1週間のだるさはひどすぎる。
まるで地底にひきずりこまれるかのようなだるさだ。
この気候だ。
多かれ少なかれみんな「だるい」のだとは思う。
しかし「みんなだるい」からこそ、「だるい」と言ってもあまり相手にされず、「そうだよね。私も〜」と返されて終わらせられてしまうことが多いのも事実。
自分のだるさがどのくらいのランクに位置づけられるのかわかんないけど、「私のだるさはこんな感じ」と取り出して見せられないのがもどかしい。
外に出るのが億劫でたまらないのだが、なんとか気合いを入れて玄関を出る。
移動中の電車の中ではその場でドロドロと溶けてしまいそうにだるいが、人と会って話すときは気が張っているのか、わりと普通にしていられる。
だが帰ってくるとそのツケが倍返しになって戻ってくる。
なに、このだるさ……。
とりあえず横になってみる。
でも全然楽にならない。
起きているときは体からへなへなと力が抜けていくような感じなのに、横になると今度は力が抜けなくてリラックスできない。
そして息苦しい。
呼吸が常に浅く、肺が湿った雑巾でくるまれたように重たく感じられる。
体を休めようと思ってじっとしているのに、胸のあたりがワヤワヤといやな感じになり、落ちつかなくなる。
一人になるとさらにこれがひどくなり、金縛りのように体が動かなくなって、呼吸もうまくできなくなる。
今までにもこんな症状がたびたびあった。
おそらく「抑うつ症状」だと思う。
昼から夕方が一番具合が悪くて、夜になると少し回復してくるというパターンが「うつ」くさい。
精神科の先生に言われている通り、そんなときには抗うつ剤に加えてデパスを服用する。
今回も薬はある程度効いたのだが、だるさと息苦しさはずっと続いている。
こんなふうに薬に頼り続けるのはいかがなものかと我ながら思う。
自分を押しつぶすおおもとのストレスは、軽くなるどころか日に日に重くなっていくばかりなので、根本的な解決は棚上げされたままだ。
これからも解決されることはないだろう。
だとしたらなんとか折り合っていくしかないが、どういうポーズで溺れようと溺れている状態が続いていることに変わりはないので、いつまでたっても「慣れる」ことはない。
前回の診察から帰ってきたあと、あらためてCTレポートを見てみたら、「乳がん」の他に「右鎖骨上のリンパ節の腫脹」という指摘があることに気づいた。
肝臓については「嚢胞だろう」ということで終わっていたのだが、右鎖骨については「良性か転移かの鑑別が必要な病変」と書かれている。
一条先生(仮名)、これについてはなんにも言ってなかったけど大丈夫なのかな…。
眠そうだったから危ないな。確認しておこう。
そう思ってメールしたら、「たしかに、ホジキンの再発というのはないと思うが、新たなリンパ腫か乳がんの転移の可能性はある。あるいは以前の治療の瘢痕か、感染症かも。いずれにしても以前のデータとの比較が必要だと思う」という返事が…。
え〜〜〜〜〜、ま・た・な・の???……と脱力。
簡単に「以前のデータ」とか言うけど、L病院はそう簡単に資料なんて渡してくれないよ。
2年前の乳腺科のデータをもらえただけでも御の字。
その前にCTをとったのは2005年になるが、これは放射線科の秋吉先生(仮名)のオーダーで撮ったもの。
正直、もう秋吉先生にはコンタクトをとりたくないし、口もききたくないし、保存期間が5年を過ぎているため、破棄されている可能性もある。
というか、5年以上たっていると保管義務がなくなるため、あってもなくても「もうない」と言い張られればそれまでになってしまう。
元データを入手するのは難しいが、2005年までは裁判でカルテ保全をしてあるので、CTレポートならコピーがある。
だるくてなかなかやる気が起きなかったが、頑張って段ボール箱いっぱいのカルテの山からなんとか2005年のCTレポートを探し出した。
そこには「右鎖骨上窩の異常」について触れている記述はなかった。
「ホジキン原発部分である『左鎖骨上窩と縦隔(肺と肺の間)』に治療後と思われる軟部組織影が見られる」とは書いてあったが、いかにも連携に弱いL病院らしく、以前のデータが用意されていないため比較ができず、「治療後の瘢痕だとは思うが比べられないのでなんとも言えない」という結論だった。
「今後も経時的比較が望ましい」と付記されていたが、それから乳がんを発症するまでの4年間、検査は全然おこなわれていない。
こうやって、毎回毎回の検査結果がバラバラになっていくんだなとしみじみと実感した。
患者だって体を張ってX線浴びて検査を受けているのだ。
貴重な資料として精一杯生かしてもらわないと報われないんだけどね。
2005年のレポートを見る限りでは、右鎖骨のリンパ節はあらたに出現したかのように見える。
が、さらにさかのぼって2000年に血液内科でおこなわれた頸部エコーの結果をみると、「左頸部に数ミリ大のリンパ節が2個、右頸部に数ミリ大のリンパ節3個が認められるが腫大傾向はない。甲状腺も正常」とある。
エコー上では2000年当時からすでに右にも左にもリンパ節があったということだ。
ただ、血液内科では検査結果についてほとんど何も教えてくれなかったので、私にはそのへんの経緯がわからない。
というか、教えてくれなかったばかりではなく、カルテにも何も書かれていないのだ。
レポートには客観的事実が書かれているだけで、それがどういう意味をもつのかはドクターが判断するべきことであり、カルテにその判断の部分が書かれていれば、あとから見た人にもある程度状況がつかめるはずなのだがそれがない。
とにかく、以上のような状況を一条先生にメールし、指示を待つことにしたのだが、いくら待っても返信がこない。
次の診察は2ヶ月も先なのに、このまま放置しておいていいのか?
あれだけ不吉な可能性を並べ立てておいてそのまま放置って……とやきもきしているうちに2週間以上が経過し、ようやく返信がきた。
返信には「経時的変化をみることは有用だとは思うけど、たとえ以前と比べて変化がなかったとしても『だから転移ではない』とは言えない。現在右鎖骨上のリンパ節が腫大していることは事実なので、転移かどうかはっきりさせるには生検が必要。リンパ節のサイズが小さいので難しいかもしれないが、希望するなら放射線科と相談する」とあった。
まーーたーー生検かよ〜〜〜〜!!!!
結局、西洋医学って現物見なくちゃわからないって話になるんだよね。
母の場合は現物見て診断しても薬は効かなかったわけだけど…。
生検生検って気軽に言うが、右鎖骨は「転移予防」と称してすでに二度も放射線の照射を受けており、人間の皮膚とはとても思えない状態になっている(硬くなりすぎて皮はもう動かない)。
この首のどこをどう見たら「生検しよう」って気になるんだよ!
しかも検査のためだけに。
どう考えてもハイリスクローリターンすぎだろう。
もうひとつの選択肢として考えられるのはPET(Positron Emission Tomography=陽電子放射断層撮影法)だという。
これは以前よくやっていたガリウムシンチとほぼ同じような検査だが、放射性同位元素を放出する特殊なブドウ糖を静脈から注射してしばらく安静にしていると、がん細胞の増殖の盛んな部分だけにそれが集積していくので、その分布状態を断層撮影して画像化するというもの。
CTやMRI、エコーのように大きさや形状だけがわかる検査と違い、「どれだけ意欲的に活動しているかという状況」…つまり悪性度まで診断できる。
逆を言えば「弱ってきている状況」もわかるので、治療がどれだけ奏功しているのかもわかるという検査だ。
がんの早期発見や、がん治療の指標として最近はよくおこなわれるようになっているが、欠点もある。
まず、泌尿器系のがんや活動性の低いがんは判別しにくいこと(つまりオールラウンダーではない)。
第二に、大きさや正確な位置を見るという点ではCTやMRIに劣ること。
第三に、まだまだ高価な検査であること。
保険が適用される疾患は限定されており、自由診療だと10万円前後かかる。
ただ、私の場合は保険が適用されるはずだし、障害者認定を受けているので保険診療については料金がかからないと思う。
少なくともこの検査を受ければ悪性か良性か(あるいは治療の瘢痕か)の判別はつくかもしれない(絶対とは言えないけどね)。
が、被爆についてはやはり抵抗がある。
「胃のバリウム検査の半分量」「自然被爆1年分」など、「心配がないこと」がマニュアルでは強調されているが、被爆で人生を狂わされた身としてはどうしても過敏にならざるをえない。
これ一回で済む話じゃないし、一回やれば定期的にやることになるしね。
また、静脈注射が入るのかどうかも不安だ…。
ぶっちゃけ残りの人生であと何回針を刺せるんだろうと思い詰めているくらい不安…。
というわけで現在考え中。
生検は論外だ。
そこまでいくと治療法を決めるための検査になってしまう。
「治療しない」と決めている以上、そんな検査は必要ない。
PETは……もう少し考えてみる。
とりあえず、次回診察時にエコー検査は受けてみようと思う。
「まだ8ミリなら、エコーだけで経過観察というのもありだと思う」と先生も言っているので。
結局、「転移してるかもしれない」ということを常に念頭に置きつつ、経時的変化を追う…という選択になるのかな。
まあ、乳がん患者である限り「転移があるかもしれない」という疑念を完全に払拭することはほぼ一生できないわけで、そのへんは追及していくとキリがないという気もする。
安心できるための検査がハイリスクならば、不安をそのまま受け入れるしかないだろう。
「ワケあり患者」は、検査ひとつしても「思い当たるフシ」が多すぎていっこうに原因を絞り込めないのである。
おそろしくだるい。
いつも梅雨どきは体調がすぐれないので覚悟はしていたが、この1週間のだるさはひどすぎる。
まるで地底にひきずりこまれるかのようなだるさだ。
この気候だ。
多かれ少なかれみんな「だるい」のだとは思う。
しかし「みんなだるい」からこそ、「だるい」と言ってもあまり相手にされず、「そうだよね。私も〜」と返されて終わらせられてしまうことが多いのも事実。
自分のだるさがどのくらいのランクに位置づけられるのかわかんないけど、「私のだるさはこんな感じ」と取り出して見せられないのがもどかしい。
外に出るのが億劫でたまらないのだが、なんとか気合いを入れて玄関を出る。
移動中の電車の中ではその場でドロドロと溶けてしまいそうにだるいが、人と会って話すときは気が張っているのか、わりと普通にしていられる。
だが帰ってくるとそのツケが倍返しになって戻ってくる。
なに、このだるさ……。
とりあえず横になってみる。
でも全然楽にならない。
起きているときは体からへなへなと力が抜けていくような感じなのに、横になると今度は力が抜けなくてリラックスできない。
そして息苦しい。
呼吸が常に浅く、肺が湿った雑巾でくるまれたように重たく感じられる。
体を休めようと思ってじっとしているのに、胸のあたりがワヤワヤといやな感じになり、落ちつかなくなる。
一人になるとさらにこれがひどくなり、金縛りのように体が動かなくなって、呼吸もうまくできなくなる。
今までにもこんな症状がたびたびあった。
おそらく「抑うつ症状」だと思う。
昼から夕方が一番具合が悪くて、夜になると少し回復してくるというパターンが「うつ」くさい。
精神科の先生に言われている通り、そんなときには抗うつ剤に加えてデパスを服用する。
今回も薬はある程度効いたのだが、だるさと息苦しさはずっと続いている。
こんなふうに薬に頼り続けるのはいかがなものかと我ながら思う。
自分を押しつぶすおおもとのストレスは、軽くなるどころか日に日に重くなっていくばかりなので、根本的な解決は棚上げされたままだ。
これからも解決されることはないだろう。
だとしたらなんとか折り合っていくしかないが、どういうポーズで溺れようと溺れている状態が続いていることに変わりはないので、いつまでたっても「慣れる」ことはない。
前回の診察から帰ってきたあと、あらためてCTレポートを見てみたら、「乳がん」の他に「右鎖骨上のリンパ節の腫脹」という指摘があることに気づいた。
肝臓については「嚢胞だろう」ということで終わっていたのだが、右鎖骨については「良性か転移かの鑑別が必要な病変」と書かれている。
一条先生(仮名)、これについてはなんにも言ってなかったけど大丈夫なのかな…。
眠そうだったから危ないな。確認しておこう。
そう思ってメールしたら、「たしかに、ホジキンの再発というのはないと思うが、新たなリンパ腫か乳がんの転移の可能性はある。あるいは以前の治療の瘢痕か、感染症かも。いずれにしても以前のデータとの比較が必要だと思う」という返事が…。
え〜〜〜〜〜、ま・た・な・の???……と脱力。
簡単に「以前のデータ」とか言うけど、L病院はそう簡単に資料なんて渡してくれないよ。
2年前の乳腺科のデータをもらえただけでも御の字。
その前にCTをとったのは2005年になるが、これは放射線科の秋吉先生(仮名)のオーダーで撮ったもの。
正直、もう秋吉先生にはコンタクトをとりたくないし、口もききたくないし、保存期間が5年を過ぎているため、破棄されている可能性もある。
というか、5年以上たっていると保管義務がなくなるため、あってもなくても「もうない」と言い張られればそれまでになってしまう。
元データを入手するのは難しいが、2005年までは裁判でカルテ保全をしてあるので、CTレポートならコピーがある。
だるくてなかなかやる気が起きなかったが、頑張って段ボール箱いっぱいのカルテの山からなんとか2005年のCTレポートを探し出した。
そこには「右鎖骨上窩の異常」について触れている記述はなかった。
「ホジキン原発部分である『左鎖骨上窩と縦隔(肺と肺の間)』に治療後と思われる軟部組織影が見られる」とは書いてあったが、いかにも連携に弱いL病院らしく、以前のデータが用意されていないため比較ができず、「治療後の瘢痕だとは思うが比べられないのでなんとも言えない」という結論だった。
「今後も経時的比較が望ましい」と付記されていたが、それから乳がんを発症するまでの4年間、検査は全然おこなわれていない。
こうやって、毎回毎回の検査結果がバラバラになっていくんだなとしみじみと実感した。
患者だって体を張ってX線浴びて検査を受けているのだ。
貴重な資料として精一杯生かしてもらわないと報われないんだけどね。
2005年のレポートを見る限りでは、右鎖骨のリンパ節はあらたに出現したかのように見える。
が、さらにさかのぼって2000年に血液内科でおこなわれた頸部エコーの結果をみると、「左頸部に数ミリ大のリンパ節が2個、右頸部に数ミリ大のリンパ節3個が認められるが腫大傾向はない。甲状腺も正常」とある。
エコー上では2000年当時からすでに右にも左にもリンパ節があったということだ。
ただ、血液内科では検査結果についてほとんど何も教えてくれなかったので、私にはそのへんの経緯がわからない。
というか、教えてくれなかったばかりではなく、カルテにも何も書かれていないのだ。
レポートには客観的事実が書かれているだけで、それがどういう意味をもつのかはドクターが判断するべきことであり、カルテにその判断の部分が書かれていれば、あとから見た人にもある程度状況がつかめるはずなのだがそれがない。
とにかく、以上のような状況を一条先生にメールし、指示を待つことにしたのだが、いくら待っても返信がこない。
次の診察は2ヶ月も先なのに、このまま放置しておいていいのか?
あれだけ不吉な可能性を並べ立てておいてそのまま放置って……とやきもきしているうちに2週間以上が経過し、ようやく返信がきた。
返信には「経時的変化をみることは有用だとは思うけど、たとえ以前と比べて変化がなかったとしても『だから転移ではない』とは言えない。現在右鎖骨上のリンパ節が腫大していることは事実なので、転移かどうかはっきりさせるには生検が必要。リンパ節のサイズが小さいので難しいかもしれないが、希望するなら放射線科と相談する」とあった。
まーーたーー生検かよ〜〜〜〜!!!!
結局、西洋医学って現物見なくちゃわからないって話になるんだよね。
母の場合は現物見て診断しても薬は効かなかったわけだけど…。
生検生検って気軽に言うが、右鎖骨は「転移予防」と称してすでに二度も放射線の照射を受けており、人間の皮膚とはとても思えない状態になっている(硬くなりすぎて皮はもう動かない)。
この首のどこをどう見たら「生検しよう」って気になるんだよ!
しかも検査のためだけに。
どう考えてもハイリスクローリターンすぎだろう。
もうひとつの選択肢として考えられるのはPET(Positron Emission Tomography=陽電子放射断層撮影法)だという。
これは以前よくやっていたガリウムシンチとほぼ同じような検査だが、放射性同位元素を放出する特殊なブドウ糖を静脈から注射してしばらく安静にしていると、がん細胞の増殖の盛んな部分だけにそれが集積していくので、その分布状態を断層撮影して画像化するというもの。
CTやMRI、エコーのように大きさや形状だけがわかる検査と違い、「どれだけ意欲的に活動しているかという状況」…つまり悪性度まで診断できる。
逆を言えば「弱ってきている状況」もわかるので、治療がどれだけ奏功しているのかもわかるという検査だ。
がんの早期発見や、がん治療の指標として最近はよくおこなわれるようになっているが、欠点もある。
まず、泌尿器系のがんや活動性の低いがんは判別しにくいこと(つまりオールラウンダーではない)。
第二に、大きさや正確な位置を見るという点ではCTやMRIに劣ること。
第三に、まだまだ高価な検査であること。
保険が適用される疾患は限定されており、自由診療だと10万円前後かかる。
ただ、私の場合は保険が適用されるはずだし、障害者認定を受けているので保険診療については料金がかからないと思う。
少なくともこの検査を受ければ悪性か良性か(あるいは治療の瘢痕か)の判別はつくかもしれない(絶対とは言えないけどね)。
が、被爆についてはやはり抵抗がある。
「胃のバリウム検査の半分量」「自然被爆1年分」など、「心配がないこと」がマニュアルでは強調されているが、被爆で人生を狂わされた身としてはどうしても過敏にならざるをえない。
これ一回で済む話じゃないし、一回やれば定期的にやることになるしね。
また、静脈注射が入るのかどうかも不安だ…。
ぶっちゃけ残りの人生であと何回針を刺せるんだろうと思い詰めているくらい不安…。
というわけで現在考え中。
生検は論外だ。
そこまでいくと治療法を決めるための検査になってしまう。
「治療しない」と決めている以上、そんな検査は必要ない。
PETは……もう少し考えてみる。
とりあえず、次回診察時にエコー検査は受けてみようと思う。
「まだ8ミリなら、エコーだけで経過観察というのもありだと思う」と先生も言っているので。
結局、「転移してるかもしれない」ということを常に念頭に置きつつ、経時的変化を追う…という選択になるのかな。
まあ、乳がん患者である限り「転移があるかもしれない」という疑念を完全に払拭することはほぼ一生できないわけで、そのへんは追及していくとキリがないという気もする。
安心できるための検査がハイリスクならば、不安をそのまま受け入れるしかないだろう。
「ワケあり患者」は、検査ひとつしても「思い当たるフシ」が多すぎていっこうに原因を絞り込めないのである。
L病院に資料一式を受取りに行った3日後(5/20)、少しでも早く届けたほうがいいと思い、事前にメール連絡したうえで、聖路加のリハビリに行くついでにその資料を受付に預けてきた。
そして5月25日。
9日におこなったCTに対する放射線科のコメントを聞きに行った。
結論から言うと、肝臓に写っている影は、悪性腫瘍ではなく嚢胞とみてよいだろうとのコメントだった。
場合によっては、MRI判定も覚悟していたので、とりあえずはホッとした。
が、レポートにはその他にもいろいろとコメントが書かれている。
L病院ではいちいちこんなものを開示してくれなかったので、現物を見せてくれたのはありがたかったのだが、困ったのは聖路加でCTをとったのはこれが初めてなので過去のデータとの比較検討ができないということだった。
病歴・治療歴が長いと、長期にわたって体全体にさまざまな影響が出るため、患者歴が長いほど不調の原因は複雑になる。
こういった検査をするたびに異常があちこちから検出されるのだが、それが前からあったものなのか新しくできたものなのか、治療の痕なのか腫瘍なのか、悪性なのかそうでないのか、再発なのか転移なのか、育っているのか縮小しているのか、可能性がどんどん広がっていき、今現在の結果だけでは状況を判断するのが非常に難しい。
にもかかわらず、大きい病院(特に大学病院)ではありがちなことだが、L病院では検査データの経時変化を一人の医師が追うということをしないため、先生が変わるたびに情報がリセットされてしまっていた。
見るのはいつも直前のデータだけ。
引き継ぎもどこまできちんとされているのかおおいに疑わしい。
カルテが電子化されるようになって、少しずつ情報の共有ができるようになってきたが、それでも医師同士に見えない壁があれば、いくらソフトを整えても状況はほとんど変わらない。
本当に重要なのはコミュニケーション能力だからだ。
同じ病院内でもそうなのだから、病院が変わったらさらに情報の受け渡しは難しくなる。
黙っていれば医師同士きちんと情報の申し送りをしてくれると信じている患者が世の中ほとんどだと思うが、残念ながらそれができていないから医療過誤や診断ミスが次々に起こる。
そのことは身にしみて味わったので、今ではもう、ウザがられようがクレーマーと言われようが、データはいちいち開示してもらい、丁寧に確認して、なおかつしつこく問いただすようにしている。
自分の身を守れるのは自分しかいない。
だから、今回も過去の経緯はなるべく詳細に話し、思い当たることがあればこちらからもどんどん意見を言うようにしたのだが、それでも具体的なデータが手に入らないのは痛い。
かろうじて2年前のCTは手に入れたものの、それより前のデータ(つまり乳がん発症以前のデータ)を取り寄せるのは今となっては難しいだろう。
でもまあ2年前の画像だけでも手に入ってよかったと思うしかないか。
……などと考えながら2年前の画像と比較してくれるのを待ったが、一条先生(仮名)、なんだか今日はボーッとしていて反応が悪い。
どうやら寝不足らしく、すごく眠そう。。。
大丈夫なのか??
「あのー、このあいだ渡したCT画像と比較してどうでしたか?」
そう聞いたら、急に我に返ってデスクの上をゴソゴソ探し始めた。
「いや、それは最初に私が持ってきた資料じゃないですか?」と言ったら、「あ、そうか。向こうにあるんだ」と言いながら診察室から出て行ってしまった。
……よ、用意してなかったのか。
ていうか、せっかく事前に渡したのに……もしかして預けっぱなしでまだ見て……ない?
なんか拍子抜けした。。。
しばらくしてL病院の資料を手にして戻ってきた先生、ようやくモニタ上に2枚のCT写真を映し出し、比較してくれた。
たしかに肝臓の病変は同じ場所に2年前からある。
それから見てもこれは「嚢胞」と判断するのが妥当だろう。
もうひとつ、前回の診察時から指摘されていたのだが、甲状腺に複数の腫瘤が見られた。
特に左が顕著だが、右にもある。
一条先生には「これは悪性ではないと思うけど、なんらかの理由で甲状腺の機能が低下しているかもしれない」と言われていたのだが、あらためて比べてみると、2年前の画像でもわずかに腫瘤が見られる。
この日は甲状腺機能を調べる血液検査をおこなってみたが、結果は「甲状腺ホルモンの量はやや少なめだが、甲状腺の機能じたいは正常」とのこと。
機能が落ちていたら、また「薬で補う」とかいう話になっていたと思うので、これまたなんとかセーフだ。
甲状腺というのは放射線の影響を受けやすい部分なので、放射線治療時にもここだけは鉛でブロックするのだが、けっこうギリギリまでブロック範囲を狭められたので、当然治療の影響が出てもおかしくないところだ。
といっても、治療をおこなった放射線科医は治療記録をほとんど残しておらず、事実上雲隠れ状態なのだから、今となっては確認のしようがない。
今後も、異常が出れば出っぱなしということになるだろう。
甲状腺については、ホジキンの化学療法の後遺症として、二次発がんを起こしやすいというデータがあり、そちらから見てもリスク大だが、CTレポートでも甲状腺の腫瘤は心配しなくてよいとあるので、今のところは大丈夫そうだ。
甲状腺の機能低下については、自分でも思い当たることがあった。
今年になってからずっと体調が悪く、とにかく疲れるし、だるいし、体が重いのだ。
それほど食べてないのに体重がびっくりするほど増えている。
膝や足首などがかたまったように痛い。
一時は、家の中の階段も手すりにつかまってひきずるようにあがっていたほどだ。
これはすべて「むくみ」の悪化からきていると鍼灸の四ッ谷先生(仮名)から言われた。
左腕だけでなく、全身がむくんでいるのだそうだ。
たしかに、左腕のむくみがすごすぎて気がつかなかったが、全部むくんでると言われたらそうかもしれない。
動くと体中が痛いのだが(歩くと足の裏も)、むくむことで動きが制限されているのだろう。
言うまでもなく、甲状腺機能が低下すると全身がむくんで体重が増えるので、甲状腺に異常があるなら辻褄が合う。
ただ、この「むくみ」は甲状腺だけが問題なのではなく、ずっと前から少しずついろいろな原因が積み重なった結果起こっているものであることはたしかで、いわば体の不調を示すバロメーターみたいなものだ。
体調が良いときは、むくみも軽いし、動きもよくなるし、乳がんの大きさも縮小するし、疲れもたまらない。
悪いときはこれが全部逆に出る。
マッサージもリハビリも、調子の良いときは効果が出るが、悪いときはどんなにやっても効果が出ない。
すべて連動しているのだ。
ホルモン欠乏もむくみも「結果」でしかない。
表に出た「結果」だけを消そうとしても「原因」はそのまま残るので「治療」にはならない。
がん治療も同じことだと思う。
なのに、甲状腺機能が低下しているというと、病院では甲状腺ホルモンを薬で補充しようとする。
むくみがたまっているというと利尿剤で外に水分を出そうとする。
どれも典型的な対症療法だ。
ホルモン補充も利尿剤も「自然」に手を加えることだから、ピンポイントでメリットだけが得られるわけではない。
ホルモンだったら、むやみに補充することで自力で作り出す力がさらに低下するかもしれないし、利尿剤は必要な水分まで排出してしまい、なおかつ腎臓に負担をかけるかもしれない。
やはりこういう「負」のスパイラルを断ち切るには、東洋医学が一番有効だと思う。
四ツ谷先生は、この状態に対し、5月から新しく「お灸」をプログラムに加えた。
その場所とは……膝でもなく、腕でもなく……「かかと」だった。
今までにもお灸をされたことはある(骨折のときも結局お灸が一番効いた)。
が、それはいずれも「知熱灸」といって、「熱くて我慢できないギリギリまでもぐさを燃やして途中で消す」というやり方のお灸だった。
今回は違う。
「透熱灸」といって、「最後までもぐさを燃やしきる」というハードなお灸だ。
熱くて我慢できない臨界点をさらに越えるので、はっきり言って息が止まるほど熱い。
ネットなどでは「熱いのは一瞬」とか「楊枝で刺されたような感じ」とか書かれているが、そんななまやさしいものじゃない!
たしかに一回分は短時間ではあるけれど、連続して10回くらいやるので、終わると騒ぎ過ぎてぐったりしてしまう。
ところが、このお灸を始めてわずか2回目で、早くも尿量が自然に増え、むくみが軽くなってきたのだ。
体重も少し減ってきた。
おそるべし、透熱灸!
……と思ったら次の回はそれほどの効果がない。
そう申告したら、四ッ谷先生いわく「うーん。あんまり熱がるから前回は半分の量に減らしてみたんだよね」。
ひー、やぶ蛇だったよ〜(>_<)
結局、また量を元に戻すことに(ToT)
もぐさの量は多すぎても少なすぎてもダメなので、試行錯誤しながらその人にとって最適の量を見いだすのが鍼灸師の腕の見せどころとなる。
一条先生にその話をしたところ、今まで眠そうだったのに急に興味津々の表情になった。
「うそ。お灸やってるの? どこにやるの? かかと? え、かかとなの? なんでかかとなの? あととかつくの?」と矢継ぎ早に質問してくる。
「もちろんつきますよ。焼ききるんだから」
たまたまサンダルだったんでかかとの焦げ跡を見せたら一条先生びっくり。
「なにこれ!なんでこんなに小さいの」
焦げ跡は5mm×3mm程度。
お灸の痕にしては大きいほうだと思うが、先生はしきりに「小さい」と驚いている。
もしかしてもぐさをてんこもりにして焚き火のようにボーボー燃やしてるとでも思ってるんだろうか。
米粒より小さくひねって乗せるんだけど……(ちなみに、もぐさを小さくひねって燃やす方法は日本でしかやってない手法らしいです)。
お灸話で盛り上がったところで「じゃあ次は2ヶ月後にまた血液検査で経過をみましょう」ってことで診察が終わったが、帰ってからもうひとつ「…これ放っておいていいのかな」という箇所をレポートからみつけてしまった…。
続きは次回。
そして5月25日。
9日におこなったCTに対する放射線科のコメントを聞きに行った。
結論から言うと、肝臓に写っている影は、悪性腫瘍ではなく嚢胞とみてよいだろうとのコメントだった。
場合によっては、MRI判定も覚悟していたので、とりあえずはホッとした。
が、レポートにはその他にもいろいろとコメントが書かれている。
L病院ではいちいちこんなものを開示してくれなかったので、現物を見せてくれたのはありがたかったのだが、困ったのは聖路加でCTをとったのはこれが初めてなので過去のデータとの比較検討ができないということだった。
病歴・治療歴が長いと、長期にわたって体全体にさまざまな影響が出るため、患者歴が長いほど不調の原因は複雑になる。
こういった検査をするたびに異常があちこちから検出されるのだが、それが前からあったものなのか新しくできたものなのか、治療の痕なのか腫瘍なのか、悪性なのかそうでないのか、再発なのか転移なのか、育っているのか縮小しているのか、可能性がどんどん広がっていき、今現在の結果だけでは状況を判断するのが非常に難しい。
にもかかわらず、大きい病院(特に大学病院)ではありがちなことだが、L病院では検査データの経時変化を一人の医師が追うということをしないため、先生が変わるたびに情報がリセットされてしまっていた。
見るのはいつも直前のデータだけ。
引き継ぎもどこまできちんとされているのかおおいに疑わしい。
カルテが電子化されるようになって、少しずつ情報の共有ができるようになってきたが、それでも医師同士に見えない壁があれば、いくらソフトを整えても状況はほとんど変わらない。
本当に重要なのはコミュニケーション能力だからだ。
同じ病院内でもそうなのだから、病院が変わったらさらに情報の受け渡しは難しくなる。
黙っていれば医師同士きちんと情報の申し送りをしてくれると信じている患者が世の中ほとんどだと思うが、残念ながらそれができていないから医療過誤や診断ミスが次々に起こる。
そのことは身にしみて味わったので、今ではもう、ウザがられようがクレーマーと言われようが、データはいちいち開示してもらい、丁寧に確認して、なおかつしつこく問いただすようにしている。
自分の身を守れるのは自分しかいない。
だから、今回も過去の経緯はなるべく詳細に話し、思い当たることがあればこちらからもどんどん意見を言うようにしたのだが、それでも具体的なデータが手に入らないのは痛い。
かろうじて2年前のCTは手に入れたものの、それより前のデータ(つまり乳がん発症以前のデータ)を取り寄せるのは今となっては難しいだろう。
でもまあ2年前の画像だけでも手に入ってよかったと思うしかないか。
……などと考えながら2年前の画像と比較してくれるのを待ったが、一条先生(仮名)、なんだか今日はボーッとしていて反応が悪い。
どうやら寝不足らしく、すごく眠そう。。。
大丈夫なのか??
「あのー、このあいだ渡したCT画像と比較してどうでしたか?」
そう聞いたら、急に我に返ってデスクの上をゴソゴソ探し始めた。
「いや、それは最初に私が持ってきた資料じゃないですか?」と言ったら、「あ、そうか。向こうにあるんだ」と言いながら診察室から出て行ってしまった。
……よ、用意してなかったのか。
ていうか、せっかく事前に渡したのに……もしかして預けっぱなしでまだ見て……ない?
なんか拍子抜けした。。。
しばらくしてL病院の資料を手にして戻ってきた先生、ようやくモニタ上に2枚のCT写真を映し出し、比較してくれた。
たしかに肝臓の病変は同じ場所に2年前からある。
それから見てもこれは「嚢胞」と判断するのが妥当だろう。
もうひとつ、前回の診察時から指摘されていたのだが、甲状腺に複数の腫瘤が見られた。
特に左が顕著だが、右にもある。
一条先生には「これは悪性ではないと思うけど、なんらかの理由で甲状腺の機能が低下しているかもしれない」と言われていたのだが、あらためて比べてみると、2年前の画像でもわずかに腫瘤が見られる。
この日は甲状腺機能を調べる血液検査をおこなってみたが、結果は「甲状腺ホルモンの量はやや少なめだが、甲状腺の機能じたいは正常」とのこと。
機能が落ちていたら、また「薬で補う」とかいう話になっていたと思うので、これまたなんとかセーフだ。
甲状腺というのは放射線の影響を受けやすい部分なので、放射線治療時にもここだけは鉛でブロックするのだが、けっこうギリギリまでブロック範囲を狭められたので、当然治療の影響が出てもおかしくないところだ。
といっても、治療をおこなった放射線科医は治療記録をほとんど残しておらず、事実上雲隠れ状態なのだから、今となっては確認のしようがない。
今後も、異常が出れば出っぱなしということになるだろう。
甲状腺については、ホジキンの化学療法の後遺症として、二次発がんを起こしやすいというデータがあり、そちらから見てもリスク大だが、CTレポートでも甲状腺の腫瘤は心配しなくてよいとあるので、今のところは大丈夫そうだ。
甲状腺の機能低下については、自分でも思い当たることがあった。
今年になってからずっと体調が悪く、とにかく疲れるし、だるいし、体が重いのだ。
それほど食べてないのに体重がびっくりするほど増えている。
膝や足首などがかたまったように痛い。
一時は、家の中の階段も手すりにつかまってひきずるようにあがっていたほどだ。
これはすべて「むくみ」の悪化からきていると鍼灸の四ッ谷先生(仮名)から言われた。
左腕だけでなく、全身がむくんでいるのだそうだ。
たしかに、左腕のむくみがすごすぎて気がつかなかったが、全部むくんでると言われたらそうかもしれない。
動くと体中が痛いのだが(歩くと足の裏も)、むくむことで動きが制限されているのだろう。
言うまでもなく、甲状腺機能が低下すると全身がむくんで体重が増えるので、甲状腺に異常があるなら辻褄が合う。
ただ、この「むくみ」は甲状腺だけが問題なのではなく、ずっと前から少しずついろいろな原因が積み重なった結果起こっているものであることはたしかで、いわば体の不調を示すバロメーターみたいなものだ。
体調が良いときは、むくみも軽いし、動きもよくなるし、乳がんの大きさも縮小するし、疲れもたまらない。
悪いときはこれが全部逆に出る。
マッサージもリハビリも、調子の良いときは効果が出るが、悪いときはどんなにやっても効果が出ない。
すべて連動しているのだ。
ホルモン欠乏もむくみも「結果」でしかない。
表に出た「結果」だけを消そうとしても「原因」はそのまま残るので「治療」にはならない。
がん治療も同じことだと思う。
なのに、甲状腺機能が低下しているというと、病院では甲状腺ホルモンを薬で補充しようとする。
むくみがたまっているというと利尿剤で外に水分を出そうとする。
どれも典型的な対症療法だ。
ホルモン補充も利尿剤も「自然」に手を加えることだから、ピンポイントでメリットだけが得られるわけではない。
ホルモンだったら、むやみに補充することで自力で作り出す力がさらに低下するかもしれないし、利尿剤は必要な水分まで排出してしまい、なおかつ腎臓に負担をかけるかもしれない。
やはりこういう「負」のスパイラルを断ち切るには、東洋医学が一番有効だと思う。
四ツ谷先生は、この状態に対し、5月から新しく「お灸」をプログラムに加えた。
その場所とは……膝でもなく、腕でもなく……「かかと」だった。
今までにもお灸をされたことはある(骨折のときも結局お灸が一番効いた)。
が、それはいずれも「知熱灸」といって、「熱くて我慢できないギリギリまでもぐさを燃やして途中で消す」というやり方のお灸だった。
今回は違う。
「透熱灸」といって、「最後までもぐさを燃やしきる」というハードなお灸だ。
熱くて我慢できない臨界点をさらに越えるので、はっきり言って息が止まるほど熱い。
ネットなどでは「熱いのは一瞬」とか「楊枝で刺されたような感じ」とか書かれているが、そんななまやさしいものじゃない!
たしかに一回分は短時間ではあるけれど、連続して10回くらいやるので、終わると騒ぎ過ぎてぐったりしてしまう。
ところが、このお灸を始めてわずか2回目で、早くも尿量が自然に増え、むくみが軽くなってきたのだ。
体重も少し減ってきた。
おそるべし、透熱灸!
……と思ったら次の回はそれほどの効果がない。
そう申告したら、四ッ谷先生いわく「うーん。あんまり熱がるから前回は半分の量に減らしてみたんだよね」。
ひー、やぶ蛇だったよ〜(>_<)
結局、また量を元に戻すことに(ToT)
もぐさの量は多すぎても少なすぎてもダメなので、試行錯誤しながらその人にとって最適の量を見いだすのが鍼灸師の腕の見せどころとなる。
一条先生にその話をしたところ、今まで眠そうだったのに急に興味津々の表情になった。
「うそ。お灸やってるの? どこにやるの? かかと? え、かかとなの? なんでかかとなの? あととかつくの?」と矢継ぎ早に質問してくる。
「もちろんつきますよ。焼ききるんだから」
たまたまサンダルだったんでかかとの焦げ跡を見せたら一条先生びっくり。
「なにこれ!なんでこんなに小さいの」
焦げ跡は5mm×3mm程度。
お灸の痕にしては大きいほうだと思うが、先生はしきりに「小さい」と驚いている。
もしかしてもぐさをてんこもりにして焚き火のようにボーボー燃やしてるとでも思ってるんだろうか。
米粒より小さくひねって乗せるんだけど……(ちなみに、もぐさを小さくひねって燃やす方法は日本でしかやってない手法らしいです)。
お灸話で盛り上がったところで「じゃあ次は2ヶ月後にまた血液検査で経過をみましょう」ってことで診察が終わったが、帰ってからもうひとつ「…これ放っておいていいのかな」という箇所をレポートからみつけてしまった…。
続きは次回。
20年以上通い続けたL病院を出て行くと決めた。
正確には喘息でかかっている呼吸器内科のみ、まだL病院に籍を残しているのだが、がん関係は一括して聖路加に移すことにした。
本当はもっと早くにそうしたかった。
裁判まで起こした相手なのだから当然のことだが、それをべつにしても、昨今のL病院の患者への対応の質は著しく劣化していると思う(特に、患者を「様」付けで呼ぶようになってからそれは顕著になった)。
なにしろ経営収益率ナンバーワンの病院だ(という時点でどこの病院だかもうだいたいわかると思うが)。
患者の数はおそろしく多い。
待合室に座るスペースがない、エレベーターに乗ろうと思うと満員で通過してしまう…などということも珍しくないし、それに比して(人件費を削っているのか)受付には異様に人が少ない。
バックヤードは壁で仕切られて見えないようになっているため、受付に人が出てこない限り、患者が延々と放置されることもしばしばだ。
看護師をつかまえるのは、流しのタクシーをつかまえるよりも難しいし、薬局では何十人もの患者が集まってくるタイミングになぜか必ず「一人」しか対応の薬剤師をおかない。
トイレもいつも並んでいるし、掃除も行き届いていないことが多い。
待ち時間の問題だけではなく、これだけ患者の数とスタッフの数が不均衡だと、細かいところでトラブルも頻発するし、患者もイライラさせられることが増え、余裕がなくなり、雰囲気もギスギスしてくる。
昔はもっとのんびりした雰囲気だったのだが、今はもうまったくべつの病院のようだ。
このあいだも中待ちスペースで一人の患者が「ふざけんな。おたくのところだけが病院じゃないんだぞ!」と怒りを爆発させているのを見た。
本来ならば、公共の場でこのような大声を出す人を見るのは気分がよくないのだが、このときばかりは横を通りながら「GJ!よく言った、おじさん」と思った(笑)。
ではなぜ、そんな病院に私はこれまで我慢して通い続けてきたのか。
前の記事でも書いたように、ここまで複雑な病歴を持った患者を引き受けてくれる病院が他になかったからーーもちろんそれもあるのだが、もうひとつ、私がここに通わなくなって一番ハッピーになるのは間違いなくL病院だろうなと思ったから……というのもある。
今ですら、過去の治療についての説明も資料の開示も隠蔽バリバリモードなのだ。私のほうからここを離れたら、その糸は間違いなく100%プッツリと断たれてしまうだろう。
L病院は私があきらめて来なくなるのを待っていると言ってもいいと思う。
それはひしひしと感じる。
たとえば……。
昨年、聖路加で急遽目の手術をおこなうことが決まったとき、手術日がL病院乳腺科の予約日とバッチリぶつかってしまい、キャンセル&予約延期のお願い電話をしたのだが、そのときの受付の対応は「予約のキャンセル&変更は電話ではできません。直接来院して手続きしてください」というムチャクチャなものだった。
しかたなく、担当の南田先生(仮名)に直接事情を書いてメールしたのだが返信はなし。
結局、他の用事で通院するときまで予約を入れることができず、次に検査してもらえるまで2ヶ月もかかってしまった。
このときは私もかなりムッとして、南田先生に「電話で予約の変更ができない病院なんて聞いたことがない。メールの返信もないし」と訴えたら、「え?そうなんですか?メールは受け取ってないですけど。電話は僕を直接呼び出してくれればすぐつながるはずですよ」と言う。
いやいや、だからその電話をつないでくれないんだってば!
そして今回。
「聖路加に転院したいので資料を揃えておいてほしい」と先生にメールしたら、今度は「了解しました」という返信があったので、さらにいつとりに行ったらいいのか直接聞こうと思って電話したら、交換台からすぐに乳腺科の受付に電話をまわされ、思いっきり居留守を使われた。
いや、正確にいうと、その日先生が外来に出ていることは明白なので居留守もくそもないのだが、電話に出た看護師は、「お名前は?」「フルネームは?」「ID番号は?」「用件は?」「紹介状ってどこ宛ですか?」と根掘り葉掘り聞いてきたあげくに、「少々お待ち下さい」と言って長々と待たせ、やっと出てきたと思ったら「診察がずっと続いているのでおつなぎできません。もう一度かけ直してください」と言う。
「はぁ?」と思いつつも、「かけ直すって、じゃあいつならつないでいただけるんですか?診察時間が終わる頃にかけけたほうがいいですか?」と聞いたら、「いえ。診察時間外はちょっと……。4時まで予約が入っているので、診察時間中にかけてください。でも電話に出られるかどうかはわかりません」だと。
なんじゃ、そりゃぁ〜!!
これって「おまえにはつ・な・が・ね・え・よ」ってことじゃん。
ていうか、私の置かれている状況など何ひとつ知っちゃいないだろう、たまたま電話に出た看護師に、なぜいちいちこんな細かい用件までしゃべらなきゃいけないんだよ。
どうせ伝言する気もないくせに。
あー、腹立つわ〜。
どうしてこのとき、看護師の名前をきいておかなかったかと後悔。
きいて、目安箱に名指しで投書してやればよかったヽ(`Д´)ノ
要するに、数ヶ月に一回、予約で会うとき以外は、何があっても先生には連絡をとらないでくださいっていうこと?
日々体調が変動している患者を相手にしているという自覚がほんっっっとにまっっっっったくないんだね、この病院は。
とあきれ果て、結局電話をするのは諦めて、また先生に直メールした。
かなり率直にキレた口調になったためか、今度はすぐに「対応が悪くて申し訳ありません」という謝罪と、具体的な日時を指定したメールが送られてきた。
「しょうがないな」と思いつつ、指定された日時に資料をとりにL病院に行ったところ、なんと私と話している途中に、フツーに患者からの電話が先生にとりつがれ、目の前で予約変更のやりとりがおこなわれているではないか!
………(‾Д‾;) はんぱねえ選別だな。L病院。
完璧、ブラックリストじゃん、私。クレーマー扱いね。
あのさ……言っておくけど、私だって最初からクレーマーだったわけじゃないよ。
自分で言うのもなんだけど、治療にも前向きだったし、かなりの優良患者だったと思う。
先生の非常識な対応にもギリギリまで耐えたよ。
患者の立場で反論なんてしたらいけない。
先生を怒らせたらおしまいだって。
横暴で気まぐれで協調性のない医者相手に、なんでここまで…っていうくらい気を遣いまくったよ。
だからこそ、まじめだったからこそ、よけいに許せないんだよ、この病院が。
わかるか、L病院!
資料の中には乳がんが初めてわかった2年前にとられた全身CT写真もあったので、その場で画像を確認してもらった。
今回、肝臓転移が疑われている箇所をチェックしてもらったところ……あった!
たしかに同じ場所に。
2年前からこれはここに存在していたのだ。
ということは、「2年前にもあって今も不変=悪性ではない=嚢胞」と考えるのが妥当のような気がしてきた。がんだったら不変ってことはないから。
ただ、原発がん(乳房にできたがん)のほうも鍼灸治療によって2年間不変(もしくは縮小)なので、肝臓のほうも育ってないがんという可能性もある。
南田先生は「今のデータは見てないからなんともいえないけど、これは嚢胞でしょう」と断言しているが、悪いけどもう医者の言うことはいちいち信じられない。
いずれにしろ、MRIをやれば嚢胞か腫瘍かの区別くらいはつくんじゃないだろうか。と思うが、それならそれでさっさと検査を済ませてほしい。
もう1週間以上たつのに放射線科医の読影結果は知らされてこない。
待ってるほうの身にもなってください>先生方
最後に、南田先生にはどうしても言っておきたいことがあった。
いや、これは南田先生個人に、というよりも、医療従事者全体に対して言いたいことだったが。
「なぜ治療のデメリットを患者に知らせないのですか?治療中の副作用だけではなく、サバイバーが治療後に負うデメリットはたくさんあるはずなのに、メリットだけを声を大きくして言うのはなぜですか?その場さえしのげば、その後の患者の人生はどうなっても関係ないと思ってるんですか?サバイバーを量産することだけに目を奪われて、サバイバーの末路について誰も問題にしようとしないのはなぜですか?最初にがんになった患者の対応だけで手一杯ってことですか?それでがんを治療したと言えるんですか?」
南田先生は一言も答えられなかった。
「聖路加の先生は、『がん治療の限界は身にしみて感じている。医者としてこういう治療が使えますという提示はできても、やりたくないと言われたらそうだろうなと思う』と言っていました」と言ったら、「僕も今は同意見です」とだけ答えた。
空しい旅の終わりだった。
重い荷物をひきずるようにして、私はL病院を出て行った。
正確には喘息でかかっている呼吸器内科のみ、まだL病院に籍を残しているのだが、がん関係は一括して聖路加に移すことにした。
本当はもっと早くにそうしたかった。
裁判まで起こした相手なのだから当然のことだが、それをべつにしても、昨今のL病院の患者への対応の質は著しく劣化していると思う(特に、患者を「様」付けで呼ぶようになってからそれは顕著になった)。
なにしろ経営収益率ナンバーワンの病院だ(という時点でどこの病院だかもうだいたいわかると思うが)。
患者の数はおそろしく多い。
待合室に座るスペースがない、エレベーターに乗ろうと思うと満員で通過してしまう…などということも珍しくないし、それに比して(人件費を削っているのか)受付には異様に人が少ない。
バックヤードは壁で仕切られて見えないようになっているため、受付に人が出てこない限り、患者が延々と放置されることもしばしばだ。
看護師をつかまえるのは、流しのタクシーをつかまえるよりも難しいし、薬局では何十人もの患者が集まってくるタイミングになぜか必ず「一人」しか対応の薬剤師をおかない。
トイレもいつも並んでいるし、掃除も行き届いていないことが多い。
待ち時間の問題だけではなく、これだけ患者の数とスタッフの数が不均衡だと、細かいところでトラブルも頻発するし、患者もイライラさせられることが増え、余裕がなくなり、雰囲気もギスギスしてくる。
昔はもっとのんびりした雰囲気だったのだが、今はもうまったくべつの病院のようだ。
このあいだも中待ちスペースで一人の患者が「ふざけんな。おたくのところだけが病院じゃないんだぞ!」と怒りを爆発させているのを見た。
本来ならば、公共の場でこのような大声を出す人を見るのは気分がよくないのだが、このときばかりは横を通りながら「GJ!よく言った、おじさん」と思った(笑)。
ではなぜ、そんな病院に私はこれまで我慢して通い続けてきたのか。
前の記事でも書いたように、ここまで複雑な病歴を持った患者を引き受けてくれる病院が他になかったからーーもちろんそれもあるのだが、もうひとつ、私がここに通わなくなって一番ハッピーになるのは間違いなくL病院だろうなと思ったから……というのもある。
今ですら、過去の治療についての説明も資料の開示も隠蔽バリバリモードなのだ。私のほうからここを離れたら、その糸は間違いなく100%プッツリと断たれてしまうだろう。
L病院は私があきらめて来なくなるのを待っていると言ってもいいと思う。
それはひしひしと感じる。
たとえば……。
昨年、聖路加で急遽目の手術をおこなうことが決まったとき、手術日がL病院乳腺科の予約日とバッチリぶつかってしまい、キャンセル&予約延期のお願い電話をしたのだが、そのときの受付の対応は「予約のキャンセル&変更は電話ではできません。直接来院して手続きしてください」というムチャクチャなものだった。
しかたなく、担当の南田先生(仮名)に直接事情を書いてメールしたのだが返信はなし。
結局、他の用事で通院するときまで予約を入れることができず、次に検査してもらえるまで2ヶ月もかかってしまった。
このときは私もかなりムッとして、南田先生に「電話で予約の変更ができない病院なんて聞いたことがない。メールの返信もないし」と訴えたら、「え?そうなんですか?メールは受け取ってないですけど。電話は僕を直接呼び出してくれればすぐつながるはずですよ」と言う。
いやいや、だからその電話をつないでくれないんだってば!
そして今回。
「聖路加に転院したいので資料を揃えておいてほしい」と先生にメールしたら、今度は「了解しました」という返信があったので、さらにいつとりに行ったらいいのか直接聞こうと思って電話したら、交換台からすぐに乳腺科の受付に電話をまわされ、思いっきり居留守を使われた。
いや、正確にいうと、その日先生が外来に出ていることは明白なので居留守もくそもないのだが、電話に出た看護師は、「お名前は?」「フルネームは?」「ID番号は?」「用件は?」「紹介状ってどこ宛ですか?」と根掘り葉掘り聞いてきたあげくに、「少々お待ち下さい」と言って長々と待たせ、やっと出てきたと思ったら「診察がずっと続いているのでおつなぎできません。もう一度かけ直してください」と言う。
「はぁ?」と思いつつも、「かけ直すって、じゃあいつならつないでいただけるんですか?診察時間が終わる頃にかけけたほうがいいですか?」と聞いたら、「いえ。診察時間外はちょっと……。4時まで予約が入っているので、診察時間中にかけてください。でも電話に出られるかどうかはわかりません」だと。
なんじゃ、そりゃぁ〜!!
これって「おまえにはつ・な・が・ね・え・よ」ってことじゃん。
ていうか、私の置かれている状況など何ひとつ知っちゃいないだろう、たまたま電話に出た看護師に、なぜいちいちこんな細かい用件までしゃべらなきゃいけないんだよ。
どうせ伝言する気もないくせに。
あー、腹立つわ〜。
どうしてこのとき、看護師の名前をきいておかなかったかと後悔。
きいて、目安箱に名指しで投書してやればよかったヽ(`Д´)ノ
要するに、数ヶ月に一回、予約で会うとき以外は、何があっても先生には連絡をとらないでくださいっていうこと?
日々体調が変動している患者を相手にしているという自覚がほんっっっとにまっっっっったくないんだね、この病院は。
とあきれ果て、結局電話をするのは諦めて、また先生に直メールした。
かなり率直にキレた口調になったためか、今度はすぐに「対応が悪くて申し訳ありません」という謝罪と、具体的な日時を指定したメールが送られてきた。
「しょうがないな」と思いつつ、指定された日時に資料をとりにL病院に行ったところ、なんと私と話している途中に、フツーに患者からの電話が先生にとりつがれ、目の前で予約変更のやりとりがおこなわれているではないか!
………(‾Д‾;) はんぱねえ選別だな。L病院。
完璧、ブラックリストじゃん、私。クレーマー扱いね。
あのさ……言っておくけど、私だって最初からクレーマーだったわけじゃないよ。
自分で言うのもなんだけど、治療にも前向きだったし、かなりの優良患者だったと思う。
先生の非常識な対応にもギリギリまで耐えたよ。
患者の立場で反論なんてしたらいけない。
先生を怒らせたらおしまいだって。
横暴で気まぐれで協調性のない医者相手に、なんでここまで…っていうくらい気を遣いまくったよ。
だからこそ、まじめだったからこそ、よけいに許せないんだよ、この病院が。
わかるか、L病院!
資料の中には乳がんが初めてわかった2年前にとられた全身CT写真もあったので、その場で画像を確認してもらった。
今回、肝臓転移が疑われている箇所をチェックしてもらったところ……あった!
たしかに同じ場所に。
2年前からこれはここに存在していたのだ。
ということは、「2年前にもあって今も不変=悪性ではない=嚢胞」と考えるのが妥当のような気がしてきた。がんだったら不変ってことはないから。
ただ、原発がん(乳房にできたがん)のほうも鍼灸治療によって2年間不変(もしくは縮小)なので、肝臓のほうも育ってないがんという可能性もある。
南田先生は「今のデータは見てないからなんともいえないけど、これは嚢胞でしょう」と断言しているが、悪いけどもう医者の言うことはいちいち信じられない。
いずれにしろ、MRIをやれば嚢胞か腫瘍かの区別くらいはつくんじゃないだろうか。と思うが、それならそれでさっさと検査を済ませてほしい。
もう1週間以上たつのに放射線科医の読影結果は知らされてこない。
待ってるほうの身にもなってください>先生方
最後に、南田先生にはどうしても言っておきたいことがあった。
いや、これは南田先生個人に、というよりも、医療従事者全体に対して言いたいことだったが。
「なぜ治療のデメリットを患者に知らせないのですか?治療中の副作用だけではなく、サバイバーが治療後に負うデメリットはたくさんあるはずなのに、メリットだけを声を大きくして言うのはなぜですか?その場さえしのげば、その後の患者の人生はどうなっても関係ないと思ってるんですか?サバイバーを量産することだけに目を奪われて、サバイバーの末路について誰も問題にしようとしないのはなぜですか?最初にがんになった患者の対応だけで手一杯ってことですか?それでがんを治療したと言えるんですか?」
南田先生は一言も答えられなかった。
「聖路加の先生は、『がん治療の限界は身にしみて感じている。医者としてこういう治療が使えますという提示はできても、やりたくないと言われたらそうだろうなと思う』と言っていました」と言ったら、「僕も今は同意見です」とだけ答えた。
空しい旅の終わりだった。
重い荷物をひきずるようにして、私はL病院を出て行った。
新しい主治医について最初におこなったのは、乳腺エコーと全身CT検査だった。
まずは4月15日に乳腺エコーを実施。
12月24日にやったのが最後だからほぼ4ヶ月ぶりとなる。
結果は、最大径が15〜20mmの間くらい。
やる人によって数ミリの誤差は生じるので単純比較はできないが、大きくなっていることは間違いない。
今までずっと縮小の一途をたどっていたので、初めてのリバウンドといっていい。
だが、これは予想されていたことだった。
今年になってからずっと体調が悪かったこと、特に震災以降はひどい疲労感で寝てばかりいる時期が続いたこと、そしてなによりも、鍼灸治療での経過もここへきて「やや増大したままでの横ばい状態」が続いていて、四ツ谷先生(仮名)も「あまり状態が良くないこと」を実感していたようだったからだ。
問題はこのあとだ。
5月9日に全身CTを実施。
ここで異常がいくつもみつかった。
一番深刻な異変は肝臓に起きていた。
嚢胞(液体の入った袋状のもの)がいくつも写っている。
嚢胞じたいは良性疾患で心配はないのだが、ひとつだけ転移性悪性腫瘍を疑われる形状のものが確認された。
これが悪性腫瘍だった場合、一番可能性が高いのは今ある乳がんの転移だが、知らないうちにできていた消化器系がんの肝転移という可能性もある。
その区別の確定は肝生検でないとわからない。
驚くほど2年前の母のケースに似ている。
母は肝生検をおこなったのを機に急速に衰弱し、生検の結果、効くことがわかったうえで使った薬がまったく効かなくて、あっという間に手の施しようのない状態になったわけだが…。
乳がん原発部分が大きくなっていることはうすうす予測していたが、いきなり肝臓とは正直予想していなかった。
肝臓原発のがんだった場合、多くは肝炎から進行するため、肝臓じたいがまずダメージを受け、血液データにも出るのだが、転移がんの場合、がんができている部分以外は正常に機能しているため、相当大きく広がらない限り血液データには肝機能異常は出ない(母も、亡くなる2ヶ月前までは血液上の肝機能に異常はなかった)。
「じゃあどうしてエコーやCTなどで肝臓をまめにチェックしないんだ」と思うかもしれないが、答えは「肝臓に出たら事実上もう打つ手はない」からだ。
もちろん、治療はするだろうが、それは「根治を目指す治療」ではなく、「QOLを保ちつつ延命を目指す治療」になる。
転移がんの場合、早くみつかっても遅くみつかっても予後に差はないと言われている。
だから無駄な検査はしないのだ(このへんの考え方は病院によって多少差があるかもしれないが)。
検査だって無害ではないし、体にダメージも負うので、私もやたらに検査をするのはいいことだとは思わない。
一度乳がんになった以上、どんなに徹底的に治療を施しても転移の可能性はずっとついてまわるので、気の済むまで検査をやっていたらキリがない。
「どうしますか?」
先生に聞かれて考え込んだ。
白黒はっきりつけるためにどこまで検査をするべきなのか。
検査をどこまでもするということは、その先に「治療」があるということだ。
私はがんについては「無治療」でいくと決めた。
その考えは転移していたとしても変わらない。
だとしたら、検査を徹底的にやる意味はないのではないか。
少なくとも肝生検はありえない。
「たしかに、位置的に肺の裏側に入り込んだところだから、針を刺すのが非常に難しい部分ではありますけどね」という先生。
いやいや、難しくなくても肝生検はありえない。
それは使う「薬」を決めるためにやる検査であり、「薬」を使わないのならやってもただ「リスク」を負うだけだ。
MRIをやってみるという手もあるが、私は喘息で造影剤が使えないので、期待するほどの情報は得られないかもしれない。
とりあえず、読影のプロである放射線科医に診てもらって、その結果を待つことにした。
もし転移がんだったらまず「ホルモン療法」を勧められるはずだ。
転移したということは、目に見えない状態のものも含めて体中に拡散しているということであり、手術のような局所的な治療はもはや意味がない。
HER2陰性でハーセプチンも使えないから、残るのは「抗がん剤」と「ホルモン療法」だ。
「抗がん剤」は効くかどうかやってみないとわからないので、ホルモン陽性である以上、まずは「ホルモン療法」からやってみようというのが妥当な選択だろう。
予想通り、先生も「ホルモン療法」を勧めてきた。
でも断った。
そこにいたるまでの経緯は今まで散々書いてきたが、私にはやっぱり抗ホルモン剤も「効果より害のほうが大きい」としか思えないからだ。
先生は、驚くほどあっさりとそれを受け入れてくれた。
正直、「抗ホルモン剤くらいはやってみてもいいんじゃないか」という雰囲気だったが、私がいやだというのならそれはしかたがないという感じだった。
それだけではない。
「今までの経緯を考えたら、小春さんがそういう選択をするというのはよくわかる。僕は無治療大賛成。本当は抗がん剤なんて大ッ嫌いだよ。あんなもん苦しいばっかりで思うほど効かないし、研究すればするほど西洋医学の限界がわかって『がんは治せない』と痛感させられる。医者として今できる治療法を提示することはできるし、希望する患者さんにはやるけど、『やりません』って言われたら『そうだろうなあ』と思うよ」という爆弾発言まで…!
腫瘍内科医が抗がん剤効かないって……言い切ったね(^_^;)
がんを治そうと必死につらい治療に耐えている患者からしたら「医者がそんな頼りないこと言ってどうすんだよ。ふざけんなヽ(`Д´)ノ」と言いたくなる発言かもしれないが、私はここまで正直なのってすごいなと思ったよ。
他でもない、誰よりもがんを治す薬について考えている立場だからこそ、その結論にいたるまでの葛藤や悔しさはいかばかりだったかと思うと、逆にとても信頼できる先生だと思えた。
そう。
残念ながらがんは頑張っても「治せない」。
その「絶望」はまず受け止めなければならない。医者も患者も。
でも、人は誰でもいつかは確実に「死ぬ」。
そしてその死因は「がん」である確率がとても高い。ということはたしかだ。
そう考えると、遅かれ早かれ人は「がん死」するのだと考えるべきなのだろう。
それでも「治らないこと」イコール「絶望」では決してないと私は思う。
それこそ、がんができることも、広がることも、消えることも、人智の及ばぬことなのだから、人間の手で思うようにできないからといって絶望することはない。
がんになったら終わり。ではなく、がんになってからが本当の「生」だと思う。
何を選択するかはその人自身の生き方にかかわってくる。
医者はその部分にまでは踏み込めないのだ。
医者も患者も「がんは治せない」という「絶望」にまずは謙虚に向かうべきだ。
その「絶望」からのみ「希望」は生まれる。
肝臓以外にも異常はあったんだけど、それはまた次回。
まずは4月15日に乳腺エコーを実施。
12月24日にやったのが最後だからほぼ4ヶ月ぶりとなる。
結果は、最大径が15〜20mmの間くらい。
やる人によって数ミリの誤差は生じるので単純比較はできないが、大きくなっていることは間違いない。
今までずっと縮小の一途をたどっていたので、初めてのリバウンドといっていい。
だが、これは予想されていたことだった。
今年になってからずっと体調が悪かったこと、特に震災以降はひどい疲労感で寝てばかりいる時期が続いたこと、そしてなによりも、鍼灸治療での経過もここへきて「やや増大したままでの横ばい状態」が続いていて、四ツ谷先生(仮名)も「あまり状態が良くないこと」を実感していたようだったからだ。
問題はこのあとだ。
5月9日に全身CTを実施。
ここで異常がいくつもみつかった。
一番深刻な異変は肝臓に起きていた。
嚢胞(液体の入った袋状のもの)がいくつも写っている。
嚢胞じたいは良性疾患で心配はないのだが、ひとつだけ転移性悪性腫瘍を疑われる形状のものが確認された。
これが悪性腫瘍だった場合、一番可能性が高いのは今ある乳がんの転移だが、知らないうちにできていた消化器系がんの肝転移という可能性もある。
その区別の確定は肝生検でないとわからない。
驚くほど2年前の母のケースに似ている。
母は肝生検をおこなったのを機に急速に衰弱し、生検の結果、効くことがわかったうえで使った薬がまったく効かなくて、あっという間に手の施しようのない状態になったわけだが…。
乳がん原発部分が大きくなっていることはうすうす予測していたが、いきなり肝臓とは正直予想していなかった。
肝臓原発のがんだった場合、多くは肝炎から進行するため、肝臓じたいがまずダメージを受け、血液データにも出るのだが、転移がんの場合、がんができている部分以外は正常に機能しているため、相当大きく広がらない限り血液データには肝機能異常は出ない(母も、亡くなる2ヶ月前までは血液上の肝機能に異常はなかった)。
「じゃあどうしてエコーやCTなどで肝臓をまめにチェックしないんだ」と思うかもしれないが、答えは「肝臓に出たら事実上もう打つ手はない」からだ。
もちろん、治療はするだろうが、それは「根治を目指す治療」ではなく、「QOLを保ちつつ延命を目指す治療」になる。
転移がんの場合、早くみつかっても遅くみつかっても予後に差はないと言われている。
だから無駄な検査はしないのだ(このへんの考え方は病院によって多少差があるかもしれないが)。
検査だって無害ではないし、体にダメージも負うので、私もやたらに検査をするのはいいことだとは思わない。
一度乳がんになった以上、どんなに徹底的に治療を施しても転移の可能性はずっとついてまわるので、気の済むまで検査をやっていたらキリがない。
「どうしますか?」
先生に聞かれて考え込んだ。
白黒はっきりつけるためにどこまで検査をするべきなのか。
検査をどこまでもするということは、その先に「治療」があるということだ。
私はがんについては「無治療」でいくと決めた。
その考えは転移していたとしても変わらない。
だとしたら、検査を徹底的にやる意味はないのではないか。
少なくとも肝生検はありえない。
「たしかに、位置的に肺の裏側に入り込んだところだから、針を刺すのが非常に難しい部分ではありますけどね」という先生。
いやいや、難しくなくても肝生検はありえない。
それは使う「薬」を決めるためにやる検査であり、「薬」を使わないのならやってもただ「リスク」を負うだけだ。
MRIをやってみるという手もあるが、私は喘息で造影剤が使えないので、期待するほどの情報は得られないかもしれない。
とりあえず、読影のプロである放射線科医に診てもらって、その結果を待つことにした。
もし転移がんだったらまず「ホルモン療法」を勧められるはずだ。
転移したということは、目に見えない状態のものも含めて体中に拡散しているということであり、手術のような局所的な治療はもはや意味がない。
HER2陰性でハーセプチンも使えないから、残るのは「抗がん剤」と「ホルモン療法」だ。
「抗がん剤」は効くかどうかやってみないとわからないので、ホルモン陽性である以上、まずは「ホルモン療法」からやってみようというのが妥当な選択だろう。
予想通り、先生も「ホルモン療法」を勧めてきた。
でも断った。
そこにいたるまでの経緯は今まで散々書いてきたが、私にはやっぱり抗ホルモン剤も「効果より害のほうが大きい」としか思えないからだ。
先生は、驚くほどあっさりとそれを受け入れてくれた。
正直、「抗ホルモン剤くらいはやってみてもいいんじゃないか」という雰囲気だったが、私がいやだというのならそれはしかたがないという感じだった。
それだけではない。
「今までの経緯を考えたら、小春さんがそういう選択をするというのはよくわかる。僕は無治療大賛成。本当は抗がん剤なんて大ッ嫌いだよ。あんなもん苦しいばっかりで思うほど効かないし、研究すればするほど西洋医学の限界がわかって『がんは治せない』と痛感させられる。医者として今できる治療法を提示することはできるし、希望する患者さんにはやるけど、『やりません』って言われたら『そうだろうなあ』と思うよ」という爆弾発言まで…!
腫瘍内科医が抗がん剤効かないって……言い切ったね(^_^;)
がんを治そうと必死につらい治療に耐えている患者からしたら「医者がそんな頼りないこと言ってどうすんだよ。ふざけんなヽ(`Д´)ノ」と言いたくなる発言かもしれないが、私はここまで正直なのってすごいなと思ったよ。
他でもない、誰よりもがんを治す薬について考えている立場だからこそ、その結論にいたるまでの葛藤や悔しさはいかばかりだったかと思うと、逆にとても信頼できる先生だと思えた。
そう。
残念ながらがんは頑張っても「治せない」。
その「絶望」はまず受け止めなければならない。医者も患者も。
でも、人は誰でもいつかは確実に「死ぬ」。
そしてその死因は「がん」である確率がとても高い。ということはたしかだ。
そう考えると、遅かれ早かれ人は「がん死」するのだと考えるべきなのだろう。
それでも「治らないこと」イコール「絶望」では決してないと私は思う。
それこそ、がんができることも、広がることも、消えることも、人智の及ばぬことなのだから、人間の手で思うようにできないからといって絶望することはない。
がんになったら終わり。ではなく、がんになってからが本当の「生」だと思う。
何を選択するかはその人自身の生き方にかかわってくる。
医者はその部分にまでは踏み込めないのだ。
医者も患者も「がんは治せない」という「絶望」にまずは謙虚に向かうべきだ。
その「絶望」からのみ「希望」は生まれる。
肝臓以外にも異常はあったんだけど、それはまた次回。
このところ、過去の話や母の話を書いたりして、現状の話を更新していなかった。
目の手術の話は別にして、現在進行形の記事は2009年9月18日でストップ。かれこれもう2年近くがたとうとしている。
乳がんを発症し、いろいろ悩みつつ西洋医学的に「無治療」という道を選び、唯一おこなっていた鍼治療で明らかに腫瘍が縮小していったこと。
そこまでで話は終わっていたと思う。
その後どうなったか?
じつはまたあらたな動きがあったので、ここから新しい章を起こすことにする。
章のタイトルはまだあえて決めない。
自分でもこの先どうなってしまうのかわからないからだ。
「乳がん」の章の最後の記事以来、やっていることに変わりはない。
手術もしていないし、抗がん剤も放射線治療もホルモン療法もやっていない。
漢方も途中でやめてしまった。
続けているのは鍼灸治療のみ。
L病院の乳腺科へは定期的なエコーチェックで足を運ぶだけだった。
エコー上の腫瘍の大きさは、乳がんと確定された2009年7月6日時点のエコーでは27×20ミリだったが、鍼灸治療を9回おこなってから測定した9月11日のエコーでは18×13ミリ、10月23日のエコーではさらに縮小して15×12ミリに。
以降、だいたい2ヶ月に一度のペースで測定をおこなってきたが、最新の計測(昨年の12月24日)では10×8ミリにまでなっていた。
南田先生(仮名)は、最初のうちこそ「そんなはずはない」と疑わしい目を向けていたが、一度も大きくなることなく縮小を続けている画像データを見ているうちに、ついに最後は何も言わなくなってしまった。
「病院に通うのも大変でしょうから、次は半年後でいいですよ」と言われたときは、「このままフェードアウトして出ていってくれないかな」という投げやりな願望の色すら見えた。
しかし、私の体調はずっと良いわけではなかった。
2009年は母が亡くなるという大きな出来事でストレスはマックスだったし、2010年はうつ状態から抜けたと思ったら左腕の骨折で聖路加に入院、さらに目の手術やその他もろもろのイベントで忙殺されるなど、息つく暇もなくさまざまな出来事に翻弄され続けた。
その疲れが2010年秋頃から積もり始め、慢性的に疲労感を感じるようになった。
思えば以前はもっとひどい状態だったのだが、鍼で一回良い体調を経験してしまっただけに、その後の体調悪化は前よりもつらく感じた。
なによりも骨折をきっかけに腕のむくみが悪化したのが打撃だった。
リンパ浮腫があるから手術ができず、固定で骨がつくまで待つしかなかったのだが、骨折の炎症でむくみがひどくなったうえ、長期間の固定のせいで筋力はガタ落ち。しばらくはリハビリもできないほど浮腫の状態が悪くなった。
腕の重さは想像を絶するほどで、ただでさえ筋肉の落ちた左肩では腕を支えきれず、ただ腕を下におろしているだけで脱臼寸前状態。三角巾で吊ると今度は首に腕の重みがめりこんで前に倒れそう、といった具合だった。
試行錯誤の末、聖路加のリハビリ室で肩全体をカバーする最新型のアームスリングを提供してもらい、それをしている間は腕の重さを軽減できるようになった。
とはいうものの、腰と首両方で重みを支えるため、不自由な腕でこれを着脱するのは大変難儀。さらに、これをつけるとリュックが使えなくなるので、荷物は今まで以上に体の負担になった。
つけてもつけなくても楽にはなれないが、そんな中でも鍼通い、病院通いは続く。
少し前までは、腰のあたりまでなら肘を曲げて左腕をなんとかひき上げることができたのに、今ではまったくあがらなくなった。
診察券や財布の出し入れひとつにしても命がけで気合いを入れて取り組まないと乗り越えられないが、周囲は「なにがどうそんなに大変なのか」なんてわからないので、人と同じ行動をするのが日に日に負担になっていった。
もちろん、不自由なのは家の中でも同様だ。
身の回りのことがどんどんできなくなる。
脱いだ服を裏返せない。ハンガーにかけられない。洗濯物を干せない。たためない。封書から書類を出せない。しまえない。
ささいなことの積み重ねが澱のように疲労として体に蓄積されていく。
手伝ってもらうといっても、ここまで細かいことはなかなかまわりには頼めない。
人に見られたくないもの、触られたくないものだってある。
思いあまって地域の福祉事務所に相談に行ったら「ヘルパー支援の申請」と「障害認定等級の格上げ申請」を提案された。
現在、私の障害等級は3級だが、左手がまったく持ち上がらない、握れないとなると、2級の認定がおりるのではないかというのだ。
2級になったから何かが解決するというわけではないのだが、3級と2級の壁はけっこう大きいので、2級以上でないと受けられない支援はいろいろあるらしい。
「ヘルパー申請」については、管轄が区役所になるので、まずは申請をして、区役所からの訪問調査で「ヘルパー派遣」が必要な状態なのかどうかを判断され、認可がおりたところで事業所からヘルパーが派遣されてくるという。
ただ、同居している家族がいると認可がおりるのはかなり難しいと言われた。
介護保険だとまたべつなんだけど、私はまだまだ介護保険が使える年齢ではないので、非常に中途半端な位置にある。
年齢で区切るっていうのもよくわからない話だが…。
そんなわけで、急にさまざまな診断書が必要になってきた。
そこではたと気がついた。
私って「主治医」がいないかも…。
乳がんの経過は乳腺科医が診ているが、ここでは腕の障害については診てくれない。
ホジキンはもう寛解して久しいので血液内科の出番もない。
麻痺のもともとの原因は放射線だが、放射線科とは確執がいろいろあってもう縁が切れてしまった。
眼科は術後の経過を診てもらっているだけだから関係がない。
呼吸器内科も喘息を診てもらっているだけだからやっぱり腕は関係ない。
かろうじて今回の書類までは整形外科が書いてくれるだろうだが、ここだってたまたま骨折でかかったから担当してくれただけで、骨折が治った以上、もとからある障害についていつまでもかかわってはくれないだろう。
あらためて「漂流難民」であることを実感した。
私の体は、どこから何が飛び出すのかわからない「びっくり箱」のようなものだ。
その都度飛び出してきたものを診てくれる人はいても、箱そのものを引き受けてくれる人はいない。
本来ひきうけるべき相手が職務を放棄してしまったのだからしかたがない。
飛び出して来たものを中に押し込んだら、その人もまたどこかへ去っていく。
次に飛び出してきたらそれはそれでまた別の人が押し込むだろうが、私はそのたびに「びっくり箱」の成り立ちについて説明しなければならず、その情報は決して積み上がってはいかない。
そんなことをボーッと考えながら聖路加の院内をフラフラ歩いていたら、一条先生(仮名)とバッタリ会った。
一条先生は、腫瘍内科医で、母の主治医だった先生だ。
奥さんの一条先生(ブレストセンター)のほうは外科医で、そもそも私が聖路加と縁ができたのはセカンドオピニオンでブレストセンターの一条先生に会ったことが始まりだった。
一条先生に現在の状況を聞かれ、「主治医がいない苦悩」について語ったところ、「医療連携室」に相談をもちかけてくれた。
そこで言われたのは、「一般内科で診てもらったらどうか?」という意見だった。
一般内科は、いわゆる総合診療科と呼ばれる科で、細分化してしまった日本の医療界ではなかなか人材が育たないらしいのだが、アメリカでは「総合診療」そのものが高度に専門化していて、発達しているらしい。
聖路加では今その人材が揃いつつあるということで、病気の範囲が多岐にわたっている患者には最適だという。
そう聞くと、自分が求めていた「主治医」がそこにいる気がして、一気に道がひらけたように思ったが、現実はそう甘くはなかった。
実際に一般内科の先生を紹介してもらえるまでには何週間もかかり、あげくのはてに橋渡しをしてくれた看護師さんから「いろいろ状況を聞いたら、やはり一般内科では難しい気がしてきた」と言われてしまった。
理由はいろいろあったが、結局そこまで病歴の多い患者を途中から診るのは難しいということと、後遺症というのは病気とは違うから、おおもとの原因にかかわったところでしか診ることができないということ、大きな病院は医師が頻繁にチェンジするので、長くつきあってもらうのはシステム的に難しいということ……このへんがネックのようだった。
言われればいちいちもっともなのだが、期待しただけに落胆は大きかった。
やっぱりまた難民か……。
一般内科にも断られたらもう行くところはないな。
私は主治医をもつことを諦め、再びいろいろな科を、避難所を渡り歩くように移動するようになった。
そんなある日、私はまたバッタリと一条先生に会った。
「一般内科の件、どうなった?」と聞かれたので、断られたという話をしたところ、「えーーー、なんだよ!一般内科いいと思ったのに」とがっかりしたような反応。
「なんだよ」って言われても……。
ていうか、それこっちが言いたいセリフだし。
と思いつつ黙ってたら、次の瞬間意外な言葉が。
「うーーん……じゃあ僕んとこ来る?」
えーーーーーーー!!!
行っていいのぉおお?!!
抗がん剤やらないけど、ホルモン療法もやらないけど、それでもひきうけてくれるの?
私は捨てられた子犬がすがるようなウルウルした目で一条先生を見た。
こうして私に「主治医」ができた。
今日の話はここまで。
目の手術の話は別にして、現在進行形の記事は2009年9月18日でストップ。かれこれもう2年近くがたとうとしている。
乳がんを発症し、いろいろ悩みつつ西洋医学的に「無治療」という道を選び、唯一おこなっていた鍼治療で明らかに腫瘍が縮小していったこと。
そこまでで話は終わっていたと思う。
その後どうなったか?
じつはまたあらたな動きがあったので、ここから新しい章を起こすことにする。
章のタイトルはまだあえて決めない。
自分でもこの先どうなってしまうのかわからないからだ。
「乳がん」の章の最後の記事以来、やっていることに変わりはない。
手術もしていないし、抗がん剤も放射線治療もホルモン療法もやっていない。
漢方も途中でやめてしまった。
続けているのは鍼灸治療のみ。
L病院の乳腺科へは定期的なエコーチェックで足を運ぶだけだった。
エコー上の腫瘍の大きさは、乳がんと確定された2009年7月6日時点のエコーでは27×20ミリだったが、鍼灸治療を9回おこなってから測定した9月11日のエコーでは18×13ミリ、10月23日のエコーではさらに縮小して15×12ミリに。
以降、だいたい2ヶ月に一度のペースで測定をおこなってきたが、最新の計測(昨年の12月24日)では10×8ミリにまでなっていた。
南田先生(仮名)は、最初のうちこそ「そんなはずはない」と疑わしい目を向けていたが、一度も大きくなることなく縮小を続けている画像データを見ているうちに、ついに最後は何も言わなくなってしまった。
「病院に通うのも大変でしょうから、次は半年後でいいですよ」と言われたときは、「このままフェードアウトして出ていってくれないかな」という投げやりな願望の色すら見えた。
しかし、私の体調はずっと良いわけではなかった。
2009年は母が亡くなるという大きな出来事でストレスはマックスだったし、2010年はうつ状態から抜けたと思ったら左腕の骨折で聖路加に入院、さらに目の手術やその他もろもろのイベントで忙殺されるなど、息つく暇もなくさまざまな出来事に翻弄され続けた。
その疲れが2010年秋頃から積もり始め、慢性的に疲労感を感じるようになった。
思えば以前はもっとひどい状態だったのだが、鍼で一回良い体調を経験してしまっただけに、その後の体調悪化は前よりもつらく感じた。
なによりも骨折をきっかけに腕のむくみが悪化したのが打撃だった。
リンパ浮腫があるから手術ができず、固定で骨がつくまで待つしかなかったのだが、骨折の炎症でむくみがひどくなったうえ、長期間の固定のせいで筋力はガタ落ち。しばらくはリハビリもできないほど浮腫の状態が悪くなった。
腕の重さは想像を絶するほどで、ただでさえ筋肉の落ちた左肩では腕を支えきれず、ただ腕を下におろしているだけで脱臼寸前状態。三角巾で吊ると今度は首に腕の重みがめりこんで前に倒れそう、といった具合だった。
試行錯誤の末、聖路加のリハビリ室で肩全体をカバーする最新型のアームスリングを提供してもらい、それをしている間は腕の重さを軽減できるようになった。
とはいうものの、腰と首両方で重みを支えるため、不自由な腕でこれを着脱するのは大変難儀。さらに、これをつけるとリュックが使えなくなるので、荷物は今まで以上に体の負担になった。
つけてもつけなくても楽にはなれないが、そんな中でも鍼通い、病院通いは続く。
少し前までは、腰のあたりまでなら肘を曲げて左腕をなんとかひき上げることができたのに、今ではまったくあがらなくなった。
診察券や財布の出し入れひとつにしても命がけで気合いを入れて取り組まないと乗り越えられないが、周囲は「なにがどうそんなに大変なのか」なんてわからないので、人と同じ行動をするのが日に日に負担になっていった。
もちろん、不自由なのは家の中でも同様だ。
身の回りのことがどんどんできなくなる。
脱いだ服を裏返せない。ハンガーにかけられない。洗濯物を干せない。たためない。封書から書類を出せない。しまえない。
ささいなことの積み重ねが澱のように疲労として体に蓄積されていく。
手伝ってもらうといっても、ここまで細かいことはなかなかまわりには頼めない。
人に見られたくないもの、触られたくないものだってある。
思いあまって地域の福祉事務所に相談に行ったら「ヘルパー支援の申請」と「障害認定等級の格上げ申請」を提案された。
現在、私の障害等級は3級だが、左手がまったく持ち上がらない、握れないとなると、2級の認定がおりるのではないかというのだ。
2級になったから何かが解決するというわけではないのだが、3級と2級の壁はけっこう大きいので、2級以上でないと受けられない支援はいろいろあるらしい。
「ヘルパー申請」については、管轄が区役所になるので、まずは申請をして、区役所からの訪問調査で「ヘルパー派遣」が必要な状態なのかどうかを判断され、認可がおりたところで事業所からヘルパーが派遣されてくるという。
ただ、同居している家族がいると認可がおりるのはかなり難しいと言われた。
介護保険だとまたべつなんだけど、私はまだまだ介護保険が使える年齢ではないので、非常に中途半端な位置にある。
年齢で区切るっていうのもよくわからない話だが…。
そんなわけで、急にさまざまな診断書が必要になってきた。
そこではたと気がついた。
私って「主治医」がいないかも…。
乳がんの経過は乳腺科医が診ているが、ここでは腕の障害については診てくれない。
ホジキンはもう寛解して久しいので血液内科の出番もない。
麻痺のもともとの原因は放射線だが、放射線科とは確執がいろいろあってもう縁が切れてしまった。
眼科は術後の経過を診てもらっているだけだから関係がない。
呼吸器内科も喘息を診てもらっているだけだからやっぱり腕は関係ない。
かろうじて今回の書類までは整形外科が書いてくれるだろうだが、ここだってたまたま骨折でかかったから担当してくれただけで、骨折が治った以上、もとからある障害についていつまでもかかわってはくれないだろう。
あらためて「漂流難民」であることを実感した。
私の体は、どこから何が飛び出すのかわからない「びっくり箱」のようなものだ。
その都度飛び出してきたものを診てくれる人はいても、箱そのものを引き受けてくれる人はいない。
本来ひきうけるべき相手が職務を放棄してしまったのだからしかたがない。
飛び出して来たものを中に押し込んだら、その人もまたどこかへ去っていく。
次に飛び出してきたらそれはそれでまた別の人が押し込むだろうが、私はそのたびに「びっくり箱」の成り立ちについて説明しなければならず、その情報は決して積み上がってはいかない。
そんなことをボーッと考えながら聖路加の院内をフラフラ歩いていたら、一条先生(仮名)とバッタリ会った。
一条先生は、腫瘍内科医で、母の主治医だった先生だ。
奥さんの一条先生(ブレストセンター)のほうは外科医で、そもそも私が聖路加と縁ができたのはセカンドオピニオンでブレストセンターの一条先生に会ったことが始まりだった。
一条先生に現在の状況を聞かれ、「主治医がいない苦悩」について語ったところ、「医療連携室」に相談をもちかけてくれた。
そこで言われたのは、「一般内科で診てもらったらどうか?」という意見だった。
一般内科は、いわゆる総合診療科と呼ばれる科で、細分化してしまった日本の医療界ではなかなか人材が育たないらしいのだが、アメリカでは「総合診療」そのものが高度に専門化していて、発達しているらしい。
聖路加では今その人材が揃いつつあるということで、病気の範囲が多岐にわたっている患者には最適だという。
そう聞くと、自分が求めていた「主治医」がそこにいる気がして、一気に道がひらけたように思ったが、現実はそう甘くはなかった。
実際に一般内科の先生を紹介してもらえるまでには何週間もかかり、あげくのはてに橋渡しをしてくれた看護師さんから「いろいろ状況を聞いたら、やはり一般内科では難しい気がしてきた」と言われてしまった。
理由はいろいろあったが、結局そこまで病歴の多い患者を途中から診るのは難しいということと、後遺症というのは病気とは違うから、おおもとの原因にかかわったところでしか診ることができないということ、大きな病院は医師が頻繁にチェンジするので、長くつきあってもらうのはシステム的に難しいということ……このへんがネックのようだった。
言われればいちいちもっともなのだが、期待しただけに落胆は大きかった。
やっぱりまた難民か……。
一般内科にも断られたらもう行くところはないな。
私は主治医をもつことを諦め、再びいろいろな科を、避難所を渡り歩くように移動するようになった。
そんなある日、私はまたバッタリと一条先生に会った。
「一般内科の件、どうなった?」と聞かれたので、断られたという話をしたところ、「えーーー、なんだよ!一般内科いいと思ったのに」とがっかりしたような反応。
「なんだよ」って言われても……。
ていうか、それこっちが言いたいセリフだし。
と思いつつ黙ってたら、次の瞬間意外な言葉が。
「うーーん……じゃあ僕んとこ来る?」
えーーーーーーー!!!
行っていいのぉおお?!!
抗がん剤やらないけど、ホルモン療法もやらないけど、それでもひきうけてくれるの?
私は捨てられた子犬がすがるようなウルウルした目で一条先生を見た。
こうして私に「主治医」ができた。
今日の話はここまで。
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お読みになる前に…
年が明けて、三度目のがんがみつかってしまいました。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
別サイト「闘病、いたしません。」で第1部「悪性リンパ腫」から順次更新中です。
このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
25年間で新たながんが3回……さすがにこれはないでしょう。
がん治療ががんを呼び、また治療を勧められてがんを呼び……はっきり言って「がん治療」成功してないです。
私は「生きた失敗作」です。
医者は認めようとしませんが、失敗されたうえに「なかった」ことにされるのは耐えられません。
だから息のある限り語り続けます。
「これでいいのか?がん治療」……と。
漂流の発端をたどると1988年から話を始めることになります。
西洋医学の限界とともに歩んできた私の25年間をご覧ください。
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このブログでは第4部「乳がん」から掲載されています。最新の状況はこちらのブログで更新していきます。
プロフィール
HN:
小春
HP:
性別:
女性
職業:
患者
自己紹介:
東京都在住。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
2013年(50歳)
照射部位にあたる胸膜〜縦隔にあらたな腫瘤が発見される。
過去の遺産を引き続き背負って無治療続行。
1988年(25歳〜26歳)
ホジキン病(悪性リンパ腫)を発病し、J堂大学附属J堂医院で1年にわたって化学療法+放射線治療を受ける。
1991年(28歳〜29歳)
「再発」と言われ、再び放射線治療。
1998年(35歳)
「左手の麻痺」が表れ始める。
2005年(42歳)
麻痺の原因が「放射線の過剰照射による後遺症」であることが判明。
2006年(43歳)
病院を相手に医療訴訟を起こす。
2009年(46歳)
和解成立。その後放射線治療の二次発がんと思われる「乳がん」を告知される。直後に母ががん転移で死去。
迷いに迷ったすえ、西洋医学的には無治療を選ぶ。
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